08.「さあ。仕事は待っちゃくれないし」
ベロニカの部屋は、選択するまでもなく子ども部屋の隣に決まった。マヤの隣室は既に埋まっていたからだ。先ほどクリスが話に出した、「大兄ちゃん」という人物によって。あまり語る必要もないだろう人物なのでクリスは黙っていたが、ベロニカは何か察した様子でにこにこと笑っていた。いつも通りの笑みのはずなのに、やはりどこかしら温かかった。
それにしても大人しいものだと思いつつ、クリスは訝しげに荷物を整理するベロニカの背を見つめる。狭い個室には硬い寝台と小さなテーブルが一つあるだけだ。部屋の隅に置いた彼女の手荷物は、この三ヶ月で見慣れた通り必要最低限のものしか詰められていない。
「すぐに発つのです?」
不意に声を掛けられたクリスは、寝台に腰掛けて足を組んだ姿勢のまま一瞬固まった。平素と変わらぬ声色のベロニカはこちらを振り向いていないから、あの真っ直ぐな目に咎められることはない。ああ、そうだなぁ、と一人言のように小さく呟いて、クリスはこくりと頷き肯定する。
「一眠りしたらね」
「まあ。忙しいのです?」
「さあ。仕事は待っちゃくれないし」
半分は嘘である。最近領主が代わったというのであれば、その近辺を探ろうという人間はいくらでもいるだろう。その中でも一、二を争うほど足のつきにくいクリスが求めれば、恐らく仕事は確実にある。余所にすぐさま仕事を奪われる時期でもないことだし。まあ、あまりもたもたしていて実入りのいい仕事を他に奪われるのはどんな場合でもあり得ることなのだが。
「一ヶ月くらいで済ませるから、マヤさんの言うことをよく聞くように」
ついつい子どもたちに向けるような言葉遣いになってしまったが、ベロニカは全く気にした様子もなく振り返り、はいっ、といい返事と笑顔を向けてきたのであった。
*
じゃあ、くれぐれもよろしく、本当にくれぐれも。と念を押すクリスをしつこい早く行けと追い出したマヤは、さてさてと腰に手を当てつつベロニカを見た。夕方も近い昼過ぎ、クリスを見送るベロニカは実に聞き分けが良かった。一々細かすぎると言われるほどにクリスが念押しする注意事項にもしっかり頷き、大丈夫です、頑張ります、と浮かべる笑みは眩しいほどに明るかった。
「見定めてほしいんだ」
仮眠を取って先に降りてきたクリスは、マヤにそう告げた。これまで三ヶ月間共に旅を続けてきたが、ベロニカの本質が判らないのだと。一番判らないのは、第六疾患だとも言っていた。第六疾患とは、第六種が常人と比べて足りないものを指す。手足や、耳、目など、外見的特徴としてすぐに判別できるのが一般的だ。クリスの場合はぱっと見隠れているので、あんたと似たようなもんじゃないのかい、とは言っておいたが納得はしていないのだろう。確かにベロニカの場合は見て判るほど簡単にクリスとは違うので、その不服そうな顔も判らないでもなかったが。
「何が足りないのか、判ればいいんだね?」
「そう。……頭、とか言われそうで怖いけど」
「その可能性はあるねぇ、あのお嬢さんなら」
笑い混じりにそう言ってやれば、クリスはこめかみを押さえながらやめてくれと呟いた。どうやら非常にそれで頭を痛めてきたらしい。それよりも本人に聞けば早いだろうに、と考えたマヤだったが、割と短絡的思考の気があるクリスがそうしていないはずがない。聞けば、確かに質問したが本人にも判らないそうだという答えが返ってきた。
「第六種について、ロクに知らなかったみたいだしね……追われるようになってから覚えたらしいよ」
追われる前のことは聞いていないと肩を竦めるクリスには、何だかねぇ、と返しておいた。
そうこうしている内にベロニカも仮眠から目覚めたので、支度の出来たクリスを見送ったというわけだ。笑みを浮かべたままマヤを見ているベロニカに、思わず苦笑が漏れてしまう。マヤが面倒を見ている子どもたちと、寸分変わらぬ純粋な笑みだったからだ。もしかしたらこの子は、と考えつつも声には出さない。
