夜の山にはシャベルを持ったヤクザがいる
走る。走る。山の中を少女は走る。
身に纏った服は、藪や小枝に引っかかってボロボロになっている。ヒラヒラした上衣は走るのに邪魔で捨ててしまった。上流階級の証左であろう仕立ての良い柔らかな長い丈のスカートは、太ももから裂けてしまっていた。脚には細かい擦り傷が無数についている。自慢の艶やかな長い黒髪も乱れに乱れてしまっている。
どれくらい走ったのだろう、荒い息を吐きながら、レイラは考える。整えられてない山中の荒れた道を、はっきりと周りも見えない中、闇雲に駆けてきた。まだ逃げきれてはいない。そう遠く無い背後から、怒声が聞こえて来る。
辺りは暗い。雨こそ降ってないが、月は雲に隠れ、星もまばらにしか見えない。足元すらおぼつかない深い闇が、レイラが逃げるのに一役かってくれた。しかし、彼女の脚はそろそろ限界が近づいていた。虫の音に混じってガサガサと、人の動く音が近づいて来るのがわかる。
レイラは必死で考える。藪に逃げ込むんで身を潜めるべきだろうか、それとも、林の中に駆け込んでなんとか隠れられないか試してみるか、居場所がバレるのは覚悟で斜面を滑り落ちるか、焦りで考えがまとまらない。
(落ち着け、落ち着くの。頭を使って! 絶対に捕まるわけにはいかない。そう、一か八かにはかけられないわ。斜面はなし。藪の中も見つかったら終わり。林の中に逃げて、隠れながら移動する。それで見つかったら……。いい、その時は死ぬだけよ)
時間がなかった。レイラは山道から緩やかな斜面に降りて、身を低くしながら木の影に隠れた。音を立てないように、座り込んだ状態から両手両脚を使って這うように山を降っていく。
(どうして……、こんな事に……)
遡る事三刻ほど前、レイラは、己の国から脱出するために馬車でひっそりと移動していた。
大陸の覇者アトレイア帝国の支配下に入った西方三カ国、商業国家バルタザール、観光国家イクティージア、農業国家デグズムンド。レイラはバルタザールの姫だった。小国で、王や王妃自らが帳簿仕事をやる程度の雑駁な国家ではあったが、レイラは平穏な国が好きだった。
しかし、5年前、圧倒的な戦力を持つアトレイア帝国に降伏してから、バルタザールは変わった。食料は買い叩かれ、国内に回らなくなり、治安は悪化。バルタザールの文化、歌や踊り、伝統的な衣服は禁止。バルタザール語の書物は焼かれ、文書、公での言語はアトレイア語を強制された。警察権も掌握したアトレイア人はバルタザールではやりたい放題だった。治安の悪化と国家への不満が高まる中、帝国は人質としてただ1人の王女であるレイラを差し出すよう王家に要求した。国内の不満分子を爆発させて、より一層の弾圧を行う為、そして王家への警告として。
父であるバルタザール国王は、密かにレイラを隣国デグズムンドへ逃そうとした。そうして、ひっそりと目立たぬようにバルタザールを出発した馬車は、デグズムンドへ向かう山道を進んだ所で賊に襲われた。賊は、褐色の肌に黒髪を隠そうともしないアトレイア人だった。レイラは、護衛たちになんとか逃がしてもらえたが、たった1人、山中を逃げ回ることしかできなかった。
おそらく、護衛は全員死んだのだろう。「すぐに帰ってこれますからな。ワシが姫さんを守るから安心してください」と、いたわしそうにレイラを励ましてくれたおじさんも、「逃げてください」と必死に叫んで追手を食い止めてくれた青年も、「重く考えない事ですよ。ちょっとお隣さんに観光にいくだけですよ」と軽口を叩いていた壮年の男も。
恐怖で、足が震える。アトレイアに人質に出された姫の噂は耳にしている。半年で、遺体すらなく死亡の連絡のみが送られてきた賢姫。一年で、別人のように痩せ細り寝たきりとなって送り返された姫騎士。両親の姿すら認識できなくなり、虚ろな目をして譫言をいうだけになった壊れた美姫。何を聞かれてもごめんなさいと奴隷の作法で謝罪するだけになった歌姫。
目に涙が滲む。
(しっかりしろ。まだ終わってない。逃げて、生きて、バルタザールに帰るんだ)
斜面の上、山道の方から人の声がする。
「いたか?」
