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カサレリアの東方に位置する皇国ロイエグリフ。豊かな資源を持つ軍事国家であり、皇帝と少数の官僚による議会によって治められている。
本来絶対的な存在である筈の皇帝が、老いたる今やただの判子押しに過ぎないという事実は議会の者のみが知っている秘密。最早ロイエグリフは、一握りの有力官僚によって動かされているのだ。
「……では、陛下。サインを」
「しかし……余は、」
金の染料で飾り枠が施された特別な紙を前にして、老人はペン先を迷わせる。あとたった一名の名前さえ記されれば完成するこの書類がどれほどの影響を及ぼすか、それを恐れるように。
実年齢より一回りは老いて見える彼の心痛たるや皇帝の座についてからおさまる事は無く、その穏やかで争いを厭う心根こそが付け込む隙を与えているのに思い至りもしない。
老皇帝の背を押すのは、甘ったるい媚びに冷たい刃を潜ませた言葉。彼の息子であってもおかしくない若さの青年が、ぱちりと音を響かせ鉄扇を閉じた。
「陛下、これは議会で可決された……いわば民の総意なのです。かの都市の技術は民に潤いを与え、我らが皇国はより強くなる。それを、民が望んでいるというのに……陛下はまさか、偉大なる先達の事も忘れておしまいに?」
受け取りようによっては不敬ともとられかねない台詞を吐く青年を咎める事が出来る立場の人間は何人も居るというのに、誰も口を開かない。それを知っているからこそ青年は――父の代から高級官僚であり皇国への影響力たるや他の官僚より頭ひとつ抜きん出ているこの青年、クリス・ルーム・ルームは――涼しい顔で口を動かすのだ。
「さあ署名を、陛下。陛下のお許しあればこそ、皆も志一つになろうというもの」
神話時代の彫像のように整った笑みが、見えざる力で皇帝の腕を操る。逃れようは無い。クリス・ルーム・ルームは蜘蛛の如く獲物を糸で絡め取る。官僚達を掌握し、民の心さえ思うが侭に煽動して、後はたった一枚の書状に皇帝の署名を施すばかりの状況をお膳立てする彼は逃げ道など残さない。
皇帝は沈痛な面持ちでその書状に署名を施した。
そのとても長い一瞬を固唾をのんで見守っていた官僚たちは、ついに完成し年若い青年の手にある書状を見ながら漸く口を開く。
「……ルーム・ルーム卿、」
呼ばわる声は高級官僚の一人、クリス・ルーム・ルームからすれば父子ほどに年の離れた男のもの。その声に、皇帝より受け取った書状をくるりと丸めて封を施したものを差し出す手は細く。
「カテナ卿、ではこれを確かに」
短い言葉に返礼し、カテナと呼ばれた男は書状の封印を改め懐へと仕舞う。その一連の仕草を一瞬たりとて見逃さず、それからクリス・ルーム・ルームは皇帝へと深々と頭を下げる。それに倣う官僚たちはまるで、……蜘蛛の手足。
「お手を煩わせました陛下。これで我らが皇国に、より一層の繁栄が約束されましょう」
こうして、たった一枚の、しかし大きな意味を持つ書状が作成された。
そして皇国に巣くう蜘蛛は書状の末尾を思い返してひそやかに笑みを深めるのだ。「よって」、……「よって、我が国はカサレリアに宣戦布告する」。
……書状を然るべき場所へ送付する打ち合わせを終えて高等議会室を出たクリス・ルーム・ルームは、強まる西日に瞳を細めた。皇国の上流階級に多い北部出身者においてはありふれた色の金髪が陽光に煌めく。
――高級官僚用の蒼い礼服を除けば、青年はとても国ひとつを支配下に置きつつある毒蜘蛛には見えない。肩まで伸ばされた髪と、作り物めいて整った顔立ちは舞台役者のよう。
「ルーム・ルーム卿!」
自らの執務室へと向かうクリス・ルーム・ルームを呼び止めたのは、若く溌剌とした女の声。城内の廊下を歩いていた背にかけられた声の主は、その場に不釣り合いな格好をしていた。
服は仕立ての良い軍服で参城するのに相応しいと言えなくもないが、肩から二の腕辺りを覆う部分鎧は物々しく、あろう事か腰には帯剣している。長い髪は燃えるように赤く、ある事実を声高に主張している……即ち、血と焔の赤は皇帝の証。
「ご機嫌麗しく、皇女」
姿勢を正し床へ跪くクリス・ルーム・ルーム、その目前に立つのは美しい赤髪のカティア・“クリムゾン”・フォン・ロイエグリフ。皇帝の娘であり、“鮮血の赤”を名に負う者。差し伸べられた彼女の手を取りその甲へ口付けを降らす彼の所作は、皇帝に対するそれより慎重で丁寧。