「私は何をすればいいのです?」
「そうだねぇ……店開けるのには早いし、しばらくうちの子たちと遊んでたらいいさ」
その代わり夜は相当こき使うぞと脅せば、ぱあっと顔を輝かせてベロニカは大歓迎だと言った。やっぱり足りてないのは、どっかのネジなのかねぇ、と苦笑してしまったのは言うまでもない。その笑みがクリスのものと酷似していることは、当然マヤにだって判り切っていた。
*
そうして迎えた夜。マヤから見たベロニカの評価は、案外使えるじゃないか、というものである。まだ慣れない部分はあれども、働くということが本来好きらしい。くるくるとよく動き、よく笑う。乾いた砂漠の街なんぞに住む癒しの足りない男共には、後者の要素はてき面だった。不埒な輩は勿論マヤがジロリと睨みを利かせて、嫁さんに言うよと脅してやればひとたまりもない。その様子すらも楽しいようで、ベロニカは満面の笑みを浮かべていた。
「はいよ。奥のテーブルね」
「はいっ!」
いい返事と共に両手に皿を持ち、スキップかと思うほど軽快な足取りで奥へと向かうベロニカ。常連客からもすぐに名前を覚えられ、ベロニカちゃん、こっちこっち、と呼ばれている。第五種は荒くれ者ばかりだと思われがちだが、この街の住民は色々と理由があるため比較的良識的な者が多いのだ。比較的、というのがミソである。何も根っからの善人たちばかりではない。
クリスがいいと言えば、ベロニカにはこの店の従業員になってもらっても構わないかもしれない。調理中にそんなことを考えつつ、マヤが目を反らしていた一瞬で、ざわりと店の中にまとまった喧騒が生まれた。ハッとして目を向けたマヤが見たのは、カウンター席でしたたかに酔っ払った客に腕を掴まれるベロニカの姿。くれぐれも、と念押ししたクリスの顔がマヤの脳裏をちらついた。
至って平常通りの顔付きで、ベロニカは首を傾げている。状況が理解できていない、わけではない。きっと理解していて、それに勝る勢いで自分の思うがままに行動しているのだと、直感的にマヤは思った。何て性質の悪い。調理場から出て止めに入ろうとした瞬間、客が拳を振り上げる。おいやめとけ、という他の客たちの声が聞こえたのと、勢いよくドアが開かれて振り上がった腕が弾かれたのはほぼ同時だった。
「……あれ、何か当たったかい?」
からんからんからん、とベルがけたたましい音を立てている。呑気な声と共に店に入ってきたのは、長いローブを着こんだ長身の青年だ。ぽりぽりと頭を掻きながら、いやいや悪いね、などと言っている様子に、何だお前かという雰囲気が浮かんでくる。
「とりあえずさ、放そうか、お客さん。嫌がってるだろう?」
ひょいと伸ばした長い腕が、客の手首へと伸びる。するりと難なくベロニカの腕から手を外す仕草は魔法のようにも見えた。客も意味が判らなかったようで、いつの間にやら外された手と男を交互に見ている。その内周りの視線から自分が恥を掻いたことに気付いたのか、客は酒の所為だけではなく顔を赤くして立ち上がった。男は平然と肩を竦めて、そんな客の向こうにいるマヤに視線を寄越す。
「で、どういう状況かな?」
「見ての通りだよ」
「へえ。じゃあ、どこまでやってもいい状況かな?」
ぺろり、と男が唇の端を舐める。にたりと笑むその顔は喜色満面と言って差し支えないだろう。それにつられたようにベロニカがきゃっきゃと声を上げつつ一歩下がる。荒事に慣れている素振りに周りの客たちもつられて囃し立てる声を上げた。好きにしろとマヤが言えば、その声が一層大きくなる。
そんな中、男はそういえば、と言いたげな顔でぽむりと手を打ちマヤに告げた。
「母さん、ただいま」
場違いな挨拶に、マヤは苦笑を浮かべながら「大兄ちゃん」と呼ばれる男の名を呼んだ。
「おかえり、コネホ」