06.「訳ありじゃなかったら?」
ギィ、という音に続いて、カランコロン、と乾いた鐘の音が響く。左手にカウンター、右手の奥にテーブルが二つ、通路は椅子が邪魔する狭き門。そんな小さな店では、ドアを開けただけで来店したのが筒抜けだ。どうやら今夜は繁盛しているようである。テーブル席の奥の方に、直接床に座り込んでまで酒を飲んでいるような客までいるほどだから。
体格のいい荒くれ者ばかりと言っていいような空間の中で、長身で細身のクリスはひどく目立つ。その背後のベロニカは言わずもがなだ。
すぐに外套を脱いだクリスの姿を見つけたカウンター席の客が、酔った様子を見せない目で片手を挙げた。その傍らに転がる酒瓶の数から、息はきっと見た目にそぐわない酒気を帯びているのだろうなと考えて思わず苦笑してしまう。
「よう坊主! 出稼ぎ終わったのか?」
「まあね。こっちはどうしたの、随分景気がいいみたいだけど」
話しながら空いている手前のカウンター席に寄る。ドアを開いてからきょとりと目を開いたままだったベロニカの手を引いて奥に座らせ、大人しくしててくれよと目で示した。ベロニカはすぐにぱっと顔を輝かせ、元気よく頷くと同時にきょろきょろと店内を見渡し始める。
声を上げないだけ大人しいと言えば大人しいが、目立っていることには変わりない。軽く頭を抱えて溜め息をつけば、先ほど声をかけてきた客が苦笑しながらグラスを差し出してきた。まあ飲めよ、と言われていることは判ったのでありがたくグラスを受け取り、むわりと鼻につく液体に閉口したくなる気持ちを抑えてグラスを煽る。隣の男は直接口をつけて、瓶の残りを一気に飲み干していた。
「クリス、ここは」
グラスを置いたタイミングで、ベロニカが声をかけてきた。その声量は普段よりいささか大きめだ。うるさい店内では聞こえないと思ったらしい。低い声と下品な笑い声ばかりの空間で、ベロニカの高い澄み切った声はよく響く。気付いてこちらに下卑た目を向けてくる客もいたが、隣に座っているのがクリスだと判ると早々に目を反らした。
何だあいつの連れか、という残念そうな声は聞こえなかったことにした。
「バーだよ、バー・マゲイ。お酒出す店」
「ではこの方々は、皆さん第五種なのです?」
「そうだね」
気のいい人たちだと説明すれば、隣席の客がばんばんと音を立ててクリスの背を叩いた。お前も含めてな、と続けられた言葉に反射で頬が緩みそうになるが、そんなことは言っていられない。痛いのだ、ばんばんばんと、今まさに叩かれている背中が。痛い痛いと主張する前に、その手はぴたりと止まったが。
「こら。何やってんだいガキ相手に」
カウンターの奥から聞こえた声に、思わずハッと顔を上げる。勢いをつけて視線を向けた先、カウンターの奥の扉からひょっこりと顔を覗かせたのは、一人の女性だ。右肩の上で緩く一つにまとめた、ウェーブのかかった濃茶の髪。重たそうに半分ほど開いた黒い瞳。子どもをたしなめる呆れたような表情は、何年経っても変わらない。
彼女の名前はマヤ。ここ、バー・マゲイの店長である。女だてらにこの街で一番良識的な酒場を経営している人であり、クリスの育ての親でもある。クリスが、マヤさん、と自分でも判るほど安堵した声を出せば、彼女は目を細めて音もなく喉を震わせた。
「おや、クリス。お帰り。そっちの別嬪さんは訳ありかい?」
かれこれ一年ぶりだというのに、まずはそっちの心配か。ゆっくりと睫毛をはためかせるベロニカをちらりと横目で見てから、すぐに視線を戻す。くふんと一度だけ面白そうに笑ったマヤは、視線をクリスから外してすぐに奥の調理台へと向かった。奥のテーブルから追加の注文が入ったためである。
グラスの中身を飲み干せば、当然のように目の前に並べられていく皿やジョッキや小樽の数々。帰って来たばかりだというのに人使いが荒い。苦笑して肩を竦めてみせてから、クリスはおもむろに立ち上がる。慣れた様子で右手にドリンク、左手に料理を持って奥へと向かった。
「訳ありじゃなかったら?」
「あんたが人連れてきた時点で十分訳ありさ。この人間嫌いが」
せめてもの意趣返しとして、出来る限りの底意地が悪そうな笑みで言い残した台詞も、呆れたようなマヤの声に掻き消されてしまった。
*
結局店が閉まるまで働かされたクリスと、カウンターの隅でチーズとミルクをちびちびやっていたベロニカの、疲労度の差は明白だ。ここでベロニカが手伝うと言ってくれなかったら遅すぎる反抗期に突入していたところだぞ、と考えながら、クリスは無言で食器を洗う。
タライいっぱいの水を使って食器を洗える理由を、ベロニカは聞いてこなかった。砂漠に囲まれた町であるにもかかわらず。もしかしたらただ単に気付いていないだけかもしれないし、もう既に察しているのかもしれない。どちらであっても彼女らしいと言えるだろう。
カウンターで金勘定をするマヤを置いて二人でテーブルを片付ける。クリスは皿洗い、ベロニカはテーブル周りの掃除、と二人で分担したため、案外早く片付いた。これでマヤが加わればもっと早かったに違いないが、金勘定だって立派な仕事だ。そう言い聞かせて疲労を誤魔化す。
