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ベロニカ!  作者: 栄 萩乃
逃亡開始
4/16

04.「君も案外、しつこいねぇ」

 その後は、とにかく時間との勝負だった。宿に戻ってまだ広げてもいなかった荷物を取り、予定より早く連れと合流できたから、というその場しのぎの嘘で部屋をキャンセルして一目散に街の外へ。街道を反れた雑木林の方へと向かい、一応跳べるのかとだけ確認してから木々の間をすり抜けるようにして、二人で街から遠ざかった。

 木々の隙間に見えた星空がやけに綺麗に見えたと、クリスは青春に思いを馳せる老人のような遠い目をしつつ思い返す。あのときベロニカに出会わなければ、今こうして余計な騒ぎに巻き込まれることもなかったに違いない、と大きな溜め息を吐きながら。

 関所の街グレア。街を十字に分ける大きな市場が有名な街である。これだけ人が多ければ、逃亡者であっても騎士に見つかるということはないだろうと考えていたのだが、クリスの見通しは甘かったようだ。けれども言い訳はさせてほしい。まさかまさか、偶々言い争っていた知らない男たちをじいいいいと音が出るほど見つめた挙句、見世物ではないぞと言われて見世物ではないのかそれは残念だと答えてしまうなどとは思わないだろう。かなり離れた位置で買い出しをしていたクリスが、不自然に思われない程度に六能を駆使してベロニカの腕を取り踵を返そうとしたのも結局無駄だった。

「ジョンか……、会いたいの?」

「まさか」

 たぁん、と屋根を蹴って街の隅にある安宿まで戻る道すがら。ひらひらとこちらに向かって手を揺らめかせるベロニカに溜め息をついてから、クリスはその手を握ってぐっと引き寄せた。きゃあ、と高い声が上がるが、喜色しか聞き取れなかったので放っておく。

 そのままがしりと腰に右腕を回して足に力を込め、屋根の少し上を蹴る。空気を踏みしめる感覚と浮かび上がる体に、ベロニカはきゃあきゃあと小さい声を上げながら喜んだ。

「ジョニーさんもお忙しいのですから、そろそろ休んでいい頃合いですし」

「無駄に偉そうだな……。君が捕まれば、彼もゆっくり休めるだろうに」

「嫌です」

 きっぱりと言い切られて、思わずクリスは苦笑する。三ヶ月の付き合いで、ベロニカの言葉に嘘がないことは身をもって知っているからこその苦笑だった。この分ではあの難しい顔をした騎士に休暇が訪れるのは当分先のようだ。そんなことを考えながら、ようやく見えてきた安宿の屋根に向かって速度を上げた。きゃあ、と高い声もまた上がった。

 とん、と古ぼけた薄茶色の屋根に降り立って、クリスはきょろりと辺りを見渡す。案外人間は意識しなければ上空を見ないものだ。ベロニカの騒ぎ声も比較的小さかったため、見つかった心配はなさそうだ。腰に回していた腕を解けば慣れた様子でベロニカは屋根に足をつき、それから狭いベランダに下りていく。

 窓は換気のために開けておいてほしい、貴重品なら持ち歩くから宿の責任にはならないだろう、と色々宿主に説明しておいたのが功を奏した。この手は使えるから今後も使おう。出来るだけ街の外に近い宿を取るのも有効だ。値段は安いし、いざというときには逃げやすいし、寝台が硬いことを除けば言うことなしである。

 そんなことを考えつつ、必要最低限のものを詰め込んだ紙袋を抱え直したときだった。不意に現れた屋根を踏む大きな音。今までこちらに近付く足音はあれども、どれもこれも意思を持って近付いてくる音はなかったのに。げ、と一瞬で顔が引きつったのは、この三ヶ月の経験ゆえだろう。慌てて紙袋を肩にかけていた鞄へと突っ込めば、がさがさと思ったよりも大きな音が鳴ってしまった。その瞬間、背筋に感じた嫌な気配。げろ、と隠すことなく吐き捨てて、口を開く。

「君も案外、しつこいねぇ」

「お前は存外、しぶといな」

 振り返らずに言ったクリスに、屋根の下から返ってきた低い声。ざりざりと屋根の際の方へ摺り足で進めば、足音をほとんど立てずにすぐさま回り込まれてしまった。嫌だなぁとぼそぼそ呟きながらようやく視線を下へと向ける。そこには一般人と大して変わらない格好なのに、眼光の鋭さは桁違いの男が立っているではないか。しつこいなとクリスが再度呟けば、男はそっと目を細めて足を止めた。

 周囲と比べて縦に長く、やけに涼しい顔立ちのこの男。ベロニカがジョニーと呼んだ彼は、実際はジョンという名らしい。では何故愛称で呼んでいるのかとクリスが聞けば、ベロニカはきょとりと首を傾げながら「だって呼ばれていましたから」と答えていた。誰に、という情報がすっぽり抜けているがクリスは聞き返す気にはなれなかった。何をそんな当然のことを、と言いたげな顔で言われてしまったためである。

