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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

未商業短編

僕は王子様にはなれないけれど、

「王子を殺して帰っておいでなさい。魔女の短刀で刺して血を浴びれば、あなたは人魚に戻れるわ」


 僕が恐ろしい真実を聞いてしまったのは、花嫁花婿となった王子と姫が、船上で初夜を過ごす夜を夜警しているときだった。


「お願いだから帰ってきて。あなたが心配で、人魚の世界は毎日啜り泣きが聞こえない日がないわ。父上も、おばあさまもすっかり……」

「王子が他の女と成就したならば、あなたは朝日に溶けて泡になって消えてしまう。全てを投げ打って恋をしたあなたが、王子のために消えなくてもいいじゃない」


 僕は口を両手で塞いで息を殺し、僕は壁に背をつけて耳を済ませた。

 空には満天の星。

 ゆらゆらと優しく揺れる甲板。

 東の空の端はちりちりと赤く染まっている。


 もうすぐ、朝がくる。


ーーー


 王子は()()()()()()()()()()として有名だった。

 五年前、16歳の誕生日に海難事故に巻き込まれた王子は、人魚に魅入られたから船を壊されたのだと噂されていた。

 人魚は嵐を呼び人間を溺れさせ、人魚の国へと連れていく妖と考えられている。だから漁師は普通、人魚が顔を出す日は船を出さない。しかし王家は「せっかくの王子の誕生日だから」と無理に船をだし、見事に海難事故を起こしてしまったのだ。

 人々は皆王家が阿保だと言うわけにもいかず、


「王子は人魚に魅入られているので、悲劇に遭った」


 というしかないのだ。

 この話からわかるように国王は愚鈍で、王子もまた阿呆だった。ただし笑顔と中身のない適当な挨拶だけは上手にできるので、政治の実権を議会に譲り渡した「お飾り王室」としては十分な存在だった。


 王子は黒目黒髪、美貌の阿呆。そして手に負えない色好みだった。10代にして顔と立場を利用して令嬢メイド尼僧家庭教師、相手を選ばず取っ替え引っ替え、身籠ってしまった女は身分に応じて将来の側室の約束を取り付けたり、手切金を渡したりしていた。


 だから王子がいきなり絶世の美貌の娘を拾ってきたのも、周囲は「いつものことか」と呆れるだけだった。むしろ天涯孤独で身元もわからない、何も喋らない娘だったので飽きたら捨てればいい、と安心したくらいだ。


 王子はその娘にアリアと名前をつけた。

 碧い瞳はまるで、空と海が溶け合ったような色。

 真っ白な肌は太陽に眩く照らされた翳りひとつない砂浜の色。

 そして誇らしく輝き波打つ真っ赤な赤毛は、珊瑚礁の色を写しとったように鮮やかで。


 王子はアリアの美貌を「僕の宝石」と称賛した。


 アリアは王子によって絹とモスリンで仕立てた高級なドレスを仕立てられ、ますます美しくなった彼女を、王子は人形を愛でるかのように寵愛した。

 普通の令嬢なら嫌がるような、野山に森に山にと、あちこちの遊びへと連れ回した。

 アリアは黙ってニコニコと、軽やかな足取りで付き従った。


 アリアは王子の寵愛を一身に浴びたので、王子の寵愛を求める女たちの恨みを買った。王子は色好みの阿呆だが腐っても王子。見目よくさらに身籠れば貴族令嬢なら側室確約の相手なので、貴族令嬢の恋の相手としては人気だったのだ。


「どこの馬の骨とも思えない不気味な娘ね。気持ち悪いったらありゃしない」

「どうせすぐ捨てられる雑巾だから、私たちの靴底を磨いてもよろしいわよね」


 アリアは言葉で言い返せない分、王子のいない場所ではさまざまな嫌がらせをされてきた。着替えられない場所でドレスを水浸しにされてしまったり、間違ったふりをして雨の庭園に閉じ込められたり。


