第1章 木叢の町《ヴェロッジ》Ⅴ
<1>
「夕餉が出来たぞ」
「あ、今行くよ」
かれこれ一時間ほど木剣を振っていただろうか。俺はキリハリリハに呼ばれて手を止める。
さーて飯だと家の中に入ろうとしたらやんわりと押し留められた。
「井戸。薪。湯」
「……ああ、はいはい。やってきますよ」
「はい、は一度でいい。まったく言葉遣いがなっとらんのう」
俺は木剣を返して、急いで水汲みなどを済ませる。湯を沸かしている時、ふと気になってキリハリリハに声をかけてみた。
「先に使うか―、お湯ー」
「よいのか」
すると、窓の方からキリハリリハがひょっこりと顔を覗かせる。
「そりゃあもちろん」
「では、そうさせてもらうかのう」
俺は、キリハリリハが家の中で体を拭いている間、ぼけーっと空を見上げる。木の枝で隠れているが、ここから見える空だって、よそとはそんなに変わらない。
住む場所とか、耳の長さとか、そういうことで嫌って争い合うってのは、俺にはやっぱりよく分からなかった。だいたい、亜人がどうとか言うけど同じ人同士だって争うんだよな。ロムレムの時みたいに同じ人間でも奴隷がいて、身分がある。
『お前がセラセラの王にでもなってみなさい』
……考えるだけ、無駄か。
「おぉい、ナガオ。もうよいぞ、入ってこい」
「ういーす」
家の中に入ると、湯を張った桶とタオルが用意されていた。俺は服を脱ごうとしたが、キリハリリハは椅子に座って、にやにやとしながらこっちを見ている。
「いや、出てってくれよ」
「はーん? ここはわしの家じゃぞー。どうして主に指図されんといかんのかのー」
この野郎。
まあいい。婆さんに見られても減るようなもんじゃない。俺は服を脱ぎ始める。途中で出てってくれるのかと思ってたけど、キリハリリハはじっとその場から動かなかった。
「うーん。主、怠惰な生活を送っておったな。無駄な肉がついておるようじゃのう」
「そうですか」
「どれ、背中をこっちに向けてみい」
どんな羞恥プレイやねん。しかし言われたとおりにしないと後で怖いので、俺はタオルで体を拭きながら、キリハリリハに背を向けた。じりじりとした、熱っぽい視線を感じる。
「よいかナガオ。よい呼吸はよい体からじゃ。剣を振るい、戦うたびに一々疲れていてはつまらんことで命を落とすぞ」
かたん、という音がした。キリハリリハがこっちに近づいてくる。
「よし。下も脱いでみい。何をしておる。ズボンじゃ。下着を脱がんか」
「ぱっ、パワハラ!」
「意味の分からんことを抜かすな。小僧のモノを見てもなんとも思わんわ」
モノて。
「動くな。取って食いやせん」
「……本当だろうな」
キリハリリハは俺の体をぺちぺちと触ってくる。背中や脇腹に彼女の冷たい手が触れると、思わず声を上げそうになった。
やがてキリハリリハはマジでズボンを下ろそうとしてくる。
「本当だろうな!」
「うるさいのう。ズボンまでで勘弁してやるわい」
ずりずりとズボンを下げられる。目の前のやつが『おばあさま』と呼ばれる実年齢不明の物体だとして、見た目は小さい子供である。背徳感というか、妙な居心地の悪さしか覚えない。
そんでもって、遂に俺の身を守るのは下着だけになってしまった。
「贅肉が付き過ぎておるわけではないが、筋肉が足りんな。主、体によいものを食べておらんな」
「ああー、まあ。分かるのか、そんなの」
「口に入れるものは血肉となる。一朝一夕では体つきも変わらんから、今日から食べるものにも気をつけよ」
母さんみたいなことを言うんだな。
それからも、キリハリリハは『へー』とか『ほー』とか言いながら俺の体を触りまくってきた。地獄のような時間だった。