「さて。メシでも食うかい?」
一通りカウンター周りが片付き、流し台の皿の山が半分ほどになったタイミングでマヤが口を開く。ちらりとクリスに投げられる視線は、ついでだからお前が作れ、とでもいったところか。立っているものは親も子どもも、半分自立しているものの疲れきっている養い子でさえ容赦なく使う。その精神には尊敬の念しか抱かない。
「いただきますっ!」
「いい返事だ。で、別嬪さん。名前は?」
そういえば名前も教えていなかったかと思いつつ、クリスは手を拭いてから腰に巻いていたエプロンを外した。マヤがこちらへ視線を向けてこないということは、クリスに対して説明を求めてはいないのだろう。大人しく洗ったばかりの鍋を取り出す。二人が話している間に朝食を作っておく算段である。立っている者だという自覚はある。
「ベロニカです」
「そうかい、ベロニカ。うちの悪ガキとの関係は?」
「クリスのことです?」
そうさ、と答えるマヤの声はクリス以外が聞いても好奇心に満ちていると判るだろう。猫をも殺すとは言うが、はたしてこの人を殺せるのだろうかと考えたクリスは苦笑した。有り得ない。猫なんて可愛らしい範疇に収まるような人ではないのだ。
そうですね、と少しだけ考える素振りを見せたベロニカは、ピンときた様子で人差し指を立てた。ズバリ、とでも言い出しそうだったが流石にそれは口にしていない。考えた割に出てくる言葉がとんちんかんなものであることは既に予想していたので、会話の内容は出来るだけ耳に入れないようにしておいた。
それより調理を進めなければ、何を言われるか判ったものではない。
干し肉の切れ端を飲み残しのワインで煮詰めて、あとはパンでも焼けばいいだろう。砂漠越えのために食料は多めに買い込んであったから、鞄の中にはまだ残っていることだし。
「相乗り仲間です」
ねえクリス、と言われたところでこちらが返せる言葉などそう多くはない。苦笑しながら鞄を示す。ぱちりと大きな目を瞬かせたベロニカは、クリスの言葉にすぐさま従ってくれた。まるでこちらの考えなど見透かしているとでも言うかのように。
「……相乗り仲間でも何でもいいから、魚油の瓶取ってくれないかな」
「おや。重かっただろう、瓶なんて」
「そうでもないよ。跳んできたし」
顔ほどの大きさの瓶をカウンターに置いたベロニカは、にこにこと笑って瓶の中身を見つめていた。香味づけした魚油の中には、はち切れそうなほど腹の膨れた小魚がたっぷり詰まっている。魚油の瓶というよりは、小魚の瓶だと言った方がいいだろう。
これはディールの特産品で、街に到着してすぐに買ったものだ。荷物になるかと思ったが、今となっては実に良い判断だった。まさか着いた初日で逃亡者になるとは、誰も予想していなかったに違いない。ベロニカの方は、予想していてもおかしくはないが。
瓶を受け取り、数匹の小魚をひょいひょいと鍋の中に放り込む。油はたっぷり沁み込んでいるからわざわざ足さずとも構わない。干し肉を千切りながら放り込んで、飲み残しの赤ワインと適当な調味料を追加する。そういえばパンは、と視線を向けた先には、鞄から取り出したパンを差し出すベロニカの笑顔があった。
「ありがとう。これとあと、スープか何かいるかな」
「いいえ、もう寝るだけですし」
「そう、じゃあこれでいっか。マヤさんは? 何か作ろっか?」
いい香りが立ち上り始めた鍋を振るいつつ問いかけるが、返ってくる声はない。怪訝に思って鍋を一旦下ろし、顔ごと視線を向ければ、ぽかんと口を開いたマヤがいた。つられて目を丸くしたクリスを見て、思い出したかのようにぺちぺちと軽く自分の頬を叩いている。
何かおかしなことでもあっただろうか。もしかして、調理法が悪かったか。それとも、ほぼグラス一杯残っているとはいえ客が残したワインを再利用するのはまずかったか。だって勿体なかったし。
何だろうかと考えてクリスが小首を傾げるのが目に入っていない様子で、ベロニカはただにこにこと笑っている。
「驚いた」
ぽつりと呟いたマヤに対して、それは見れば判るとクリスは思った。思ったが、わざわざ口にはしない。マヤがこんな風に、呆けたような態度を見せるのは初めてだったからだ。
「ああ。……あんたも、そうなんだね?」
「はい」
一人言の次は、ベロニカへの問い掛けだった。重要な部分がすっかり抜け落ちているというのに、ベロニカはその質問を綺麗に拾い上げて肯定を返す。こくりとしっかり頷いたベロニカに大して、マヤは嬉しそうに微笑み、そうかいそうかいと頷いた。
クリスは黙って鍋をぐうるりと掻き回していた。もうそろそろいい具合になってきたから、皿に盛りつけてしまってもいいだろうか。それまでにはマヤも、いつもの彼女に戻っているといいのだけれど。らしくないマヤにどこかむず痒い気分になってしまったクリスを見て、ベロニカはなおも笑っていた。
きゅるる、と鳴いた腹の虫からして、クリスではなく鍋を見て笑っていたのだろうが、そこはそれである。