002
学校に着くまでの間、相変わらずシミュラクル結界の効果なのか、他の生徒たちの会話模様はいつも通りだった。曇り空の下、いつものように生徒たちが登校している風景。
カバンの中の箱を通して、ルーネが声をかけてくる。
『あ、念のため言うけれど、伊里院さんには気を付けてよ。昨日何事もなかったからいいけど、まだ疑ってる可能性はあるわけだし』
『分かってるって。まあ大丈夫だろ。暗示でも普通の会話でも乗り切って見せるさ』
予想通り、彼女は教室にいた。いつものように染めた髪を後ろで束ね、着崩した制服姿。しかし、この前会った時とは違う点があった。
「あれ、灯音どしたんその傷」
クラスメイトの1人が彼女の頬を指差す。そこに貼ってあったのは大きめの絆創膏だった。昨日彼女はあの場にいた。その中で巻き込まれた時にできた傷なのか。
「あ、聞いてよー。昨日階段でコケてさー、すりむいちゃったんだよね」
その言葉にピクリ、と何かが反応した。気になってつい聞き耳を立てる。
「えー、灯音にしては珍しいね。身体能力お化けだし怪我なんてしないと思ってたのに」
「なにそれ、再生的な? ないない。つか身体能力かんけーないっしょ」
アハハ! と伊里院さんたちの女子グループから笑い声が聞こえる。その様子を把握したルーネがぼそりと言う。
『昨日追われたときは、あんなの貼ってなかったけど』
(もしかして……)
あの機体に乗っていたのは伊里院さんではないだろうか。そんな予感が脳裏によぎる。復元機関のメンバーであれだけの権限を持っているのだから、竜術機に乗っていてもおかしくはない。あの場で自分の足で追ってこなかったのも、竜術機に乗り換えるためだとしたら説明は付く。
(……まさか、そんな訳ないよな)
余計なことが頭をよぎり首を振る。復元機関のメンバーだろうが、もう今日が過ぎれば会うことのない同級生だ。
「ほれ、出席取るぞ席につけ—」
朝のHRが始まり、ばらばらと立っていた生徒が席について行く。それからの授業は一つも頭に入ってこなかった。
昼休みのチャイムが鳴って、教室から出て購買にパンを買いに行く。普段はまかないの残りを入れた雑な弁当や安い5本100円のスティックパンで済ませてしまうのだが、最後くらいは少し豪華な、普段は食べない500円以上のパンが食べたくなったのだ。
廊下をのんびりと歩いていると、背後からふと誰かの気配がする。
「あ、おーい、空木くん!」
振り向くと、予想通りそこにいたのは伊里院さんだった。自然を装っているが、どう考えても追いかけてきたのが見え見えだ。しかし、そうこちらが思っていることは悟られてはならない。自分は何も関係ないただの高校生だったんだ、と諦めてもらうまでは。
「どうしたの、伊里院さん」
「そうそう! 先週の土曜さ、駅ビルの映画館にいなかった?」
そら来た。やはりまだこちらを疑っている。どうにかして探りを入れに来たのだろう。
だが今回は昼休みの教室で他の生徒の目があるから暗示は使えないはずだ。ここは普通の会話のみで誤魔化す必要がある。
「あー、そうそう。映画見に行ってたよ。伊里院さんもいたの?」
「ううん、あの辺にいたんだけどたまたま空木くん見かけたんだよねー、映画館にいたの。なに見てたの?」
「『バットナイト・ロングハロウィン』。ほら、最近話題になってたし」
もちろん、自分があのビルにいた時間に上映していた映画だ。この映画は3時間10分の大長編ヒーロー映画、内容も事前に把握したし、何を聞かれても答えられる。
「へ、へぇー、そうなんだ。面白そう! あたしも見てみよっかな」
伊里院さんが少し気恥ずかしそうに眼を逸らす。なぜ照れたような表情を浮かべているのだろうか。
「うん? 面白かったよ。伊里院さんも映画好きなら見ればいいと思う。最近の話題作だし」
「そうなんだー……ふうん……」
そこで会話が途切れてしまった。どうにも調子が狂う。こちらを探りに来たのだと思っていたのに。こちらをじろじろと見ているのは相変わらずなのだが。
この微妙な空気をどうしようか――考えあぐねていたちょうどその時、別方向から声がかかる。
「おーい、空木」
担任の相原先生が、いつものジャージ姿でどたどたとこちらに走り寄ってくる。
「先生、どうしたんですか。そんな急いで。なんか当番とか忘れてました?」
「あー、いやとにかく至急だ至急。お前の母ちゃんから電話だ。職員室に来てくれ」
一瞬聞き間違えたかと思った。母さんが、俺に?
まずありえない。学校の三者面談すら一度も来ない人が、わざわざ学校経由で電話をしてくるなんて。
「今どき珍しいよな、わざわざ学校に電話なんて。家族への連絡なんてスマホにかけりゃ一発だってのに。なあ?」
悪い予感がした。しかし伊里院さんの目の前だ、何だとしても応じるしかない。
「わ、分かりました。急いで行きます。じゃ、そういうことで」
伊里院さんに手を振りながら、やや早歩きで職員室に向かう。
職員室に走り去っていく雪迦の背中を、伊里院灯音は複雑な表情でじっと見つめていた。




