第3章 剣には剣をⅢ
<1>
チャンプは先制攻撃を受けたが、苦痛に声を上げるようなことはしなかった。距離が詰まったと見るや即座に戦斧を振り回す。アレを喰らえば細身のフェネルなど木っ端みじんに砕けちまうだろう。
だが、フェネルはチャンプの攻撃を槍の先を少し合わせるだけで軌道を変えていた。嵐のような連撃を前にして、彼女は酷く冷静だった。
「……冗談きついぜ」
隣にいて、へらへらとしていたスィランもその表情を凍らせた。
「なんであんなのがセラセラの姫をやってんだ?」
「男に生まれてなかったからだろ」
フェネルはチャンプの勢いを削ぐと、今度は彼の右腕を突く。
次はもう、よほど集中していないと目で追えなかった。彼女は槍のリーチを活かしてチャンプの四肢にダメージを与えていく。
チャンプはまだ動けるらしいが、それでも試合の始まる前と比べればだいぶ鈍っているだろう。
「これ、いけるんですかね」
俺は祈るように、イシトラたちに尋ねた。
「坊主。チャンプはな、化け物だ。オウガってのは体格に恵まれてるし、肉体が衰えるのも遅い。でもな、あいつはそれだけじゃねえ。チャンプの歳はもう四十になるが、そんじょそこらのやつには負けねえよ」
「だったら……」
「チャンプ以上の化け物さえいなけりゃの話だがな。長くここにいるが、おれは、あんなやつは見たことがねえ」
観客席からは絶えず声がしていたが、歓声は徐々に小さくなる。フェネルが槍を振るうたび、チャンプが傷つく度、観客席は少しずつ冷えて、凍っていく。
魅せるとか、そういうものは一切ない。フェネルはただただチャンプを痛めつけていた。俺は確信した。
「もう、止めないと、チャンプが殺されます」
「……無理だな。止められない。チャンプがそれを望んでいないだろう」
俺はメニューを操作して剣を呼び出そうとしたが、スィランが俺の腕を掴んで止めた。
「やめとけ」
「なんでだよ」
「ここの奴隷にとっての最上の贅沢ってのが何だか分かるかよ、坊ちゃん。そいつはな、死に場所を選べるってことだ。チャンプは死ぬ気なんじゃねえのか。そいつを止めるのは、チャンプをぶち殺すのと同じことだぜ」
俺とスィランは睨み合っていたが、歓声が悲鳴のようなものに変わった。アリーナを見ると、チャンプが膝をついていた。彼はまだ武器を手放していなかったが、立ち上がれそうにはなかった。
「足の腱を斬られたのかもしれん」
「エンダイブ……!」
イシトラが席から立ち上がる。俺はスィランの注意が逸れた隙に剣を呼び出したが、彼女に再び掴まれた。
「あんただってチャンプにしこたまやられたんじゃねえか」
「だからって死ぬ必要なんかないだろ」
「あるね。必要な死はある。甘いこと言うのはそこまでにしとけよ。あんた一人で何ができるってんだ」
スィランの手に力が入る。俺が振り解けなかったのはそのせいか?
「いいか。命を助けるってことは最後まで面倒看なきゃいけねえってことだ。そいつが無理なら命を殺すってのと変わらねえ。外の世界に生きるあんたにできることかよ?」
ふっと力が抜けた。
同時に試合は終わった。チャンプは最後の最後まで抵抗していたが、フェネルが彼の首元に槍の穂先を突きつけたのだ。
<2>
殺すな。
殺すな。
殺すな。
観客席からは、勇敢に戦ったチャンプの助命を嘆願する声が止まない。
フェネルは槍の穂先を突きつけながら、チャンプに尋ねた。
「死にたいですか」
「俺の負けだ。あんたの好きにしな」
「死にたいのですかと聞いています」
「……ああ。一思いに死なせてくれ」
フェネルは槍を突きつけたままで観客席を見回した。そうして、静まれ、と、大音声を放った。
音が止んだのを見計らい、フェネルは口を開いた。
「この闘技場は市民を喜ばせる為のものだけではありません。私とお前たちを区別する為の施設でもあります」
フェネルは市民に向けて、兵士に向けて、奴隷に向けて、階級社会について語った。彼女の声色には情というものが一切含まれていなかった。そうして最後に、
「奴隷が喚くな、ということです」
そう、締めくくった。
フェネルはチャンプから槍を引き、それをアリーナの地面に突き刺す。
「お前たちが生きていられるのはセラセラ家があるからです。お前たちはセラセラ家のもの。ロムレムも、この闘技場も、その中にいる何もかも、決して奴隷のものにはならないと知りなさい」
お前は私のものだ。