 時折ベロニカはそういった、何故理解できないのかと本気で思っているような態度を取る。クリスがそれを注意していたのはほんの三日間だけだった。何しろ本人に自覚がないのだ。それが余計な問題を生むのだとさっぱり理解していないため、労力の無駄だと割り切って考えることにした。その結果が、先ほどの市場での事件だったのだが。

「ベロニカ」

 市場での再現よろしく、またしてもずりずりと後方へ下がる。丁度屋根の真ん中あたりまで戻ってきたところでクリスは室内に声をかけた。はい、と耳に心地よい返事が聞こえて三秒ほど待てば、すぐに聞こえる駆け足の音。とんとん、とベランダを蹴って再び屋根に上がってきたベロニカは、宿に置きっ放しにしていた鞄を背負ってにこにこと笑っている。

「終わりました。置き手紙もばっちりです」

 びしっと踵を合わせて敬礼でもしそうな様子に、クリスは毎度の如く溜め息をつく。その間にも耳で警戒はしていたのだが、じっと見張りを続けるジョンは積極的にクリスを捕らえようとは思っていないようだった。クリスとしてはベロニカのおまけ扱いされるのはありがたいのだが、どうにもこうにも解せないものがある。何だかな、と思いつつベロニカの手を引きこの場を去ろうとしたクリスは、けれどもその動きを当のベロニカに押し留められた。

「ジョニーさん、ご機嫌いかがです?」

 平然と首を傾げて問いかけるベロニカに、クリスが内心頭を抱える。ついでにずるりと肩から落ちてしまった鞄の紐の方が空気を読めるだろう。彼女の比較対象にするには肩紐に失礼だと思ってしまうほどに。

 いいから行くぞという気持ちを込めてベロニカの手首を掴んだクリスだったが、下から聞こえた坦々とした声に再度頭を抱えた。忘れていた。そういえばも何も、最初からジョンだって十二分に空気を読めない人間であった。

「……ベロニカ殿、そろそろご決断を」

「何度言われても私の答えはノーです。変わりません」

「そうですか」

「ええ。行きましょう、クリス」

「私を置いて話を進めないでくれるかな、二人とも」

 まあ解散の方向に話が進んだのであれば問題はない。元々この街にはそう長く滞在するつもりはなかったのだ。早くて明日、遅くて明後日には出発する予定だったのだから、それが更に早くなっただけの話。クリスは溜め息をつきつつ、じゃあ行くよと隣の屋根に移ろうとした。

「ならば」

 ジョンが呟き、その手の内から小さな金属音が聞こえたことで、足が止まる。クリスが振り向くより先にベロニカが繋いだままの手を引いた。方向は、下。ぐえ、とカエルが潰れたような声を立てて頭を下げたクリスの頭上を、何かが勢いよく飛んでいく。何だ今の、という呟きは、針です? というベロニカの呑気な声によって拾われた。

 チッ、と珍しくジョンが舌打ちする音が聞こえて、クリスはぞっと顔を青くしながら屋根の下を見た。ジョンの指の間には、思った通り鋭い針が挟まっているではないか。想像したくはなかったが予想はついていた。驚くなというのは無理な話だが。恐らく、神経毒か何かを仕込ませている可能性は高いだろう。ベロニカに対してはある程度紳士的だが、クリスに対しては虫けらを扱うような態度を取るのがこの男だ。ジョンが昆虫愛好家になるよりも自分が逃げた方が早いことを知っているクリスとしては、とうとう実力行使に出た冷淡な男の真顔をちらりと見ながら足に力を込めた。

「……ジョン……あのさぁ、もうさぁ……。諦めてよ」

「無理だ」

 がっくりと項垂れつつも予想は出来ていたので、ぐっと屋根を踏み込みベロニカを引き寄せる。きゃっ、と上がったベロニカの声はやはり楽しげで、大きなその目が言いたいことはすぐに判った。いつもの台詞だ。開きかけたその口からも、同じ言葉が飛び出るだろう。

「逃げるのですねっ?」

「ああそうだよその通り、っていうか、逃げてるんだよ今まさに!」

 言葉を返す合間に、ぐっと踏み込んだ足で屋根を蹴る。

 空を飛ぶ。まさにその言葉通り空間を蹴って街の外へ向かうクリスの足を狙って針が飛んできたが、ベロニカが器用に靴の側面で弾き飛ばしていく。びゅおうと空気を裂いて飛来し、ぺしぺしと弾き飛ばされる針に肝を冷やしながら跳ぶクリスの気持ちを、ベロニカもジョンも判っているとは思えない。

「逃げているのです、の方が良かったです?」

「そうだね!」

 叫んだクリスに驚き市場の人間たちがぽかんと空を見上げたが、半ばやけくそになっていたクリスは気付かない。無駄のない動きで市場をすり抜けながら針を投げ続けるジョンの手元は、結局街を出るまで休み知らずだった。そろそろ休め、と切実に願った心情だって、ベロニカもジョンも判っているとは思えなかった。

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