第1章 始まりの町《セルビル》Ⅱ
<1>
俺の目の前には魔物がいる。
額に角の生えた小人と、針が山ほど生えてトゲトゲした背中の猪っぽいやつだ。そいつらが波のように、わっと押し寄せてきている。
俺は日本にいたはずだった。平和な国にいたはずだった。しかし今はどうだろう。見知らぬ場所で、しかもゲームの中にいるのかもしれなくて、これでもかと言わんばかりのおぜん立てをされて矢面に立たされている。
足が震えた。手指も震えていた。
「よし、じゃあ兄ちゃん。よろしくな」
俺よりも今の俺の事情をよく知っているらしい髭面の男は気楽そうに言った。この状況を何とも思っていないのだろうか。魔物が攻めてきているんですけど。
「ちょ、マジでマジで! マジでどうすりゃいいんだよ!?」
「戦ってくれよ」
「武器も何もないんだぞ!?」
「……もらっただろ?」
俺は自分の姿を見ようとして首と目をあちこちに巡らせる。……どうやら、俺は学生服を着ているらしい。部屋にいた時は寝間着だったはずなんだが。いつの間に着替えさせられたんだ? いや、今はそんなん後回しだ。必死になってズボンのポケットの中を漁るが何も出てきやしなかった。
「武器なんかねえよ!」
アホみたいに焦っていると、髭面の男は不思議そうに。ともすれば軽蔑したかのような眼差しで俺を見つめてきた。
「石の声を聞いてなかったのか? 兄ちゃんたちは、ほら、見えるんだろ。便利なやつがさあ」
さも当然のように言う髭面。見えるって、何がだよ。俺はイラつきながら、魔物の群れから後ずさりを始める。
「あ。もしかして」
髭面ではなく、別の女の人がこっちを見た。赤毛でおさげでエプロンをした、二十代くらいの人だ。
「ほら、メニューってやつじゃなかった? 確か、そんな感じの名前だった気がする。あなたたちにはそれが見えるのよ」
メニュー。
その言葉には思い当たる節があり過ぎた。そういやそうだ。ここは俺にとっちゃ訳の分からない異世界だけど、ナナクロってゲームの中なんだ。
ゲーム画面のメニューだ。そいつさえ見えれば俺の状態も所持しているものだって分かるはずだ。しかし見方が分からない。俺が見ているのはパソコンのディスプレイでもないしマウスを握っている訳でもなければキーボードだって存在しない。メニューなんてどうやったら見えるんだ?
「あ、早くしないと」
「……え?」
女の人が指差す先、トゲ猪がこっちに突進してくるのが見えた。俺の目は極限まで見開かれたことだろう。その時だった。
半透明の薄い板のようなものが中空に浮かんだ。突如として現れた板には『所持品』だの『ステータス』だのといったなじみ深い言葉が並んでいる。……これか!
「うぁぅん……!?」
メニューだ!
俺はメニューを開いたぞ!
喜んだ瞬間、俺の腹に猪の頭がぶち当たる。口からは、この十六年生きてきて今まで出したこともないような声が漏れた。
死んだ。
何せ猪だ。たまにニュースでめっちゃ暴れているのを見るやつだ。こんなもん喰らったらレスラーだって死んじまう。ああ、こんな。こんな、ゲームの中とかいうアホ臭いところで死ぬなんて。ごめん、母さん、父さん、鶴子。俺、もうダメだ。
俺は突進の衝撃で後方へとぐるぐる転がされて、地面を舐めて、数メートル吹っ飛んだ先でようやく勢いがなくなって止まった。
痛い。すげえ痛い。
「……?」
だけどすっと立ち上がることが出来た。制服には土が付いているが、体を見回してもどこもなんともなさそうである。つーか、何ともない……? もう痛くもない?