 異常に猫に怯えることが発覚した次の日は、令嬢たちはこぞって自慢の猫をけしかけ、アリアを襲わせた。

 礼儀作法も知らない彼女のテーブルマナーは貴族令嬢たちの笑い物になった。

 女だけのサロンから泣きながら帰ってきた彼女を見たこともある。

 どうやら「服を返して欲しければ踊ってちょうだい」と下着姿で踊らされていたらしい。

 阿呆の王子に群がる女も皆阿呆だ。ただただゾッとするしかなかった。


 なぜそれらのいじめの実態を知っているのか。

 それは僕が、王子に命じられたアリアの世話役だったからだ。


ーーー


 アリアは喋らない娘だけど実は表情豊かで、何を考えているのかは目を見ればすぐにわかる。

 唇を読んで言葉のやりとりはできるから、きっととても賢い子なんだろう。


 けれど。

 賢さが滲んだ眼差しも、つぐんだ唇の美しさも、全てが令嬢たちの勘に障るのだろう。

 僕や王子の監視のない、女だけの場所で彼女がどんな扱いを受けているのか、憔悴していく彼女を見れば明らかだった。


 僕は世話役だけど、あくまで奴隷の一歩手前、平民育ちの従者だ。

 学も教養も家柄もないけれど、「アリアの世話役にはお前が都合がいい」と決められた者だ。


 こんな僕が令嬢に楯突いても、令嬢の耳には聞こえない。


「あら、羽虫が飛んでいますわね」


 僕がアリアを守ろうとすれば、遠慮のない扇の一閃がぴしゃりと飛ぶ。


「王子様に片づけてもらってもいいのよ? あなた」


 地に這いつくばった僕の手をハイヒールで踏みながら、令嬢は楚々と笑った。


「それとももっと、あの生意気な娘をいじめてやろうかしら?」


 僕は、無力だった。

 せめて僕は何度も、彼女に対するいじめを王子に訴えた。

 しかし王子はいつも、ニヤニヤと笑うばかりだった。


「しかし、彼女はこのままでは……」


 今日もまた、適当な調子であしらわれた。


「女たちのいじめくらい、可愛いものさ。肌に傷が残らないのだから好きにさせておけ」


 あれだけ寵愛しておきながら、王子はそんなことを言ってのけるのだ。


「おい、お前。道化がなぜ必要か知っているか?」

「道化、ですか……?」

「不満のガス抜きのために必要なのさ。僕がいろんな女から恨みを買っているのは当然知っている。だからアリアを連中に与えてやっているんだ」

「な……」

「アリアも行き場のない女だったんだ。王宮で不自由なく暮らして僕に愛されているのだから、少しは役に立ってもらわないとな」


ーーー


 王子に何を言っても埒があかない。

 かといって身分が低い僕が令嬢たちのいじめからアリアを庇っても、僕がクビになるか、アリアへのいじめが酷くなるだけだ。

 だから僕はせめて、アリアの味方でいるようにした。アリアが部屋に閉じ込められたら、すぐに合鍵を使って解放する。アリアが泥まみれで泣いていたら、すぐに風呂を準備させて入れるように手配する。

 髪飾りが壊されたら、野花をつんで髪に挿してあげた。


「ごめんね。僕の身分がもっと高ければ苦労させないのに」


 ある日、女たちのお茶会帰りのアリアを出迎えると、見事な赤毛がしっちゃかめっちゃかにされていた。髪結の遊びでもされたのだろうか。子供に与えるおもちゃの人形よりも悲惨だ。