「こっちにゃいねえ」
「そう遠くには行ってないはずだ。その辺に潜んでるかもしれん。半分はここらの茂みを探せ。半分は道沿いに進むぞ」
(逃げないと……。あっ……)
疲労と恐怖はレイラから慎重さを奪った。足元を踏み外し、そのまま斜面を転がる。ガサガサと音をたてて、数回転しながらようやく平らになったところまで転がり落ちて止まった。
(まずい、気づかれた……)
全身が打撲と擦り傷で痛む。手足に力も入らない。
(でも、動かないと。逃してくれた人達のためにも……)
「おや、嬢ちゃん、すげえ格好だな? 夜逃げでもしたのか?」
知らない男の声が、すぐ近くから聞こえた。ビクリと全身が跳ねた。絶望が頭をよぎる。逃げきれなかったのだ。斜面を転がり落ちて、よりによって追手の元へ転がり落ちてしまったのだろうか。後退りながら、そちらに目をむける。奇妙な男が2人、そこにいた。
1人は堂々とした体躯に髪を前から後ろに撫で付けた、目つきの鋭い黒目黒髪の男。同胞なのだろうか。今では禁じられた大昔のバルタザールの民族衣装のような格好をしている。上から下まで紺色の一枚衣装を体に巻きつけて帯で止め、帯には刀を刺している。
もう1人は、痩身の、明るいウェーブのかかった茶色い髪を左右に撫で付け、この暗闇にもかかわらず丸い黒眼鏡をかけた男。体にピッタリした、手首から足首までを覆う、白い上衣とズボンをボタンで止めた、見たこともない珍妙な服を着て、こちらはシャベルを手にしている。
こちらの黒眼鏡が、声をかけてきた方のようだった。
「あなた達、何者ですか?」
警戒しながら問う。
「何者っても、しがないヤクザだけどよう。あれ? 嬢ちゃんなんか警戒してる? 俺ちゃんたち怪しいもんじゃないぜ。ちょっと穴掘ってただけだよ」
「夜中に白いスーツ着て、山ん中で穴掘ってりゃ十分怪しいだろう。それは事件だよ」
「俺ちゃんのこだわりの一張羅に文句つけちゃう? いくら兄弟だからって、そこは曲げらんないなあ。大体兄弟だって着流しに刀って通り魔じゃん」
「着流しに刀は古き良き時代の極道だろうが、スーツにスコップは生々しさが違うっていうかなあ」
訳のわからないやりとり聞いているうちにレイラの頭も冷えてきていた。どうやらアトレイアの追手ではない。
「すまないが急いでいます。あなた達には申し訳ないですが私はアトレイアの軍に追われている。もうすぐ山から追手が降りて来ます。私は死ぬ気で争うつもりですが、あなた達は、厄介ごとに巻き込まれたくなければ早くここを去ったほうがいい」
「いいねえ、嬢ちゃん、アンタ、バルタザール人だろ? 傷だらけ、武器はなし。追手が軍。その状況で、武器持ったおそらく、敵ではない人間と出会って頼るでもなく逃げろっていうのかい?」
黒眼鏡の男はいっそ面白そうにレイラに問いかけた。
「民間人2人でアトレイアの軍人に敵うはずもない。私はこれでもバルタザールの王族です。王族の誇りにかけて民間人を守る義務がある。それに、先程私の護衛が5人殺されました。もう、今日は死体をみすぎたんです。これ以上死体を見たくない。早く逃げてください」
黒眼鏡の男は口笛を吹きながら拍手する。
「ヒュー。すげえや嬢ちゃん。アンタ、いい女になるぜ。なあ、兄貴、この嬢ちゃんならいいんじゃないか。俺は気に入った。条件にもちょうどピッタリだ」
もう1人の刀の男が頷く。
「こちらに来るなりこれとはな。幸先がいいのか悪いのか」
刀の男は、レイラの方を向いて続けた。
「アトレイアは、俺たちにも敵だ。俺たちが、アンタを守る。約束しよう。俺は交わした約束は何があっても守る」
体格と目つきのせいで威圧感があるが、どことなく愛嬌のある男だった。
黒眼鏡の男が続ける。こちらは、軽い口調の割に、どこかヒヤリとする様な恐さを感じる。
「ただって訳じゃない。ヤクザだからな。嬢ちゃんを守ったら、代わりに、俺ちゃんたちに力を貸してほしい」
「何を言っているんですか? アトレイア軍人はデバイス持ちです。民間人が2人で叶うはずがありません。いいから逃げて!」
「どこに、逃げるって?」
背後から、蛇の様な声が響いた。