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 私の一番古い記憶――綺麗な翠の瞳が二組、優しい光を湛えて私を見詰めている――、今も色褪せない、数百年前の記憶。



 カサレリアに吹く風は甘い匂いがする。それは学者が書を綴るのに使う墨の匂いにも似て、錬金術師が作る咳止め薬の匂いにも似ている。

 中央で都市面積の三分の一以上を占めている賢者の塔――塔と呼ばれてはいるが、その外観は椀を伏せたような形だ――からは六つの大通りが伸び、その大通りから更に細かな通りが伸び、空から見下ろせば魔法陣のように緻密に入り組んで見えるだろう都市……通称「魔法都市」、カサレリア。

 大陸中の叡智が集い、錬金術師や魔術師が多く住むこの街で生み出された道具や技術は各地に輸出されて街に富をもたらし、賢者の塔は更に大きく高くなる。塔は都市を治め、導き、育む。膨大な知識と技術を盾と剣代わりにして、カサレリアは栄えていた。

 ……その街の片隅、塔から馬車で半時ほど揺られた場所に、特別な住人が居る屋敷がある。

 艶やかな黒髪に絹のリボンを編み込み、白磁の肌は質素ながらも趣味の良い衣服で覆われ、賢者のように知的で涼しげな翠色の瞳を小さな丸眼鏡で半分隠した彼女の存在を知らない者はこの街に居ない。

 それは、彼女が遥か昔に作られた「生きている」人形だから。その白魚のような指先も、造作の整った顔も、遥か昔の魔術師が作り出し命を吹き込んだものだと判明しており、彼女は塔から手厚い保護を受けていた。何故なら、かの偉大なる魔術師が彼女に命を吹き込んでから数百年経った今でも、この偉業を――人形に命を与えるという神業を成し得た者は居ないからである。

 彼女が発見……正確には、ごく普通の人間のふりをして各地を渡り歩いていた彼女が人形だと発覚したのは数十年前の事である。当時の人間たちは世紀の大発見に色めき立ち、半ば強制的に彼女を当時の賢者の塔の長――つまりは街の長であり、あらゆる知識に長けた人物である――へと献上した。

 その際彼女と長の間で交わされた言葉は記録には残っていないが、その対話の後、三つの約定が彼女と賢者の塔との間に結ばれた。

 ――ひとつ、甲(賢者の塔)は乙(彼女)の生を無用に脅かしてはならない。

 ――ふたつ、乙はこの街において人間と同等の権利を有する。

 ――みっつ、前記二つの約定を損なわない限り、甲は乙を自由に調査研究できる。

 これらの約定は今でも守られ続けており、彼女はカサレリアで平穏に暮らしている。

 彼女の名はクティルカ。

 この大陸で唯一の、たった一人――あるいは一体――の、生き人形である。



 カサレリアの甘やかな風はクティルカの髪も他の人間と同じように揺らし、屋敷の庭に出された椅子へ腰掛け書物のページを捲っていた手の動きを止めさせる。

 すん、と鼻を鳴らすような仕草をした後、クティルカは門の方向へ視線を流した。白く塗装された門柱の向こうから現れるのは紙袋を抱えた大柄な男であり、その姿はクティルカにとって見慣れたものだ。

「おはよう、ナリオ。……いい匂い」

 その容姿に違わぬ透き通った声で挨拶の言葉を紡いだクティルカに、ナリオと呼ばれた男は顔を上げた。「おはよう、ルカ。今日もいい天気だ」

 真面目そうな印象を与える彫刻めいた無骨な顔立ちに、恵まれた体躯。まるで戦士か何かのようにも見えるその男、ナリオはクティルカの屋敷にパンを届けるパン職人だ。ナリオの父も祖父も腕の良いパン職人で、ナリオも例に漏れず腕は確かだった。

 椅子に腰掛けたクティルカの元へと歩み寄り、中を見せるように傾けられた紙袋の中には、日持ちのする固パンが少しと小瓶に入ったジャム、それから三日月の形をした表面がパリッと焼き上げられたパンに切れ目を入れて新鮮そうな野菜とチーズを挟んだもの、巻貝の形をした少しもっちりとしたパンにチョコレートクリームをたっぷり詰めたものが入っていた。

 紙袋の中を覗き込んだクティルカが怪訝そうに眉を寄せたのを見て、ナリオは巻貝パンをそっと紙袋から取り出す。朝日に照らされ、パンの表面が艶々と光った。

「これ、俺が作った新作。ルカに感想聞きたくて」

 受け取ったクティルカは、たっぷり詰まったクリームが零れてしまわないよう慎重にパンへとかぶりついた。チョコレートクリームが舌の上で溶け、周囲に甘い香りが広がる。

「……美味しい」

 短いが感嘆混じりの少し揺れた声に、ナリオは安心したように息を吐き出し、それから小さく笑った。

「ルカ、クリームが口に付いてる」

「ん」

 ひとつ瞬きをしたクティルカが自らの唇を拭うより先に、ナリオの指がクティルカの唇をぐいと撫でた。小麦の匂いが染み込んで少しごつごつした、パン職人の指先。クティルカの唇から拭い取ったクリームを自然な仕草でぺろりと舐めてから、ナリオはどこか相手の反応を待つように動きを止める。

 今度は瞬きふたつ、少し間を空けてからクティルカは再びパンにかぶりついた。白い頬が僅かに染まっているように見えるのは、太陽の加減だろうか。ナリオの方を見ずにもぐもぐと口を動かす姿は小動物にも似て、ナリオは口元を緩めると黙ってそんな彼女の頭を撫でた。

 その時、ちりん、と小さな鈴の音。

「そこは接吻のひとつでもかますところである、この朴念仁!」

 突然響いた甲高い子供の声に、クティルカは相変わらず口を動かしながら顔を上げ、ナリオは溜め息を吐きながら振り返った。

 ナリオからすると大分見下ろした位置に揺れるのは、小さな銀色の鈴が一つ。その鈴は杖の先端に付いた輪っかに揺れており、その杖は未だ十かそこらの子供の手に握られている。……鈴の付いた杖は、この街では賢者の印である。賢者の塔に所属する賢者は、その位の高さに応じた数の鈴が付いた杖を持たなければならず、鈴一つは最下位の証。それでもこの街では一定の敬意を払われる存在なのだが、ナリオは気にした風も無くその子供の額を指で弾いた。

「お前の知識は偏りすぎだ。そんなだからいつまでも鈴一つなんだよ『賢者様』」

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