約束と一つ目
ファリナ達に話し終えた後、ミーティアが欠伸をしたのをきっかけに、四人は就寝の準備をすることにした。カルムはファリナの父と同じ部屋で、ミーティアはファリナの部屋で寝る事になった。
ファリナの父親は夕食中に酒を飲んでいたので、ベッドに横になると直ぐに寝息を立て始めた。カルムも寝ようと横になると、疲れていたのかすぐに夢の世界に落ちていった。
およそ草木も眠るであろう時間。カルムは、部屋の扉を叩く音で目が覚めた。
控えめに三回叩かれた音に敏感に反応し素早く体を起こしたカルムは、隣でファリナの父が眠っているのを確認してゆっくりと扉に近づく。
ドアノブを捻り扉を開けると、廊下にファリナが立っていた。
「お、遅くにすみません。えと……その……あのですね」
薄い生地の寝巻を着て肩に掛かった髪を指でいじり、何度も言葉をつかえながら何かを言わんとしているファリナに、カルムは何も言わず、黙って目の前の少女が話すのを待っていた。
ファリナは、そんなカルムのいつもと変わらぬ態度に若干緊張がほぐれたのか、カルムの目を見つめ、こう言った。
「少し、お話しませんか」
ファリナに連れられ、二階の廊下の突当り、小さなベランダに続いている扉を開け外に出たカルムは、空に散らばる星と、大きく丸い月の光に照らされながら、ファリナと二人で座っていた。春の夜は思いのほか暖かく、ファリナの薄い寝巻でも全く寒く感じない気温だった。
「明日……俺はこの村を出る。あの子と一緒に」
空を見上げながら話すカルムの横顔を見ながら、ファリナは何かを考えているようだった。
「辛い事もたくさんあるだろうけれど、あの子を守ると決めたから」
だから、とカルムが言葉を続けようとしたのを遮る様に、ファリナが話し始めた。
「カルムさんは……私を置いて行くつもりですか?」
ファリナの意外な言葉に、カルムはファリナの方を見た。優しい月の光に照らされたファリナは強い意志を瞳に宿し、真っ直ぐに隣に座るカルムを見つめている。
「普通!ここ、こい……びとには!一緒に来てくれとか、俺には君がいないとダメなんだとか!言うものなんじゃないんですか!?」
「……君と俺は、恋人同士だったのか?」
「違うんですか!?」
村の中だけどデートだって何回もしたし……昨日なんて、てて、手まで繋いだし……と一人でブツブツと下を向いて呟くファリナ。
カルムも、ファリナの事は憎からず思っていたが、まさか自分の隣で顔を覆っている少女の中ではそこまで話が進んでいたのかと思い、その気の早さに思わず夜空を見上げた。
「そういえば……思い出せば……私、カルムさんから一度も好きだって……愛してるって言って貰った事ない……」
「付き合ってるつもりじゃあなかったからな」
「いつもいつも、カルムさんが村に来る度に会いに来てくれるから……私てっきり……好きだから会いに来てくれるんだって、思っちゃって……」
「……それは、悪かった」
私ばっかり馬鹿みたい、とファリナは俯き、カルムの方を見ようとしない。
無言のまましばらく経つと、隣から小さくしゃくり上げる声が聞こえてきたので、カルムはどうしようかと考えた。
ファリナの事は嫌いではない。むしろカルムもファリナの事が好きだった。しかし、生きて帰れるか分からない旅に出るのに思いを伝えるのは、最悪の場合ファリナを死ぬまで一人この村に待たせる事になる。それは卑怯な事だと、カルムは考えていた。
ならば、自分の心を押し殺し、君の思いには応えられないと伝えた方がいいだろうと決めたカルムは、ファリナの方に体の向きを変え、肩を掴んでこちらを振り向かせた。
「ファリナ、聞いてくれ。俺は──」
「好きです」
ファリナからの先制攻撃に、カルムの決意は簡単に混乱の渦に飲み込まれて消えてしまった。
元々こういった、男女の惚れた腫れたには耐性も、経験もない男である。カルムの白い頬にさっと紅が差し、目の前で自分を見つめているファリナが、夜の明かりに美しく照らされた赤い髪が、大きな瞳が、震えている小さな体が全て愛おしくなり、何も言えなくなってしまう。
ファリナもそういう意味ではカルムと同じだったが、ファリナはずっとカルムにはっきりとした愛情を抱いていた。そこが、そういった感情を曖昧にしてきたカルムとの違いだった。
「私、カルムさんの事が好きです」
「私も、連れて行ってください。必ず役に立ちます」