「椅子に座って。僕が解いてあげるから」


 彼女は素直に頷き、庭園に置いた椅子に腰を下ろす。

 めちゃくちゃに乱された髪を解いてあげていると、頭が揺れる。

 アリアがこちらを見上げていた。


「痛かった?」


 僕が尋ねると、彼女は小さく首を振って否定する。

 ぽってりと可愛らしい唇が、ありがとう、と動いた。

 アリアはにっこりと笑う。いじめられっことは思えない、あまりに清純で、清らかな微笑みだった。陽の光のような眩しさで、海の輝きのような瑞々しさだった。

 感動と興奮で、僕は全身の肌がざわざわと粟立つのを感じた。嫌悪でなはなく恋の興奮でも鳥肌が立つのだと、僕はそのとき初めて知った。

 僕はアリアに恋をしたのだ。


 しかしアリアは酷い扱いを受けても、王子を熱っぽいような、慈愛のような眼差しで見守り続けていた。恋を知ってしまった僕は、アリアの饒舌な眼差しが、どんな気持ちを湛えて輝いているのかわかってしまう。

 彼女は心から王子に恋をしている。僕なんて目に入らないほどに。


 そして。

 王子が22歳の誕生日を迎えると同時に、隣国の姫と結婚する運びとなった。


ーーー


  ずっと公にはされていなかったが、隣国の姫は阿呆王子の婚約者だった。


 非公式だった理由の一つは王子の色好み。

 そしてもう一つの理由は、隣国の姫には隣国の法律により、数年間修道院で修める花嫁修行が必要だったこと。隣国の姫は修道女のように戒律に厳しく、貞淑かつ規律に厳格な姫らしい。

 隣国と我が国の力関係は、明らかに我が国の方が上。しかし隣国は他の帝国や別の強国と隣接した土地なので重要な婚姻だった。


 僕はずっと願っていた。王子の色好みが災いして潔癖な姫との決定的な婚約破棄になることを。

 しかし正式な婚約を結びに隣国へ赴いた王子は、なんと一目で姫に恋に落ちてしまう。


 色好みの王子にとって唯一忘らない運命の相手が彼女だった。

 16歳の時の悲惨な海難事故、そこで浅瀬に打ち上げられた王子を助けて介抱した修道女こそ、身分を隠した隣国の姫だったのだ。


「ああ、姫。あなたは流れ着いた僕を、献身的に助けてくれた淑女(ひと)だったのですね。あなたの事がずっと知りたかった。けれど大臣からメイドまで誰一人貴方が誰か教えてくれず、ずっと心が張り裂けるような気持ちだった……」


 人に感謝できる脳みそくらいは残っていたらしい。

 けれど激しく女遊びしながら、よくもまあ抜け抜けと。女遊びは人探しのつもりだったとでも言いたいのか。

 僕は白けた思いで、見つめ合う二人を眺めた。


「もったいないお言葉を賜り恐縮です」


 姫は可憐だったが一般的な審美眼としては、決して抜きん出た容姿ではない。

 しかし背筋を伸ばし、高価なドレスや宝玉を纏っても霞むことのない佇まいは、まさに高貴な姫そのものだった。

 彼女は王子へと、上品に微笑んだ。


「修道院内でも身分を偽って修行をしておりました。なので御国の方々は本当に、私があの修道女だとご存知なかったのでしょう」

「ああ、姫……。あなたが婚約者で僕は幸福です。どうか私の妻となってください。運命の人よ」


 王子は今までにない目の覚めた表情をして、彼女に愛を告白し、婚約を申し込んだ。


「はい。共に両国を盛り立てて参りましょう」


 嵐のような展開だった。


 鳴り止むことのない拍手。そんな広間の片隅で呆然と抜け殻のようになっているのはアリアだった。アリアは何の音も聴こえていないような表情をしている。


「アリア……」


 なぜかアリアは、命のように大切なものをごっそり奪われたような正気のない顔をしていた。彼女が王子に恋をしているのは知っている。けれどそれ以上、何か大きなものを喪失してしまったようなーー


