追想ライラック
淡く甘い匂い。薄紫色の追憶。
瞳を閉じるとその香りは、昔の記憶を鮮やかによみがえらせる。
私の勤務している大学では、毎年春になると中庭のライラックの木が花をつける。私の研究室からは、その薄紫色の花がよく見える。
私は窓の外のその花を視界に据えたまま、「彼女」の話に聞き入っていた。
「で、その人ユキトくんっていうんですよ! 自由の由に希望の希に人と書いて由希人! ステキな名前ですよねぇえ」
私のゼミ生である瀬戸さんは、陶酔したように想い人への恋心を語っている。彼女はしばしば、こんな風にとりとめもないことを話しにここへ来るのだ。
「ね、先生もそう思いますよね!」
問いかけを受け、彼女の方へ向き直る。
「そうね、とてもいい名前だと思うわ」
その名前はもう、十回ぐらいは聞かされたのだけれど。
「ですよねぇええ!」
花が開くようにぱぁっと笑う彼女の姿を見て、思わずこちらも頬が緩む。彼のことを話すときの彼女は、本当に幸せそうだ。
瀬戸さんによると、「由希人くん」はここの近くの花屋で店長をやっているらしい。店長とはいえ、瀬戸さんと彼はそう歳は離れておらず、笑顔の可愛い人だと彼女は繰り返し主張していた。
「ところでー、先生のそういう話はないんですか?」
「へっ?」
突然話を振られ、気の抜けた声が出る。
「だからー、先生の恋バナですよぉ。旦那さんとの馴れ初めとかー、初恋とか!」
屈託なく笑う彼女は、好奇心を絵にかいたように目を輝かせていた。
旦那との馴れ初め、か。今でこそ旦那は私にとって最愛の人に違いないが、彼との出会いは単なるお見合いだ。そんな話では、彼女は満足しないだろう。
……となると、初恋。
その言葉について思い返そうと瞳を閉じると、すぐにその頃の情景がまぶたの裏に浮かび上がった。
毎年そうなのだ。この季節になると、ふとした拍子に昔の記憶がひどく鮮明によみがえる。
大学からの帰り道、色とりどりの花。「彼」のはにかんだような笑顔。
そしてそれらをすべて包み込む、ライラックの甘い香り。
「……せんせー? どうなんですかー?」
瀬戸さんの高く響く声で、私の思考は現実に引き戻される。何か話そうと口を開いたが、思い直して意地悪く微笑んだ。
「……ヒミツ」
「えぇ~!」
彼女はこの世の終わりのような顔をして両手を振り回す。本当に彼女は、感情が素直に表に出る子だ。可愛い。
「私ばっか話してるとかズルいですよ~」
あなたが自分から話してるんじゃない、という指摘はすんでのところで飲み込んだ。
「う~……」
恨めしそうな彼女の視線から逃れるように時計に目をやると、時刻は二時四十分を指していた。
「あら、ところで、次のコマは講義じゃないの?」
そう問いかけると、彼女は振り回していた手をぴたりと止め、私の顔を見つめた。
「えっ?」
「そろそろ四限の時間よ」
彼女の視線が私の顔から時計へと移される。彼女の顔がみるみる焦りの表情に塗り替えられていく。
「あぁっ行かなきゃ! 次の講義、月野先生のなんですよ! 次取らないとホントにヤバいんです!」
わたわたと横に置いていた荷物をひっつかみ、彼女は足早にドアへと向かう。
「じゃあ先生、失礼します~! 今度は絶対教えてくださいね!」
そう言い残し、彼女はドアの向こうに消えた。嵐のよう、という表現が彼女にはよく似合う。
さて、この後は仕事もないし、帰ってゆっくり次回の講義用のレジュメを作ろうかしら、と思いながら窓の外を見やる。そこでは先ほどと同じように、ライラックの花が風に揺れていた。
「――初恋、か」
自分で呟いたその言葉が、不思議な響きを持って胸の内に居座った。
◇
昔、私がこの大学の学生だった頃。
私の下宿は大学の近くにあり、帰り道の短い距離の間にとある花屋があった。
私は毎日、その店の前を通る時は、買うでもなく、じっくり見るでもなく、ただぼんやりときれいだな、と思いながら通り過ぎるまで視線を投げていた。
ある日、いつものように花屋の扉の前を通りかかると、突然扉が開き、目の前にぬっと青いバケツを抱えた男の人が現れた。
「きゃっ」
「おわっ」
驚いて思わず声を上げると、男の人も驚いたらしく、のけ反るようにして飛びのいた。
「ご、ごめんなさい、気づかなくて」
