出発
カルムはファリナの家の二階である作業をしていた。
先程商人に支払った宝石の残りを、鞘から外す作業だ。
外の世界を知らないカルムであったが、こんな高価な物をこれ見よがしに腰に差していれば、無用なトラブルに巻き込まれるだろうという事は容易に想像がつく事だったので、こうして出発前に取り外しているのだ。
宝石はとても緻密な細工で鞘に取り付けられていたが、カルムは持ち前の手先の器用さで難なく取り外した。すでに商人に五つを渡していたので、まだ残っている二つを外すのにそう時間はかからなかった。
宝石を外した後に留め金も外そうとしたが、元々こういうデザインの鞘だったらしく、取り外す事は出来なかった。しかし、宝石が外された事で下地に模様が描かれている事が分かった。
黒い金属の表面に描かれたそれは、剣の持ち手に描かれている白い竜と同じように白い線で描かれていた。持ち手に描かれているような抽象的な物ではなく、まるで紋章のように、直線のみで竜の頭部を正面から描いている物だった。
カルムはこんなものを持っていたテツウチの過去がとても気になったが、過去を知る者は既に死んでおり、それに、もし聞いてもテツウチは恐らく教えてはくれなかったろうとも思った。
カルムが作業を終える頃、ファリナの父親がガラガラと車輪が回る音ともに帰ってきた。
その音が気になって三人が外に出てみると、小さな一人用の馬車を店の前に停め、自慢げな顔をしたファリナの父の姿があった。
「どうだ、カルム。村の奴らから店のツケを取り立てて買ってきたぜ!」
そういって馬の腹を撫でる父。足が太く体力のありそうな馬だった。見ただけでも、その身に持つ力強さが分かる。
馬車には幌が付いており雨も凌げる仕様で、年季は入っているがまだまだ現役と言う雰囲気を漂わせている。
カルムはその行動力にやっぱり親父さんは凄いなと言う感想を抱き、ファリナはこれで家計が厳しくなるわ、と呆れた。
「持ってけ。俺からじゃねえ。村全部からの餞別だ」
「ありがとう親父さん。でも、いいのかい」
「つべこべ言うな。まさか歩いて行かせる訳にもいかねえだろうが」
ここから一番近い町でも馬車で三日はかかるぞ、と父親はカルムの目の前に指を三本立てて言いながら、ここは田舎だからなという自虐的な台詞を吐いた。
「それとこれも」
父親はカルムの手にくるくると丸められた一枚の紙を手渡した。
紙は厚くしっかりとした作りで、力を入れても破れそうになく、濡れても大丈夫そうだった。開いてみると、様々な記号と波打つような線がいくつも描かれている。
「この国の地図だ。西に向かうっつっても、村だの町だのの場所は分かっていて損はねえ」
「ありがとう、何から何まで……本当に」
気にすんな、とカルムの頭を乱暴に撫で、照れくさそうに笑う父。
「ここと同じような小さな村になら、今から出発すれば日没までには着く。馬の操り方は知ってるか」
「乗りながら覚えるさ」
「じゃあすぐに出発しな」
ファリナの父はカルムを急かしていたが、店の横に置いてある小さな手押し車に気が付くと、あれは何だと尋ねてきた。
「あれも父の形見だよ。帰ってくるまで預かって貰おうと思って」
そう言って荷台を覆っていた布を取り払う。そこにはテツウチの鎧があった。日の光を飲み込む様な黒鋼が、重厚な輝きを放っている。
「これを、預かってほしい」
「そりゃ構わねえが……お前の親父さんは何者だ?」
「俺にも分からない」
カルムはそう言って話を打ち切ると、少ない荷物を馬車に積み込み、ミーティアを荷台に座らせると、御者台に乗り込もうとした。
だが、何か思う所があったのか、途中で動きを止めると、ファリナの方へ足を向けた。