 僕の声も、彼女には届かない。

 その日のうちに僕は、彼女の世話役の任を解かれた。


ーーー


 帰国後すぐ、結婚式が執り行われることとなった。

 王子は帰国後ぱったりと女遊びを止め、側室の約束をした令嬢たちに後宮を用意し、それ以外は手切金を渡して縁を切り、すっかり身綺麗に変貌した。

 悪党が女子供を助けると必要以上に讃えられるのと同じように、阿呆王子の潔い行動と隣国の姫とのラブロマンスは、あっという間に国中をロイヤルウエディングへのお祝いモードへと染めあげた。


「あの王子を改心させるなんて、素敵な姫だわ」

「命の恩人のために更生するなんて、なんて尊いお話なの……」


 茶番に浮かれる人々の興奮がが国中を席巻する中。

 王子の愛玩少女ーーアリアは、今までの寵愛が嘘のように離れに閉じ込められ、まるで消えてしまったように扱われてしまっていた。

 僕も世話役の任を解かれて以後、アリアに会う権利を持たないただの下級騎士へと戻った。

 アリアがいじめられていやしないか心配だったが、どうやら令嬢たちはすっかり彼女に興味を無くしたらしく。3食の食事すら、まとめて配膳されるようになったらしい。


 ただの従者になった僕はある日、唐突に王子に呼び出された。

 王子はピカピカの執務椅子に深く腰掛け、書類に右から左に雑に目を通しながら僕に言った。


「あれ、お前にやるよ」


 まるで、「そこのゴミ捨てといてくれ」の気軽さだ。


「あれとは」

「……あれだよ、あれ」


 一瞬虚を突かれた僕だったけれど。

 下卑た王子の眼差しで。彼が何を言いたいのかはっきり分かった。


「王子……」


 僕は胃液が逆流するような気持ちになった。


「王子。お言葉ですが、アリアがあまりに可哀想です。せめて他の令嬢のように側室にお迎えになられたり、おか」


 その続きの言葉は、おもむろに立った王子から繰り出された蹴りにかき消された。思い切り胃を蹴られ、僕は床に吹っ飛ぶ。吐き気を堪えたところに髪を捕まれ、顔を覗き込まれて嘲笑された。


「お前、アリアのことが好きなんだろう? 今度の船上結婚式、お前も護衛に入れてやる。あいつも呼んでるから隙を見て適当な船室で遊んでいいぜ」

「王子……」


 退出を命じられ、僕は虫のように這いつくばって部屋を後にした。

 王子はちっとも変わってなんかいやしない。その場かぎりの言葉が巧みで、アホのくせに立ち回りが上手いのはいつものことじゃないか。僕は倒れてしまいそうだった。ゾッとするような、怒りで気がおかしくなるような、悲しいような情けないような、ドブ色の感情がない混ぜになりながら、僕は生きる屍のような心地で業務に戻った。


「アリア」


 うわごとのように呟く。

 いつか僕に振り向いてくれたら。そんな下心がなかった訳じゃない。世話役の立場を利用して、彼女と一緒にいられることは確かに幸福だった。

 けれど、王子の下卑た眼差しと態度で、恋心がべったりと穢された気分だった。

 メイドたちの会話が聞こえてきた。

 

「あら、王子は今日も仕事を片付けていらっしゃるの?」

「ええ。午後から姫と散策するから、それまでに片付けるんですって」

「まあ」


 よろよろと廊下を歩く僕の耳には、あちこちから人々が王子を賛美する声が届く。


「最近の王子は理想的な王子となられて……」

「多少のやんちゃも、まあ国のためなら必要な経験だったのでしょう」


 物陰に入り、僕は悔しさのあまりに壁を叩いた。

 多少のやんちゃ、多少の経験。若気の至り。

 あんな王子のそんなもんで、何人もの人間の人生がめちゃくちゃになっているというのに。


「アリア……」


 誕生日に海難事故を起こしたアホの王家は、姫と王子の結婚式も船上結婚式にすることにしていた。

 人魚が現れる海域は危険だと進言されても、むしろ姫と王子の馴れ初めだからと国王も王子も強行したのだった。


ーーー


 二人の成婚を祝う船上パーティは豪華なものだった。

 僕はもう一生、ここまで贅を尽くした船を見ることはないだろう。


 手すりから客室から甲板まで、あちこちに二人の未来を祝う金と紫のリボンと薔薇が飾られ、花吹雪が舞う。

 両国の来賓たちは優雅な衣装を纏ってオープンデッキに参列し、若い二人の人生の船出を祝った。


「あなた方は自分自身をお互いに捧げると誓いますか。良いでしょう……それでは誓いの口付けを」

 