「決めました。もう決めました。絶対について行きますから。止めても無駄ですから」
怒涛の愛のラッシュを正面から全て食らったカルムには、もう気持ちに嘘をつける余裕などなかった。ファリナの肩を掴んでいた腕を引き寄せ、ファリナを思い切り強く抱きしめる。
いきなりの事に反応が出来ず、ファリナが苦しそうな声をあげる。
「ファリナ、好きだ。愛してる」
「遅いです……でも、嬉しい」
二人の間で壁になっていたファリナの腕が、ゆっくりとカルムの後ろに回る。そして、体全体を密着させるように、お互いがお互いを求め合った。実際にはただ抱き合っているだけだったが、二人はこの世界で一番尊い幸福を感じていた。
「ファリナ……愛してる」
「もっと……もっと言ってください」
「愛してる」
「私も……愛してます」
暫く抱き合っていた二人だったが、どちらからともなく腕を離すと、カルムの方からファリナに向けて話し出した。
「ファリナ、君について来てもらえれば心強いだろうけれど、やっぱり、俺は君を連れて行く事は出来ない」
ファリナは、まだ先程の抱擁の余韻が残っているのか上気した頬を夜の風にさらし、黙ってカルムを見つめていた。
「親父さんから君を奪う事はしたくない。それに、旅の途中で襲ってくる敵から君を守り切れるかどうかも分からない」
「だから、ここで待っていてほしい。俺は必ず帰ってくる。俺の全てにかけて約束する」
カルムの瞳には、全てを覚悟した強い意志の光があった。
愛する人の事を考え、自分では幸せにできないと身を引くのも一つの愛の形だが、何があろうとも自分の力で愛する人を必ず幸せにするという強い決意もまた、愛なのだった。
カルムの話を黙って聞いていたファリナだったが、カルムの決意が固いという事を悟ると、諦めたように息を一つ吐き出し、こう言った。
「分かりました。ちゃんとカルムさんも私の事好きって言ってくれたし。本当は離れたくないけど……ついて行くのは諦めます」
「すまない。いや、ありがとうファリナ」
「でも、約束だけじゃ待てません」
私は、約束の言葉だけで待てるほど強い子じゃありませんから。
ファリナはそう言うと、目を瞑り、両手を胸の前で組むと、顎を上げ唇を突き出した。
カルムは、ファリナの思いを読み取るとファリナの肩を両手で優しく抱き、そっと、ファリナの唇に自分の唇を重ねた。
ファリナは肩を抱かれた時に一瞬体を震わせたが、唇が重なると、閉じられた目から幸せの涙を流した。
二人はその後、寄り添いながらしばらく月を見上げていたが、明日に響くといけないからとカルムが言い、自分たちの部屋に戻り眠った。
翌朝、最も早く起きたファリナがエプロンを身に着けて皆の朝食を作り、二番目に起きてきたカルムがそれを手伝った。
三番目にはファリナの父親が起きてきて、台所に立つ二人をからかった。そして顔を赤くした、しかし普段よりも気持ち余裕のある態度のファリナに尻を叩かれた。
最後にミーティアがカルムを探して部屋から出てきたので、四人そろって朝食をとった。
瑞々しいレタスやトマト等の野菜が、潰されたゆで卵と薄く切られたハムと共に盛り付けられたサラダと、牛のバターをたっぷりとぬりつけた四角い薄切りの焼いたパンという組み合わせは、四人の起きたばかりの頭と胃袋を覚醒させ、一日を乗り切る気力を充分に盛り上がらせる威力があった。
ミルクを一気飲みして、食事を終らせたファリナの父は「今日は臨時休業だ」と独断で決め、何処かに出て行った。
残されたファリナは困った顔をしてカルムの方を見たが、カルムもカルムで「ちょっと山に忘れ物をしてきた」と言って、ミーティアをファリナに任せて出発してしまった。
ミーティアと二人残され、少し気まずいファリナであったが、しかし、ミーティアの方は昨日ファリナに何度も頭を撫でられていたせいかファリナに対して完全に警戒心が無くなっているようで、ファリナのエプロンを引っ張って絵本を読んでほしいと頼んできた。
ファリナは椅子に座って絵本を読んであげた。何度も同じ本を読んでほしいとせがむので、自分の昔よく読んでいた絵本を持ってきて、ミーティアと一緒に読んだ。
何冊か読み終わる頃には気まずい空気も消え、この小さな少女を観察する余裕も出てきた。
よくよく見れば、ミーティアが着ている服が男の子の着る服だという事に気が付いた。