見つめ合う二人にただならぬ気配を感じたのか、ファリナの父は鎧を持って早々に家の奥へと引っ込んでいった。
「じゃあ、行くよ」
「……はい」
カルムは、不安そうなファリナの手を取って、その手に何かを握らせた。
ファリナが手を開いてそれを見てみると、濃い青空を映したように爽やかな色をしたサファイアがあった。
「それを、受け取って欲しい」
「こんな高価な物……旅の費用に使ってください」
「君に受け取って欲しいんだ」
カルムは自分の手に残った最後の一つの宝石である、赤いルビーをファリナに見せた。
「これは君だ。そして、君が持つそのサファイアは俺だ」
カルムは手の平のルビーを指で撫で、ファリナの目を見て言った。
「これを見るたび君を思い出す」
カルムはルビーをファリナの持つサファイアに近づける。二つの宝石はまるで共鳴するかのように、輝きを増したように見えた。
「いつでも君を愛している」
「カルムさん……私も、愛してます」
二人は最後の抱擁を交わした。昨夜とは違って優しくお互いを労わるような暖かい抱擁だった。
カルムは幸せの中で自分たちを見ている視線を感じ、目を開けた。
そして、開いている店の扉、その奥から自分を睨みつけているファリナの父と目が合って、石のように固まった。
父の目には「それ以上家の娘に手を出したら殺す」という、これまで感じた事のない恐ろしい重圧があった。
カルムはその重圧に負け、ファリナの背中に回している腕を離し、下に下げようとした。
ファリナは抱きしめられている圧迫感が弱くなったのを感じ、離れたくないという風にカルムの体に回している腕の力を強め、胸に顔を擦り付け始めたので、カルムはますます父からの重圧が強くなっていくのを感じた。
「じゃあ……二人とも、元気で」
御者台に乗ったカルムが二人に別れを告げる。
ファリナの父は先程の二人の事は水に流すと決めたようで、死んだら承知しねえぞ、とカルムに向けて声援を送った。
「カルムさん……絶対、帰ってきてください」
「……ああ、必ず帰ってくる」
「帰ってきたら、結婚しましょう!」
そのいきなりの発言にカルムは吹き出し、荷台から顔を覗かせていたミーティアは結婚とはなんぞやと首を傾げ、ファリナの父は驚きに顔を青く染めた。
「……カルム」
「はい……」
「まさか、もううちの娘を……」
「いや……その……」
「どうした?言えない事でもしたってのか?」
カルムは御者台に乗ったままファリナの父と見つめ合っていたが、隠し通すのは無理だと諦めたのか正直に「キスをしました」と告白した。
「キス……だと……!」
「べ、別に普通でしょ!私とカルムさんはもうここ……恋人同士なんだから!」
「恋人だと!うちの娘はまだ十六だぞ!カルムー!」
いつもの自分の言葉を棚に上げ、カルムに掴み掛る勢いで叫ぶ父。ファリナはそんな父の尻を平手で引っ叩き、カルムに「約束ですよ!」と別れを告げた。
二人の声を背に、カルムは手綱を震わして馬を走らせた。ファリナの父には悪いと思ったが、あの状態の彼に捕まってしまうと、丸一日は絡まれる。だから、急いで馬を走らせ、村を出た。
村を出た瞬間、もう引き返せない道へと出てしまったのだという不安感が、カルムとミーティアに襲い掛かろうとした。
だが、自分たちは一人ではない。仲間がいるという安心感がその感情を吹き飛ばし、二人に、目の前に広がる未知の世界へ踏み出す勇気を与えてくれた。
カルムの背に掴まって、外の景色を見ているミーティアの心臓の鼓動を背中に感じながら、カルムは真っ直ぐに前を見つめ、恐れる事無く進んでいった。
旅だった彼らの頭上を、黒い鷲が飛んでいる。