皇帝の長女であるカティアは確かに敬われるべき存在ではあるが基本的に皇国は男性優位社会であり、皇位継承権自体は弟にある。皇国の支配権を掌握するべく糸を吐く蜘蛛の獲物としては小物だと、二人の関係に意味を見出す者は居ない。少しばかり機嫌を取っておいて都合良く利用するだけに違いないと、官僚たちの間では囁かれていた。
そう、誰も知らない。 皇国の蜘蛛として裏社会で恐れられているクリス・ルーム・ルームとは別の意味で、皇帝の娘カティア・“クリムゾン”・フォン・ロイエグリフもまた異端視すべき存在だという事を。
「開戦はいつだ?」
一切表情を変えず、寧ろ僅かな笑みさえ浮かべて彼女は言い放つ。皇帝家の人間とはいえ、本来政治には関わっていない筈の人間が口にするには違和感のありすぎる、また物騒すぎる台詞。
「明後日には書状が届く筈ですから、十日とかかりませんよ」
それに対してクリス・ルーム・ルームの返す言葉も直接的。常のように言葉を二重三重に包んだり、はぐらかしたりはしない。
ゆるりと立ち上がった男の背は女と変わらない。体つきに至っては、恐らく女の方が筋肉質ですらある。がちゃり、と鎧が鳴った。
「卿が言うなら間違いはあるまい、僥倖僥倖。 ……漸く我が軍の働き所が生まれよるか」
……彼女は民の模範となる貞淑で気品ある皇女になる事を良しとせず、その上一人の蜘蛛と出会ってしまった。今や、カティア・“クリムゾン”・フォン・ロイエグリフは、この大陸でも有数の練度を誇るロイエグリフ軍の最高司令。その牙を向ける先を求める、誇り高き狼。
「人とは戦う獣よ、争い奪い殺し合う事こそ人を高みへと押し上げる。 戦わぬ軍に意味は無く、戦わぬ人は人ではない」
「御高説結構ですが御身は大切になさって下さいね。皇女自ら戦線を切り開かれては、私の心臓が保ちませんよ」
「どの口がほざくか、卿は殺しても死なぬ男ぞ」
「……否定はしませんが」
蜘蛛と狼、蒼と紅。この二人の関係は難しく、断じて男女の甘ったるい色恋とは呼べないが、戦場で背を預け合えるような相棒とも言えない。だが二人が言葉を交わす姿は親しげで、身分の差も感じられない。
「卿の手腕あればこその展開だ。その成果は確かに我が軍が活かしてみせよう」
「調子は如何です?」
「以前とは比べ物にならん。自らの存在意義を得た軍は、大義名分を掲げる攻撃は、……強くなるぞ」
ただその会話の内容は天気の話でも無ければ仕事の話でも無い、物騒極まりないもの。
女は獰猛な獣のように笑い、相対する男はそれにほんの僅か息を呑んでから、誤魔化す為に軽く咳払いをした。始末が悪い、この赤狼はこういう時だけ奇跡のような美を顕現させるのだ。
「……賢者どもが少し哀れに思えてきましたよ」
「ふん、我はあやつらの性根が気に食わぬ。平等だの中立だのと耳障りの良い綺麗事をほざいては、己の益を抱え込んでいるだけではないか。……なれば、それに目を付けられるのも詮無き事」
「宝物を蓄える竜は英雄に狩られるが道理、ですか」
「英雄なんぞでは無かろうよ、美辞麗句は要らん。どう贔屓目に見ようが単なる侵略戦争だ」
戦いを愛する狼は、けれど、だからこそその儀礼化や美化を良しとしない。彼女は闘争こそ人の使命であるという信念を持つ夢想家だが、同時に極めて現実的な一面も持ち合わせている。
「戦を美しく飾り立てたければ終わった後にすれば良い、そういう事は卿らが得意であろう?」
「ええ、その点は信用して頂いて構いませんよ」
女の台詞を受け、歌うように紡ぐ言の葉は甘やか。共犯者の密言は蜜言に等しく、天井には薔薇の模様。
「戦果は甘く、我が皇国を潤すでしょう。より大きく、強く、国が栄える幸いは……素晴らしい」
瞳を細めてうっとりと囁くクリス・ルーム・ルーム。その様を見てカティアは呆れたように肩を竦めた。
「……卿の熱心さには頭が下がるばかりだよ」
皇帝の娘とは思えない他人事のような発言に、男はやんわりと笑いながら冗談にも本気にも聞こえる台詞を吐く。
「我らが皇国の為に。私はこれでも愛国主義者ですから」
――クリス・ルーム・ルーム、蜘蛛はその巣を守り育てる為に策を弄し、
「なれば愛国心溢るる卿に国守りは任せて、我は存分に剣を振るうとしよう」
――カティア・“クリムゾン”・フォン・ロイエグリフ、赤き狼は戦を求め自らの牙を磨く。
廊下で語らう二人の姿を見咎める者も居らず、戦への足音は静かに響く。太陽は西の空へと早足で去り新たな地平を照らしにゆく。
ゆっくりと、だが確かに時計の針は動き出していた。