あわてて謝ると、彼は謝罪を否定するように空いている手をぶんぶん振った。
「いや、俺……いや、僕もよそ見をしていたので」
しゃべっているうちに、みるみる彼の顔が赤くなっていく。さっき盛大にのけ反ったのが恥ずかしかったのだろうか。確かに、結構おもしろいポーズをしていたような。
「そ、それより、はずみでどっか、ぶつけたりしてませんか?」
赤い顔のまま、彼は私に問いかけた。
「あ、えっと、大丈夫、です」
「そうですか。よかった」
そう言って、彼は安堵したように一息ついた。
「あなたの方は?」
「ああ、僕は大丈夫です」
彼は私を安心させるように、自分の胸をどんと叩いた。
「そうですか、よかったです。じゃあ……」
もう一度頭を下げ、その場を去ろうとすると、彼が私を呼びとめた。
「あ、これ!」
振り返ると、ふわり、と涼やかな香りが鼻腔をくすぐる。彼は持っていたバケツからライラックの枝を一本抜いて、私に差し出した。
「驚かせてしまった、お詫びです」
そう言って、彼ははにかんだような笑みを浮かべた。
ただ、それだけの思い出だけど。
彼にとっては、何でもない出来事だったのだろうけど。
今になって思えば、あれは間違いなく、私にとっての初恋だった。
◇
大学を出て、いつもなら左に曲がるところを右に曲がった。
どうも瀬戸さんとの会話が気になって、思い出の道を通ってみることにした。きっと、彼女の話す「由希人くん」のイメージが、どこかあの「彼」に通じるものがあったからだろう。
電車通勤になった今では、こちらの道を通ることはめったにない。最寄りの駅と記憶の中にある花屋は反対方向なのだ。
歩きながら辺りを見回してみても、さすがに昔の風景とはずいぶん様変わりしたものである。確かあの花屋は、二つ目の角を曲がって、少し行ったところにあったはずだ。
まさか、今でもその花屋が変わらずあるとは思っていないけど、どこかでそれを期待している自分がいることも事実だ。
二つ目の角を曲がった通りを進んでいく。薬屋や小さなスーパー、飲食店といった店が民家に混じって立ち並ぶのを見回していると、ある店が視界に入り、心臓が驚いたように跳ね上がった。
色とりどりの花が並ぶ、小さな花屋。そんな建物が、民家と横道に挟まれ、ひっそりとたたずんでいた。
「……まさかね」
一瞬、本当にあの時の花屋かと思ったが、場所も名前も、違っている。もちろん、私の記憶が正しければ、の話だが。
まだ治まらない鼓動を抑えつけながら、ここは昔と同じことをしてみようと思った。店内に入るでもなく、立ち止まって見るでもなく、ただ、歩く速度を緩めて、通り過ぎよう。
扉の前に差し掛かろうとするところで、突然扉が開いた。開いた扉から、青いバケツを抱えた男の人が出てくる。ちょうど、あの日と同じように。
「わ、すみません」
男の人は、驚いたようで目を丸くして後退った。
……なんだろう、彼の顔に、どこか見覚えがある。
「えっと……僕の顔に何か、ついてますか?」
男の子は、不思議そうな顔をしている。
「い、いえ、ごめんなさい」
あわてて頭を下げる。我に帰ってみれば、人の顔をじろじろ見るなんて、失礼極まりない。
「いえいえ、お気になさらず」
そう言って、彼ははにかんだような笑みを浮かべる。その笑顔には、やはりどことなく懐かしさを感じた。
「あの……この辺りに昔、別の花屋がありましたよね?」
訊いてから、後悔した。こんな若い子が、昔のことなんか知ってるわけないじゃない。
しかし、彼はうれしそうに笑みを深くして、答えてくれた。
「はい、僕の父が以前、この近くで花屋をやってました」
「えっ……」
「去年の春に閉める予定だったんですけど、僕が引き継いだんです。その時に、名前とか場所とか変わっちゃいましたけど……ひょっとして、父のお知り合いですか?」
衝撃とも、感動ともつかない感情がじわじわと心臓を締めつける。
「あなた……名前は?」
「え? えっと……あ、名札、つけるの忘れてました」
目の前の男の子はそう言って、照れたような笑みを浮かべる。可愛い笑顔だ。
「會川、由希人といいます」
――ああ、何という偶然だろう。
ライラックの香りに呼び起こされた、私の記憶が正しければ。
二十年前の「彼」の名札には、確かに「會川」と書かれていた。