確かに、山にいたのならカルムさんのお古くらいしか着る服もないわね、と思ったファリナは、何かを思いついた表情になり、自分が持っている絵本を真剣な表情で見つめているミーティアを抱っこして立たせると、その手を引いて自分の部屋へと向かった。
「お部屋で読むの?」
「うん。お部屋でも読んであげるわ。でもその前に、お着替えしましょう」
「どうして?」
「だって、貴女は女の子でしょう?」
可愛い服を着なくちゃ、とミーティアの顔を見て微笑むファリナに、ミーティアは良く分かっていないのを誤魔化す様に、笑顔を返した。
「やっぱり可愛い!次はこれを着てみて!絶対似合うわ!」
「ねえ、もういい?絵本読んで?」
ミーティアは、ファリナの部屋でファリナの子供の頃の服を着せられていた。
ファリナが幼い時に母親が亡くなった影響か、自分の可愛い娘が何も困る事のないようにという父の愛のおかげで、ファリナは小さな村の娘にしてはたくさんの服を持っていた。
「可愛い!濃い色の服には貴女の綺麗な金髪が良く映えるわ!」
「動きにくい……」
「ちょっとフリルが多いけれど、顔がいいから似合うわね!」
「ゴワゴワする……」
「次はシンプルにワンピースよ。色も清楚な白にしましょう」
「これはなかなか動きやすい」
「このスカートはね、都会でお父さんが買ってきた物で、この引き手を上にあげるとゴムが無くてもしっかり締まるのよ!」
「これはいいもの」
段々と興が乗ってきてどれもこれも着せようとするファリナに、為すがままにされるミーティア。頭の角も隠した方がいいという事で、布を丸め、端にゴムを取り付けた髪留めで、根元から布にすっぽりと覆われていた。
角の形がぐにゃりと先端が根元に向かうように丸まっていたおかげで、髪を纏めている風に見せかける事が出来ていた。
頭に違和感があるのか、ミーティアはしきりにそれをいじった。
「やっぱり女の子はお洒落しなきゃだめよー。カルムさんは男だからそういう所に気が付かないんだわ!」
下着だって男の人の穿かせてたし、とその場に居ないカルムに不満を漏らすファリナ。
次の服の為に今着ている服を脱ごうとしているミーティアに向かって「それ貴女にあげるね。私はもう着れないし」と言って、片手で下げるタイプで、下に車輪の付いている鞄を持ってくると、ミーティアに特に似合っていた服を詰めて、鞄をミーティアに手渡した。
「はい。これあげる」
「これはファリナのじゃないの?」
「そうだけど、貴女の方が似合うし、私にはもうサイズが合わないし。持って行って」
「あ、ありがとう……」
素直にお礼を言うミーティアの頭を撫でて微笑むファリナ。その顔は、幼い妹の面倒を見る世話焼きの姉のように穏やかな顔だった。
ミーティアの着替えも終わり、絵本も粗方読み終わってしまうと、二人はすることを無くしてしまった。しばらくはファリナが昔友達と遊んでいた毬突きなどで暇を潰していたが、ずっとこうして家の中に居るのも退屈だったので、ファリナの提案でミーティアと二人家を出た。
ミーティアはファリナの服を着て、ファリナの靴を履き、角を布の髪留めで隠している。ファリナは村をミーティアに案内しながら、様々な事をミーティアに教えた。
ミーティアは村の全てに興味を持った。そしてその度にファリナにあれは何だと尋ね、ファリナはその全てを分かりやすく教えてあげた。
村人たちはファリナが知らない子供を連れている事を何度か尋ねてきたが、ファリナは自分の親戚だと誤魔化した。
素朴で素直な村人たちはファリナの嘘を疑う事無く、可愛いミーティアに砂糖で作られたお菓子や新鮮な野菜等の食べ物をくれた。
ミーティアは彼らにお礼を言いながらファリナと一緒に村を回り、村を一周する頃にはミーティアの小さな鞄ははち切れんばかりに膨らんでいた。
「すごいね。たくさん貰えてよかったね」
「重たい。けど嬉しい」
肩から掛けた鞄を撫でるミーティアの笑顔を見ると、ファリナの心は次第に暖かい優しさに包まれる様だった。
それは少女の事情を知っているからなのか、それともこの不思議な少女が持つ生来の魅力なのか、ファリナには分からなかったが、悪い気分ではない。
そして、そろそろ家に戻ろうと足を家の方向に向けた所で、ファリナは昨日広場に居た商人を見つけた。
宿屋から出てきたばかりという風な男は、商品が詰まっている袋を馬に縛り付け、今まさに出発しようとしている所だった。