フェネルは観客席にいるナガオを見ながら、そう呟いた。彼から放たれる、敵意と恐怖の入り混じった視線を心地いいと感じた。
「つまらない時間でした」
フェネルはアリーナを後にしようとする。
「ま、待てっ。待ってくれ、なぜだ! なぜ俺を殺さねえ!」
「死にたいのですか」
「そう言ったじゃねえか! 俺はチャンプだっ。負けることは許されねえ! こんな、こんな無様な試合をしちまったら、俺は俺でいられねえんだ!」
チャンプは――――エンダイブはどうしても勝たなくてはならなかった。時には汚い手を使ってでも、チャンプで居続けなくてはならなかった。
エンダイブはセントサークル大陸の小さな村からロムレムにやってきた。彼は自分で自分を売った。病によって妻と娘を亡くし、自暴自棄になっていたのである。だが、闘技場で勝つことで充足を得られた。勝てば称賛を浴びる。勝ち続ければ誰かの記憶に残る。それは、安酒に酔うことより、女を抱くことよりも気持ちがよかった。
自分に残された唯一の生きる意味と証。彼はチャンプでいることで、歓声を受けることで、生きているという証を得ていたのだ。
『お前さんは諦めていなかった』
『閉じこもってんじゃねえよ』
『奴隷の王に買われるつもりはない』
だが、エンダイブは闘技場の王座に座り続ける気はなかった。彼はもう一度故郷に帰ろうとしていたのだ。ここで勝ち続けて、自由を得て、故郷に、家族に立派な墓を作ってやりたかった。それだけだった。穏やかに。静かに、死んだ妻と娘を想いながら暮らしたかった。
死にたがりだった自分が、失った家族の為に何かしてやりたかった。それだけのことを忘れていたのだ。
「……俺を、殺してくれ」
エンダイブは懇願する。
フェネルは地面に突き刺していた槍を指差した。
「死にたいのならそれを使いなさい。私はあなたを殺すつもりなどありません」
「う、おおっ、おおおおおおおオォおおおお!」
エンダイブは槍を掴んで、それを壊した。そうして彼は、アリーナに倒れ込んで動かなくなった。
この日、フェネル・セラセラは一つのミスを犯した。
チャンプから『下剋上』の話が上がった時、フェネルは内心で激怒していた。奴隷たちの反乱が今後も起こらないとは限らない。力を見せつけて、分からせてやろうと思ったのだ。
その行いは闘技場の支配者として間違いではなかったのだが、チャンプのプライドを大いに傷つけてしまった。彼を傷つけるということは、闘技場に関わるものを、ロムレム市民の大多数を傷つけることと同義である。
もう一つ。フェネルはナガオに『喧嘩を売って』警戒させてしまった。……要は、フェネルは彼らに火を点けてしまったのだ。彼女は次代の王に相応しい器と目されているが、まだ今少し、人の心というものを理解していなかった。
<3>
試合は終わった。呆気なく。
イシトラたちは観客席から去ったが、俺はその場に残っていた。何だか、妙に熱っぽい気分だ。まだ悪い薬が抜けていないのかもしれなかった。
しばらくしてから地下通路に戻った時、メニューが、メッセージが届いたのを告げた。さゆねこからだった。
『試合を見てましたよ。お兄さん負けちゃいましたね。ドンマイです! それで、いつまでそこで遊んでいるつもりなのですか。さゆねこは一人でどこかに行っちゃいますよ』
俺は少しだけ考えてさゆねこにメッセージを返した。近くにいた見張りの兵士にイシトラの工房へ行きたいと告げると、不思議そうにしながらも案内してくれた。
<4>
イシトラは工房の隅の方に座っていた。窓も戸も締めきっていたので少し蒸し暑さを感じる。……彼もショックだったんだろう。この闘技場では誰よりもチャンプとの付き合いが長そうだもんな。
「坊主か。わりぃが、武器はまだ作れそうにねえんだ」
「明日も試合があるんですよ、俺。その時、観客席にフェネルがいたら仕掛けます」
イシトラは無言のまま、こっちに振り向いた。
「仕掛ける?」
「下剋上っす」
イシトラは目を見開き、口をあんぐりと開けた。
「……正気か? チャンプですら勝てなかった相手だぞ」
俺はチャンプに負けた。
チャンプはフェネルに負けた。
だったら俺がフェネルに勝てる道理はない。そう考えるのが普通だろう。
「第一、お前さんはチャンプじゃねえぞ」
「正式なルールに則るわけじゃないんで。俺はただ、あのフェネル・セラセラに一泡吹かせたいだけなんで」
「泡ぁ吹いて倒れんのはお前さんだろ」