「ん。だいたい分かった。では食事にするか。冷めてしまっては食材も浮かばれまいて」
やっと終わったか。
俺は服に着替えて、椅子に腰を落ち着かせる。テーブルに並んでいるのは、湯気の立ったものが多い。昼とは違って温かなものがほとんどだ。
「美味そう」
「よく噛んで食べるんじゃぞ」
「ああ、いただきます」
「ん、おあがり」
<2>
食後、キリハリリハがグラスを持ってきて、それを俺の前に置いた。中身はどろっとした、赤黒い液体であった。
「……何、これ」
「ガララ蛇の血じゃ。体にいい」
「へ、へー」
キリハリリハはグラスを手に取り、それを俺に押し付けてくる。
「飲め」
「や、やだっ! なんだよそれ! そんなん飲んだら腹壊すって!」
「主の為じゃ!」
「いやだーっ」
しかし、脇腹を殴られて呻いた瞬間、俺の口内がどろりとした液体で満たされた。吐き出したら死ぬほど怒られると思ったので、しようがないから覚悟を決めて飲み下していく。のど越し最悪である。
「ぐ、うえええええ」
口の中が鉄臭い。もがいていると、キリハリリハが別のグラスを持ってきてくれた。俺はそれを受け取って、中身を口の中に流し込む。すると、焼けるような痛みが喉に突き刺さった。
「ごっ……!? お、ごっ、なんだ、これ。今度は何を飲ませたんだよっ」
「酒じゃ。これで体の中も清められる」
マジかよ。一応未成年なんだけど俺。
「あ゛ー、もう。無茶苦茶だ」
「毒を飲ませたわけではないというに。人間の腹はどうも軟弱じゃな」
うう。飯食った後も素振りしようと思ったけど、やめとこう。ちょっと気分が悪い。なんだかんだで体動かしてたし、心地よい疲労感と眠気がある。
「もう寝かせてもらっていいか?」
「構わんぞ。明日も早いからな」
「そんじゃあ俺は……」
室内を見回したが、寝具は一つしかない。そりゃそうだ。ここはキリハリリハが一人で住んでる家なんだ。
「その辺の床で寝させてもらうよ」
床の上で寝るのは慣れている。友達連中の家に泊まる時はたいてい床で雑魚寝だからだ。
「何? いかんぞ。そこのベッドを使えばよかろう」
「キリハリリハさんはどうすんだよ」
「わしもベッドを使う」
そうか。なるほど。
「え? いや、二人で一つのベッドを使うのか?」
「そう言っておるではないか」
ええー。
「キリハリリハさんはそれでいいのかよ」
「呵々、何を言うとる。主が寂しがっているのは分かっておるぞ」
「俺が?」
うむ、と、キリハリリハは頷く。その顔には俺のことを全部見透かしているぜってドヤ感がありありと浮かび上がっているが、別に俺は寂しいとか、そういう気持ちに浸っていない。どこで勘違いしたんだろう、こいつ。
「親許を離れるのは辛かろうに。そう思えば、少しは主が可哀想だとな」
ああ、そこか。いや、別に二、三日帰ってこないだけだし、最近はそういう機会も増えた。俺は気にしてはいないんだけどなあ。うーん。訂正するのも面倒か。
それに、まかり間違ってもキリハリリハとは何も起こるまい。俺も正直疲れているし。隣に(一応)女の子がいたとしても気にも留めないだろうな。
「そんじゃあ寝るか。使わせてもらうからな」
ベッドは部屋の壁にくっついている。俺はその縁に腰かけて、シーツをめくってから中へもぐりこんだ。キリハリリハもその後に続いた。枕は一つしかない。真っ白い、清潔感のあるシーツに覆われている。触れるとごわごわとしたそば殻のような感触。俺は枕の端っこに頭を預けて壁の方を向いた。
「どれ、主が眠るまで子守歌でも」
「いらないです」
「なんじゃ、つまらぬ」
