第35話 ダグラスのむかしがたり 後編
「お願いします。あの店を取り上げられたら、私たちは路頭に迷ってしまいます」
銀行の奥の部屋で、女性が子供二人を連れて行員に土下座をしているのを見かけた。
取引先との商談の帰り、たまたま銀行の様子も見ておこうと表から入った時だった。
うちの行員が、僕の方に駆け寄って来る。
「すみません。お見苦しいところを」
「何かあったの?」
「いえ、大したことではありません。商売をするのにうちからお金を融通してたのですが、ご主人が事故で亡くなってしまって。担保にしていたお店の事でちょっと……」
「ああ。そうなの」
丁度良い。『妾の一人もいない。君の奥さんは、さぞ、怖い女性なのだろうな』なんて言われてたところだ。
「良かったら、お世話するけれど。あなたも商売が出来るの?」
土下座してた女性は、涙で濡れた目で僕を見てた。
街の一等地に出来た洋装店。それが僕が世話した女性のお店だった。
僕は、月に一度様子を見に行くだけ。
里美さんが来たら、仲良くしてやってくれとだけ頼んだ。
「気が向いたら、洋服を一着仕立ててあげてくれ。彼女は、夏の暑い日も和服でいるから」
僕がそう言うと、ニッコリ笑って「はい」と言ってくれた。
そして、女流作家と芸者あがりで三味線の師匠をしたいという女性たちのお世話をすることになった。これで、里美さんの面目も立つと思う。
彼女との距離は離れていく一方だけど、それは仕方が無いのかもしれない。
元々、彼女が望んだ縁ではないのだから。
だから僕は、せめて里美さんが良妻賢母だと周りに思ってもらえるように、お膳立をした。
1939年に第二次世界大戦が始まり、そのうち日本も参戦してしまった。
最初の頃は僕のような立場の人間は行かなくて良かったのだけど、だんだん敗色※が強くなるにつれてそういう訳にもいかなくなったようだった。
「実さん」
里美さんに、赤紙を見せたら震えて泣きそうになっていた。
「大丈夫ですよ。僕がいないのなんて、いつもの事でしょう」
そう言って、笑って見せた。
それでも、数少ない食料をかきあつめて、ご馳走を作ってくれた。
使用人も男手はほとんど戦争に取られて、里美さんは僕なんかに頼らないといけないほどに、心細かったのだと思う。
僕は、お世話をしている女性たちに里美さんの事をお願いしていった。
彼女たちの中で里美さんが一番年下だったし、何よりも大切な女性だったから。
僕が日本に帰って来れたのは、戦争が終わってしばらく経ってからの事だった。
なんだろう、ここは。
焼け野原で、何もかも無くなっている。そんな印象だった。
家の方は関東でも田舎の方だったので、かろうじて焼け残っているという感じだ。
そこに彼女たちは、身を寄せ合って暮らしていた。
「実さん。ごめんなさい。幸恵さんが……。ごめんなさい、あなたの愛した女性だったのに」
幸恵さん、芸者あがりの……飛行機の銃撃から里美さんを庇って撃たれて亡くなったらしい。
里美さんの事を、『里に置いてきた妹に似てる』と可愛がってくれていた。
「いや、里美さんが無事で良かったよ。他のみんなも……」
僕は、家を建て直し事業を再開した。
高度成長期に乗って、洋装店も順調だった。息子さんが後を継ぐらしい。
これだったらもう僕が世話をしなくても立派にやって行けるだろう。
僕を頼っていた女流作家さんも、戦争体験を元に小説を書いて賞をとった。
年を取り、僕の身体が動かなくなっても里美さんは僕の世話をしてくれる。
僕の事業は、息子が継いで頑張ってくれるだろう。
男としては長生きなのかな。90歳近くまで生きることが出来た。
そばには、里美さんと子どもや孫までいる。
里美さんの幸せを奪ってしまった男の人生としては、上等なのだろうと思う。
「ありがとう。里美……」
酸素マスク越しに最後にそう言った言葉は、里美さんの耳に届いただろうか。
目の前が、暗くなって…………。
「……ラス。ダグラス」
「ん? ああ、なんだメグ……か」
「なんだじゃ、無いでしょう? こんなところで寝たら風邪を引いてしまうわ」
こんなところ? ああ、一階のキッチンの食卓テーブルのところで寝てたのか。
「疲れてるのなら、部屋に行って寝たらいいのに」
「ああ。そうさせてもらうよ」
寝起きは、気分がすぐれんな……そう思いながら、二階に上がる。
少し上がったところで振り返ったら、彼女はお店の方に出ていくところだった。
今世こそは、幸せになってもらわないとな。
そのために俺は、この世界に転生させてもらったのだから。
※敗色……負けそうな気配
(当時、国内では軍の元、情報統制がなされていて、敗色濃厚などの言葉は一切使ってはならなかった。だから旧帝大卒等のインテリはわかっていても言わなかったし、家族が非国民扱いされないように徴兵にも応じて戦地に向かった)