 二人が見つめ合い、そっと唇を触れ合わせる。

 真昼の空に鐘の音が鳴り響き、王子と姫、二人は拍手の嵐に包まれた。


 その後客室で始まった披露宴の片隅で、アリアはじっと石像のように壁際に佇んでいた。

 陽の光の下でも青ざめてみえる顔をして、アリアは以前よりずっと痩せた身体に包み紙のような薄く瀟洒なドレスを着ている。

 ーー側室にもなれない、手切金で突き放されることもない、王子が飽きた愛玩人形。

 彼女はなにも見えないような昏い眼差しで、ただパーティの進行をぼんやりと見つめていた。

 まるで溺死した幽霊や、人を溺れさせる水底の人魚のようだ。

 

 やつれても生気を無くしても、アリアはこの場の誰よりも美しかった。


 凪の海は闇色に染まり、空に花吹雪のような星が煌めいて、夜が深けても、披露宴は燈明の光を強くして続いていく。

 客室内にはシャンデリアの煌めきが眩ゆいばかりで、時折、空で花火が炸裂する。まるで王子16歳の海難事故の不幸を吹き飛ばすように、明るく賑やかな夜は続いていく。

 踊り子たちは薄絹を纏って妖精を模して踊り、甲板では無礼講で酒を傾ける水夫たちが賑やかなダンスを踊る。

 紳士淑女も無礼講と言わんばかりに、皆思い思いに熱烈に体を重ねてダンスをした。


 アリアは部屋の隅のソファに小さく座り、忘れられた人形のように哀れな様子だった。

 そんな彼女の様子が王子の目に入ったらしい。


 唐突に、酒が入って陽気になった王子が声を張り上げた。


「アリア! 君も踊りたまえ!」


 王子が手を叩いて彼女を指名する。

 客船内の好奇の視線が一気に、彼女へと降り注がれた。

 アリアは困惑するような、すがるような表情で、ただ王子を見つめている。


「君の踊りは妖精をも惑わすと評判じゃないか。僕たち夫婦の祝いの門出に、ぜひ踊ってくれ」


 アリアの唇は震えていた。

 残酷なことに、周りの人々も口々に彼女に踊れと囃し立てる。


 アリアは覚悟を決めるように立ち上がると、足音も立てず、静かにホールの中心部へと出てくる。

 彼女は昏い瞳をしていた。まるで死に向かう兵士のような顔だと、僕は思った。


 全体を見回し、そして花嫁花婿ーー特に王子をじっと見つめ、手足をダンスの形にする。

 柔らかく膝を曲げ、そして足を柔らかく伸ばす。顔をあげーーアリアは王子を見て()()()


 ぞくり。僕はその横顔に電流が走った。


 アリアの舞踏は美しく、壮烈だった。

 