俺はメニュー画面を意識して中空をねめつける。すると、半透明の板が光の速さで現れてくれた。さっきは猪に邪魔されたけど、今は距離が空いている。幾分か時間をかけて眺めることが出来た。
そのメニューの中に俺の状態を示すものがあった。『HP』と書かれた、緑色の棒だ。これはゲージだな。俺の体力を示すものだ。『679/700』と明記されている。察するに俺の最大HPは700で、残りは679。とすると、さっきの猪の突進で21のダメージを受けたことになる。
21。……21か。多いのか少ないのか分からん。まだ何発も受けられると安心したものか。だが、HPが0になった時はどうなるんだ。恐怖心が先立つ。
怖い。恐ろしいが、この魔物どもをどうにかしないと、どうにもならないんだろう。これはゲームだ。しかもチュートリアルだ。こんなところで死んでたまるか。
俺はメニュー画面を睨む。『所持品』の項目を睨み続けていたが何も起こらない。ふと思い立ってメニューを指で触ってみると、反応した。そ、そうか。釈然としないが、タッチパネルみたいなものなのか。
メニューは冷たくも熱くもなく、触れているかどうかさえ分からない。まるで水の中に指を突っ込んでいるかのような感覚だ。
俺はメニュー画面を指で操作し、所持しているものを確認する。一つだけ、『ワンハンドソード』というものがあった。名前からして武器に間違いないだろう。俺はワンハンドソードを指で押す。すると、装備するかどうかの選択を迫られた。こんなもん『はい』に決まってるだろうが。
「……おっ?」
メニュー画面が淡く光る。光はふらふらと移動して、やがて縮小し、こぶし大の大きさになった。俺はそれを右手で捕まえる。瞬間、固い感触が掌から伝わった。
光は一秒と経たずに形を変えて、細長い棒状になった。
「おおっ、そうだよ兄ちゃん。それそれ、そうやってやるんだよ」
「こ、こうか!」
光が弾けて消える。次いで現れたのは剣だ。俺は今、ワンハンドソードを握っているんだ。
そうして実感する。ここはナナクロというゲームの中なのだと。
剣が軽いのだ。軽過ぎるくらいで、手に馴染む。俺は本物の剣どころか竹刀だって握ったことがない。それでも、本当の刃物、武器ってのがかなり重いってのは知っている。けどこれは違う。……ああ、データなんだって、俺の気持ちは少しだけ冷める。
「だけど、これなら……!」
思う存分、片手で武器を振れそうだ。これなら戦える。これならやれるぞ。
俺は魔物どもを睨んでやった。
「ギイイイイイイイアアアアアアアアッ!」
「キエッ! キエッ! キエッ!」
「ヒイイキシャアアアア! オアアアアア!」
めっちゃ威嚇された。
ゲームだ。ゲームのはずなんだけど、実際に自分の目で魔物を見るとなると話は別である。怖い。……けど、やれそうだ。まるで、自分が自分じゃないみたいな感覚を覚える。
<2>
小人が飛び掛かってくる。俺はそいつを躱して距離を取った。
『ゴブリン』
「これはっ」
メニューではないが、小人の頭上にぽつんと文字が出現する。俺のと同じような、HPの残量を示すゲージもだ。そしてゲージの近くには『ゴブリン』とある。魔物の名前だろう。猪の方も確認してみると『ニードルボア』と表示されている。
なるほど。敵のステータスもある程度は表示してくれるのか。
ゴブリン……。武器も持ってないから弱そうだけど数が多い。囲まれると厄介そうだし、猪もいる。だけど焦るな。
俺は、一番近くにいるゴブリンに対して斬りかかる。
「あ」
軽い。
力を入れすぎたせいで攻撃は空振り、地面を深く抉るだけに終わった。
「……マジかよ」
結果だけ見れば失敗だが、地面を抉るほどの威力だったってことか。剣なんか振り回したことなかったけど、思っていたよりも扱いやすくて助かるな。
「次だっ」