キリハリリハはぴったりと俺にくっついてくる。今は春だが、夜になると少しは涼しい。彼女の温みはちょうどよかった。湯たんぽみたいだった。
「しかし懐かしいのう。シャーラブーラにも主のような時期があった。あやつが主よりももっと小さい頃だったがな。こうして一緒にして、寝かしつけてやったもんじゃ」
「あいつってキリハリリハさんの孫なのか?」
「違うわい。わしは、わしには、子はおらぬ。ヴェロッジのものが子と言えばそうかもしれんが。血の繋がりのあるものは誰もおらんよ」
キリハリリハは年寄りだ。ヴェロッジでご隠居と呼ばれているくらいには。だったら、彼女の親にあたる人たちはもう、この世にいないのだろう。
身内がいなくなって寂しいのと、最初からいないのとでは、どちらが寂しいのだろうか。なんて、意味のないことを考えた。
「うたってくれ」
「ん。子守歌か?」
「うん」
「……分かった」
キリハリリハはもぞもぞと動き、俺と背中合わせになった。そうして、常とは違う、優しく、小さな声で歌を始めた。俺には、その歌詞の意味が分からなかった。人間とエルフでは使っている言葉が違うせいなのか、あるいは、俺とストトストンの住人という隔たりがあるせいなのかは分からない。そして、彼女は音痴だった。
<3>
叩き起こされた。温みのあるシーツを奪われた俺は、窓から吹き込んでくる風に曝され身震いする。太陽すらまだ上ることを躊躇っているような時間だ。
「うわ。四時て」
「遅い遅い。しゃっきり目を覚まさんか。井戸で顔でも洗ってくるんじゃな」
家から追い出され、俺は仕方なく家の近くにある井戸へと向かう。
「うわ」
汲み上げた水は酷く冷たく、触れた箇所が少しひりひりとした。
冷水で顔を洗い、意識をはっきりとさせてから家に戻ると、キリハリリハが木剣を持って待ち構えていた。
「……うわー」
「うわー、ではない。ほれ、素振りじゃ。軽くでよい」
木剣を受け取り、俺は開けた場所でそれを振る。しんと張り詰めた朝の空気を、一太刀ごとに裂いていく感覚。次第に、体は熱を帯びてくる。
キリハリリハの視線を感じつつ、俺は木剣と向き合った。
「そこまで」
小一時間ほどそうしていると、キリハリリハが俺の前に立つ。彼女は剣や槍ではなく、短剣を逆手に持って構えていた。
「構えてみい。わしを打ち倒すつもりでな」
意味を問うより先、俺は言われたとおりに構える。木剣の先を、相手の目の位置に向けて静かに立つ。
キリハリリハはしばらくの間、じっと俺のことを眇めていた。昨夜、子守唄をうたった時のような優しさはひとかけらも見受けられない。
「重心がまだブレておる。肩、腰に余計な力が入っておる。剣を深く握り過ぎ、呼吸もばればれ。何より敵意が感じられん。じゃが、少しはマシになったか」
「褒められてるのか」
「阿呆。全然褒めとらんわ。もともと、誰かの師事を請うたことがないのがよかったな。空っぽじゃからわしの言うたことをそのまま吸うたか」
そういうものだろうか。
「じゃが、それにしても……」
「……ええ、まだ何かあるのかよ」
「いや。少しばかり覚えが良過ぎるような気がしてのう」
覚えか。
心当たりはある。フェネルにもそんなことを言われたが、俺たちはナナクロのプレイヤーである。ジョブを変えたり武器を変えたりしても混乱せず、ある程度は扱えるはずだ。そうでないとゲームにならない。
「人間だからじゃないか。ほら、適応力があるとか言ってたじゃんか」
「むう。それはそれでつまらんのう。教えることがすぐになくなるではないか。まあ、今はよい。飯の支度をしてくるゆえ、もう少し剣と遊んでおれ」
キリハリリハの背を見送った後、俺は素振りを再開した。