 長い豊かな赤毛が舞う。伸びやかな手足にシャンデリアの輝きが映る。

 彼女は挑むような笑顔で踊っていた。宝石のような青い瞳は波の飛沫のようで、微笑んだ唇は鮮烈な紅だった。

 いつの間にかみんな静まり返った。

 自然と、ヴァイオリンが彼女に合わせて即興の音を奏でる。彼女は爪先で床を叩いた。手を叩き、笑顔で、細い指先を翻して宙を舞った。


 結婚祝いの舞踏というにはあまりにも鬼気迫った、しかし誰も目を逸らせない舞。

 誰よりも彼女は美しかった。

 僕も観客も、涙を流していた。

 笑い物にしようとしていたはずの王子でさえ、滔々と涙をこぼし続けていた。


 踊りが終わった彼女に、僕は水の入ったグラスを渡した。

 彼女は疲れ切った笑顔で飲み干すと、再び抜け殻のようになって、ふらふらとホールを後にした。


「アリア……」


 僕は彼女の背中を見ながら、もうなにも言えなくなっていた。

 アリアは命を賭けて王子に尽くしていたのだ。

 王子を愛して愛し抜いて、辛い城でも耐え抜いていたのだ。

 そして最後にーー客船の中の観客全ての前で、全ての心に焼き付くような舞踏を魅せたのだ。


「強い人だったんだ。アリア」


 僕は恥ずかしくなっていた。

 僕は王子に寄り添い続けた、彼女の本当の強さに気づいていなかった。美しさに惹かれて酷い立場に同情していたばかりだった。


 実の所僕は、彼女に告白しようと思っていた。

 王子に「お下がりをもらった」と思われてもいい。アリアに侮蔑の目で見られてもいい。嫌われてでも彼女を一生守っていきたいと思った。

 この子は、幸せになるべき女の子だから。


「違うんだ。アリアは、そんなんじゃ幸せになれない」


 僕は手を握りしめた。

 アリアは絶対、幸せになるべき女の子だ。

 けれどそれは、浅ましくうわべだけで恋した僕なんかに与えられる幸せじゃダメだ。

 彼女は彼女として、自分で幸せにならなければ。



 ーー僕はその後も忙しなく働き続け、気がつけば夜になっていた。

 花嫁花婿は豪華な天幕に覆われた寝室で、今は初めてのひと時を過ごしている。同じ船で夜を過ごす来賓全てが二人の初夜の証人というわけだ。

 

 僕は北極星を見上げながらやる気のない巡回をしていた。全身の漲る感情というものが全て、アリアの血気迫る舞踏に吸い取られてしまった気分だ。

 アリアは今、どうしているのだろう…… 

 物思いに耽りながらデッキの方へと向かおうとした時。


 波のさざめきとは違う、女のはっきりとした声が聞こえてきた。


「王子を殺して帰っておいでなさい。魔女の短刀で刺して血を浴びれば、あなたは人魚に戻れるわ」


ーーー


   ーー話はここで、ようやく冒頭に戻る。


 僕は鼓動が走るのを抑えながら、そっと物陰から、甲板の方へと目を向ける。

 暗闇の中、手すりにもたれるのはアリア。彼女が顔を向ける波間には、ざんばらに髪を切り刻まれた無惨な人魚たちが、アリアに向かって短刀を捧げていた。

 人魚たちはあれを魔女の短刀と呼んだ。アリアに渡すために髪を代償にしたのだろう。


 もっとも年上らしい人魚が、岩に魚の半身を乗り上げて、アリアにさらに短刀を差し出した。彼女の声は涙声だった。


「アルツォーネ。声も尾鰭も失ってでも、初恋の王子と寄り添いたいと願った健気な娘。私たちの愛しい妹。あなたが泡になって消えるには悲しすぎる。どうか……私たちは、これからもあなたに生きていて欲しい」


 アリアは彼女に押し切られるように短刀を受け取った。

 人魚たちはそのまま波間に消えていく。

 短刀を戴いたアリアだけが、甲板に残った。


 王国の従者なら、ここで短刀を奪い取るのが正解だ。

 けれど僕はそんなことよりも、彼女の本当の名ーーアルツォーネという名を知れた感動でいっぱいだった。


 アリアーーアルツォーネはふわふわとした足取りで、王子と姫の眠る天幕へと向かう。僕もその後ろを足音を殺して追いかけた。

 短刀に何かまじないが込められているのか、花嫁花婿の寝室に向かうアルツォーネを阻む衛兵は全ていびきをかいて眠り、ドアの鍵は触れるだけで錆び付いてぼろぼろと剥がれていった。