「まあ、そうなります。任せてくださいなんて言えませんから。でも、俺一人じゃなかったらいけるかもしれないっす」
イシトラを眉根を寄せてこっちに身を乗り出す。
「仲間ぁいんのか?」
「一人だけ」
「そりゃ無理ってもんだぜ。お前さん、たった二人で闘技場に勝負かけようってのかよ」
「え? いや、俺はフェネルがムカつくってだけで」
「あの姫さまにはたくさんの部下がいるんだぜ。兵士も、奴隷も、冒険者もな。そいつら全部敵に回すってのか」
うっ、あんまり考えてなかった。
「坊主。わりぃがおれは乗れねえぞ。おれぁ、あの化け物相手にするくらいなら、ドラゴンと一対一で戦った方がマシだ」
「大丈夫です。報告だけしておきたかったんで」
「……勝算はあんのか」
そう言われると困る。でも、俺はもう、この状況に我慢出来なくなっただけなんだ。
「イシトラさん。その、ナントカ……監獄実験って聞いたことがありますか」
「なんだあ、そりゃ。おれぁ、鉄を打つくらいしか知らねえな」
「俺も兄貴からどっかで聞かされただけなんですけど、奴隷は奴隷らしくなっちまうってことを言ってた、ような……たぶん、本当の意味は違うと思うんすけど」
何だったっけな。でも、今はそのことを思い出してしまう。
「奴隷は奴隷らしく、か」
「はい」
「坊主。鉄ってのはな、熱せば柔らかくなる。そうしている間は剣でも、槍でも、斧でも、何にでもできる。だが時間が経って、冷えて固まっちまうとダメになる。もうどうにもならなくなる。そういうことか?」
「はい。やるなら次の機会が来た時に。そうしないと、俺はここでこのまま朽ち果てちまうんです」
「朽ち果てるたあ、大仰じゃねえか」
「友達に誓ったんです。だから、俺はやります」
それだけ言えば満足した。俺は工房を出て、スィランのいる小部屋に戻った。
<5>
「ただいま」
「よう。……あんた、一部リーグの宿舎にでも行けばいいんじゃねえのか」
「だって何も言われてねえんだからさ」
スィランは壁に背を預けて、大口を開けてあくびをする。
「なあスィラン。早けりゃ明日には俺、こっから出ようと思う」
「……脱走か。それとも死ぬ気か」
「フェネルに挑む」
「ああ、死ぬ気だったか」
スィランは俺に背中を向けて寝転がった。
「あんたがそこまで馬鹿だとは思ってなかったぜ」
「最後にいっこだけ聞いていいか」
「死にかけの頼みだ。しようがねえな。抱かせてくれとか言ったらスィランがここで殺してやるから安心しな」
「お前、帰れるとしたら帰りたいか」
「どこにだよ」
決まってんじゃねえか。
「……スィランは前に言ったぞ」
「本当は奴隷になりたいはずないもんな。スィラン。お前がここで頑張ってんのはさ、解放されてセントサークルって大陸に帰りたいからじゃないのか」
「あんた、何が聞きたいんだ」
「このままでもいいのかよって聞いてんだよ」
スィランは素早い動きで体を起こし、俺の襟首を掴んで引き倒し、馬乗りになった。通りがかった兵士が口笛を吹いていった。
「ここにいてもフェネルに飼い殺されるだけだぞ」
「うるせえっ。あんただって見ただろ! チャンプが負けて、あの女一人のせいで闘技場が黙り込んだ! 誰だって死ぬのは怖いだろうが!」
「うん」
「スィランは……スィランは最初っからあんたの目が嫌いなんだ! あんただって同じだ。奴隷のはずじゃねえか。なのにずっと、諦めてねえってツラしてやがる」
そうか、嫌われてたか。ちょっと残念だな。
「俺は嫌だ。奴隷を許すのも、奴隷を使うやつも、誰かのものになるのも」
チャンプと戦った時のことを思い出す。観客席からの激しい敵意。アレはここでの俺だ。ストトストンという異世界では、俺は常にそういう立場なんだ。
「この世界じゃあそういうのが当たり前なのかもしれないし、俺がおかしいんだと思う。でも、それをよしとするやつがいるなら少しくらいは逆らってみたっていいじゃねえか。どうせ、何をしたってかごの中から出られないんなら、俺が俺でなくなる前に」
「あんたは……」
スィランは何か言おうとしているのか、口を開閉させる。が、結局は何も言わなかった。俺に呆れたのかもしれない。今日はもう遅いし、ログアウトしよう。明日フェネルとやり合うんなら、さすがに自分の部屋で眠っておきたい。
「じゃあな、また明日」
俺はログアウトして家に帰り、飯を食って、風呂に入って、眠った。