ファリナが男に声を掛けようとした時と、ミーティアが目線の先から小さな手押し車を引きながら歩いてくるカルムの姿を見つけ、走り出したのは同時だった。
「カルム!」
「ミーティア!いい子にしてたか?その服はどうした?ファリナに着せてもらったのか?」
うん、と笑顔でカルムに飛びつき、抱っこしてもらうミーティア。ファリナはそんな二人の姿を少し羨ましそうに眺めたが、すぐに自分の目的を思い出し、商人を呼び止めた。
「あの、すいません」
馬に乗ろうとしていた商人は、昨日の厄介な客がまた来たという風に迷惑そうな顔をして──という事もなく、あくまで商売人として、笑顔でファリナに対応した。
「昨日のお嬢ちゃんか。悪いが今日はここじゃあ店は開かねえぜ」
「そうじゃありませんよ。ちょっと昨日見せて貰ったあの光る物を、どうしてもまた見たくて」
「なんだいお嬢ちゃん。そんなにこいつが気に入ったのかい?昨日は連れの男の方が興味のある風だったけど」
そう言いながら、自分の懐から布の塊を取り出し、昨日と同じくもったいぶったようにゆっくりと布を開いていく。ミーティアと一緒にファリナと合流したカルムは、昨日と同じようにその光を見て固まった。
「ほら、持ってもいいぜ。落とすなよ」
「ありがとうおじさん」
ファリナは商人から爪を受け取り、空にかざしてみた。爪は太陽の光をその身に受け、さらに放つ光が増しているように見える。
「店主。昨日、それは金貨百枚でも足りないと言っていたな」
ミーティアを地面に下ろしたカルムが、商人を見ながら尋ねる。商人はそれに答える様に自慢げに手を叩いた。
「確かに言ったよ。こいつの価値は金貨百枚なんてもんじゃない。相応の所に持っていけばその倍は貰えると、俺は思うね」
「金貨はないが……これならどうだ?」
カルムは山の家から持ってきた工具で、鞘に付けられている黄色の宝石を傷をつけないように器用に外し、商人の手の平に置いた。
商人はいきなり渡された宝石を訝しげに見つめ、懐からルーペを取り出してじっくりと鑑定してみたり、太陽にかざして光り方を調べてみたり様々な方法で本物かどうか調べているようだったが、調べ終わると、いくらか緊張したような声でカルムに尋ねてきた。
「これを何処で」
「父の形見だ。それで足りなければ……」
カルムは商人の目の先に鞘を持ち上げて、これだけあると見せつけた。
商人は手渡された宝石を握り締めたまま考え込んでいたが、カルムの方を向くと、手を開き、五本の指を見せこれでどうだと交渉してきた。
「さっきも言ったが父の形見なんだ。俺は宝石の相場には詳しくないが、それが不等交換だという事は分かるよ」
「だが、こっちだってそれは一つしかないんだ。損は出来ねえ。この数は譲れねえ」
初めから特に交渉するつもりのなかったカルムは、鞘から宝石を外すと、残りの四つを商人の手の平に、一つ一つ落とす様に渡した。
「じゃあ、これは貰っていくよ」
「ああ、いいぜ。兄ちゃんたちも達者でな」
そう言って商人は馬に跨り、道に砂埃を立てながら村を駆けて行った。
残されたカルム達は、手に入れた流星の欠片を三人で見つめながら立ち尽くしていた。
そういえばこれはどうすればいいのだと、二人が途方に暮れ、一人は懐かしい風景を見る様に目を細め、黄金に光る爪を眺めていた。
三人並んで家に帰り、テーブルに置かれた黄金の爪を三人で観察する。
カルムの提案で、とりあえずミーティアに持たせてみたが、特に何が起きるという訳でもなかった。
カルムは、あの時自分の中に流れ込んできた黄金の力の奔流と同じ物をミーティアが感じれば、そのショックか何かで何か思い出したり、あの流星の力を発揮できるようになったりするのを期待していたが、どうやら現実はそんなに甘くないようだった。
「ミーティア、それに何か見覚えみたいなものはないか?」
「知らない。でも、何か懐かしい感じがする。山とは違う不思議な感じ」
「そう簡単にはいかないってことですね」
爪は巨大な爬虫類の物のように大きく、鋭く尖っている。狼とも熊とも、鹿の蹄とも違う。
ファリナは爪を上手に紐でぐるぐると全体を括り、その姿を見えないようにすると、輪を作って首に掛けられるようにした。
そして、いつか思い出すでしょう、とミーティアの首に掛けた。
小さなミーティアの体に、大きなそれは少々不釣り合いだったが、ミーティアが思いのほか気に入ったので、二人は目を合わせて微笑み、何も言わなかった。