 ついにアルツォーネは花嫁花婿ーー王子と姫の寝室の天幕まで辿り着いた。

 紫の刺繍がされた天幕をめくると、中には裸で並んで眠る二人の姿があった。霰もない姿の王子は酔いが回った幸福そうな顔をしている。


「………」


 アルツォーネは王子を見下ろしながら、短剣をぎゅっと握りしめた。

 しかし手を震わせたまま、振り下ろすことはなく、じっと唇を引き結んでいた。いつしか短剣に、涙の雫が落ちて伝う。刃を濡らす涙が王子の胸をぽつぽつと濡らしていた。

 アルツォーネは次第に、泣きながら優しい笑顔で彼を見ていた。


「……」


 唇が確かに『あいしてる』と動く。そして『さようなら』と。

 彼女は清々しい顔で振り返った。短剣を右手に持ち、天幕から出て。

 彼女は寝室の窓から、迷いなく短剣を投げ捨てようとした。


 僕は三度目の恋に落ちていた。

 自分の為に愛する人を犠牲にできない、その清らかな心が大好きだ。僕のことなんかどうでもいい。好きになってくれなくていい。

 僕は君の、その生き方が大好きだ!!


 僕は咄嗟に、手のひらでナイフを受け止めた。


「ーー!!!!!」


 アルツォーネが目を大きく見開く。急に僕が飛び出したのだから、驚くのは当然だ。

 僕の手のひらから雫が落ちる。試しに僕は血を一滴、アルツォーネの足にかけてみた。

 それでもアルツォーネの足は尾鰭にならない。


「僕じゃあ、君の王子様にはなれないね」


 アルツォーネは首を横に振る。そして僕に縋りつこうとするのを振り払い、僕は天幕を開いた。


「!!!!」


 声にならない声で、アルツォーネが叫ぶ。

 ーー僕は王子様になれない。けれど。


 そこからはあっという間だった。

 僕は思い切り、両手で短剣を掴んで振りかぶり、王子の胸に突き立てた。何度も、何度も。

 王子の断末魔。隣で泣き叫ぶ花嫁。

 アルツォーネが髪を振り乱して声にならない声をあげる。


「アルツォーネ、海に行くんだ!!!」


 窓の外がどんどん明るくなっていく。朝が来てしまう。

 僕は問答無用でアルツォーネの軽い体を抱き上げて甲板へと躍り出た。


 水平線から登る朝日が、僕たちを眩しく橙に染める。ドレスから覗いたアルツォーネの足はあっという間に、半分ほど鱗に覆われ始めていた。

 人魚とばれる前に、彼女を逃さなければ。


 もうすでに船中から近衛兵が迫っていて、もう1秒も時間はない。

 僕は最後の力を振り絞って、アルツォーネを甲板から海に放り投げた。


「さよなら、アルツォーネ!!!!!」


 ばしゃん。

 人魚姫が海に還った喜びの飛沫か。それとも僕の体から吹き出した血潮の音か。

 気がつけば僕は、甲板の血の海に転がっていた。

 何も見えない。叫ぶ声も出ない。

 おそらく全身を槍で突かれたのだろう。痛みに身悶えることも、絶叫することもできない、不思議な絶望だった。


「ジャック!!!!!!!!!!」


 遠くなっていく意識の中、風に乗って女の悲痛な叫びが聞こえた。

 僕の名前なんて覚えてる人、船には乗っていないはずなのに。


 ーーああ、そうか。

 アルツォーネは僕の名前を覚えていてくれていたんだ。


 泡にはなれない僕はそのまま、彼女の最後の言葉だけを胸に、甲板で冷たく土色になっていった。


 僕は王子様にはなれないし、君を幸せにする恋人にもなれない。

 僕にあるのは、報われるべきじゃない、エゴの恋だけ。


 だから強く美しい君に尾鰭をあげる。

 君がいつか立ち直って、今度こそ幸福な未来に泳いでいけますように。


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