気を取り直して、今度は剣を横薙ぎに振るう。ゴブリンの首に命中し、ザン、という気持ちのいい音が鳴った。ゴブリンの首は宙をくるくると舞い、地面にぼとりと落ちる。やがて、断末魔と共に黒い霧と化して消滅した。……これはアレだな。効果音とエフェクトのおかげだな。音や死体がリアル過ぎると、罪悪感でこっちが死にそうになる。
ゲームらしい脚色を有り難がりながら、俺はゴブリンを斬ることにした。
「おおー、やるなあ、兄ちゃん」
「あ、ほらほら、右からも来てるわよー」
「なんか腹減ってきたなあ」
「私、サンドイッチ持ってきたんですけど、食べます?」
なんか後ろの方にピクニック気分の人たちがいる。あの人たちは何者なんだろうか。魔物退治を手伝ってくれる雰囲気ゼロ過ぎてもう怒る気にもならない。もういい。片づけた後で話を聞こう。
「だありゃああっ!」
剣を振る。
魔物を倒す。
一歩引いて周りを見渡し、後背を警戒。
問題なければ寄ってきた敵を斬り倒す。
……ああ、やっぱりこれはゲームなのかもしれない。『ゴブリン』も『ニードルボア』も、よく見れば動きはパターン化されているっぽい。何も特殊なことはしてこない。
ゴブリンは飛び掛かってきて殴るだけで、距離を離せば奇声を発して威嚇してくる。
ニードルボアの突進はゴブリンの打撃よりも威力が高いが、予備動作があって避けやすい。
この辺は、今までやっていたゲームの経験が活きたのかもしれないな。俺はいつしかダメージを受けずに、無傷のまま敵の数を着々と減らしていた。
<3>
「あ、終わったみたいね」
最後の一匹を斬り伏せると、メニュー画面が勝手に中空に現れた。どうやら戦果を表示してくれているらしい。ゴブリンとニードルボアを倒したことで入手したお金(どうやらナナクロの世界ではゴールドという通貨が使われているらしい)や経験値が数字でカウントされている。
『おめでとう! あなたはレベルアップしました』
メニューがちゃちなファンファーレを鳴らして上下左右に揺れた。俺を祝福してくれているみたいだ。ちょっと愛らしい、なんて思ってしまった。
ステータスを確認すると、レベルが上がったことで上昇した、パラメータのようなものも確認出来た。『力』とか『防御力』とか『素早さ』とか。ナナクロはオーソドックスな感じのゲームらしい。
しかし、レベルか。そりゃ、あるよな。ゲームだもんな。でもなあ、こう、数字だけで表される『八坂長緒』ってのはどうにも違和感がぬぐえないというか、気味が悪いというか。まあ、その辺は深く考えないでおこう。
戦闘が終わると持っていた剣が気になってくる。さっきまでは頼りがいのある相棒のような存在だったが、今となっては無用の長物である。俺はメニューを呼び出して、装備の項目からワンハンドソードを外した。すると、得物は光になってメニューの中に吸い込まれていく。なるほど、そういう仕組みか。持ち運びが楽でいいや。
「よーう、兄ちゃん。初仕事はどうだった?」
「あ、あんたらなあ……」
俺は髭面の男たちを睨んだ。
「まあ、そう怖い顔しなさんな。兄ちゃん、思ったより動けてたみたいだからよ。こっちが手助けするまでもなかったんだって」
「そうそう、君が危なくなってたらちゃんと助けてあげてたよ」
ホントかよ。
ん? そういや、こいつらってゲームの中の人、なんだよな。もっと杓子定規っつーか、決められたことしか言わないのかと思ってたけど、あまりにも人間臭い。つーか人間にしか見えない。
ナナクロは確か、グラフィックが粗いことで一部のゲーマーに受けてた、とか、椎が言ってたけど、こいつらもさっきの魔物も、別にそんなことはなかった。
と、いうか。
魔物の臭いも、何かを斬ったって感触も、吹いてる風も、土の温度も……いや、何もかもがゲームとは思えない。本当の現実としか思えない。
「ん、どうした兄ちゃん」
俺は今、どこにいるんだ?
ゲームの中なのか? それとも、本当に、今までに住んでたところとは違う、異世界に来ちまったのか?