その目は黒く染まり、火の光を反射する事すらなく、逆に光を飲み込んで、更に黒の深さを増している。
白い角を持つ黒髪の少女は、その瞳からカルム達を見ていた。
四肢を拘束され、動く事すらままならない身でも、少女の口元には笑みがある。
目を瞑り、目の中に影を作る事で、影が支配している生き物の視界を共有し、少女はどんなに遠い場所からでも外の世界の事を知る事が出来た。
暗い闇の世界から、黄金の角を持つ少女の光を目指して、少女は影を送る。
黄金の傍らに常にある青と共に、その輝きを黒に染める為に。
少女は祈る。すると壁に映っている少女の影の形が変わり、人ならぬ怪物の形へと変貌した。角を持ち、牙を持ち、爪を持つ。それは竜の影だった。
少女は祈る。竜の姿となった影は平面の世界から少女のいる立体の世界へと這い出し、少女の耳に何事か囁く。
少女は祈る。影は時が巻き戻る様にその姿を壁に貼り付け、少女の姿に形を変えた後、動かなくなった。蝋燭の灯だけが、小さく影を揺らしている。
少女は目を開ける。長い睫に守られたその瞳はすでに輝きを失っており、灰色に濁っている。
少女は考える。次はどうしようか。
獣ではもはや駄目だろう。あの青い光は強い。人を使った時のように不意を突くのがいい。
私は任されたのだ。必ず、あの光を消さなければならない。必ず殺す、その為の策を練る必要がある。
何かを考えるというのは、それも自身が最も敬愛してやまない者の為になる事を考えるのは気分が良かったので、少女は自然と生き生きとした表情になった。生気のない瞳だけは変わる事無く、表情に違和感を与えている。
少女を捕える織の外から、靴が石畳を鳴らす音が聞こえてきた。
その音を聞いた少女は一瞬で顔から表情を消し、力なく壁にもたれ掛かった。
彼らの興味を引くような仕草や表情をしてはならないと、経験が知っていた。
靴を鳴らしながら一人の男が現れ、頑丈な鉄の柵越しに少女の姿を見た。
そして、捕えた時と全く変わらない様子の少女に一つ舌打ちをした後、作った笑顔で、優しく少女に語り掛けてきた。
「メイヴィス、まだ俺と友達になってくれないのかい?」
返答どころか何の反応も返さない少女に苛立ち、鉄柵を蹴る男。
男の着ている服は一目で貴族と分かる様な高級な物だった。指にも宝石の付いた指輪を嵌め、黒に塗られた服には金の線が縫いこまれている。
「いい加減自分の立場を分かったらどうだ?メイヴィス──」
灰色の髪を短く切り揃えている男は苛立ちを抑える気もなく柵の中に手を入れ、メイヴィスと呼ばれた少女の髪を掴むと乱暴に引き寄せる。
石の空間に、鎖の引きずる音が反響する。
少女が横になるぐらいしか幅がない小さな牢屋は、柵の中の者を守るには狭すぎた。鉄柵に力任せに叩きつけられ、少女が小さなうめき声をあげる。
「お前が普通ではない事は知っているんだ!俺に忠誠を誓え!この化け物めが!」
男は引き寄せたメイヴィスの首を片手で掴み、自分と同じ目線まで持ち上げる。
鎖が伸び四肢を締め付け、気管を潰される痛みと呼吸が出来ない苦しみにメイヴィスの顔が赤く染まる。
「苦しいか?この苦しみから逃れたいのなら俺のいう事を聞くんだよ。お前の化け物の力も、俺が上手く扱ってやる」
そう言って手を離すと、喉を押さえて咳き込むメイヴィスを蹴り飛ばす。小さなメイヴィスの体は鎖の音と共に、壁に吹き飛んだ。
メイヴィスを痛めつけ怒りの溜飲が下がったのか、次に来るまでに自分の身の振り方を考えておけ、と静かに去っていく男。
メイヴィス──月のない夜と呼ばれた少女は、その背中が見えなくなるまでじっと、意思を失った目で虚空を見つめていた。