03.「……とんだとばっちりだ」
ざわつく周囲をちらりと見渡して、クリスはどうやってこの場から離れようかと思考を巡らせた。どうして騎士団の人間が、という小さな囁き声には、全くその通りだと内心全力で頷きながらじりじりと距離を離していく。この騒動の原因である美男美女二人に、これ以上近付くつもりはない。
女の言葉は、男が騎士団に所属していることを明確に示していた。男も舌打ちしそうな表情を浮かべているが否定はしない。沈黙は肯定と見て、クリスは騎士団について考えを巡らせる。
この世において騎士と名のつく者は、全て騎士団、ひいては教会に属している。教会の矛であり盾である彼らがここまで敬遠されるのは、彼らに教皇から与えられた命令が一番の理由だろう。騎士たちの至上命令は『第六種の保護』であり、その任務遂行のためであれば割と何でもやる。聞いた話ではあるが、必要とあらば戦艦も持ち出すし、街一つを潰すのもお手の物なんだとか。
そのため一般市民階級である第四種などは勿論、富裕層である第三種さえも、第六種を匿おうとは思わない。それ以前に第六種は、見た目からして腕が一本なかったり耳が片方潰れていたり瞳の色が違ったりと、常人からは異常と思われるような容姿をしているため、生まれた瞬間教会に引き取られることがほとんどだ。教会が第六種を保護する理由は、彼らの外見上の問題だけではないのだけれど。
「……ってことは、あの姉ちゃん、第六種なのか……?」
「嘘だろ……手足も何も、全部揃ってるじゃねーか……」
ざわざわと広がった話し声の中にそんな声が聞こえて、クリスはちらりとそちらを見た。カウンター席で飲んでいた二人の男性客である。騎士にも一応休暇はあるわけだから、百歩譲ってこんな酒場にいるのもそうおかしくはない。だが男の雰囲気は休暇と言うべきものではないし、もしも任務外なのであれば女だってわざわざ周囲に聞こえるように騎士団などという言葉は出さないだろう。
やはり、彼女が。ごくりと唾を飲んだ一同を知ってか知らずか、女性は平然とテーブルに両肘をついて両掌で顎を支え、周りのことなど見えていないと言わんばかりに口を開いた。
「ジョニーさん、あちらこちらに行く度にお会いするのも縁ですけれども、そろそろ唐突な登場にも若干飽きてきてしまいました。何とかなりません?」
「……いい加減、諦めていただけますか。ベロニカ殿」
「諦める? 何をです?」
「我々から逃げるのを」
「あら、心外です。私は好きなときに好きなところへ向かっているだけですもの。逃げてなんかいません」
ぷんぷん、と音が出そうなほど判りやすく怒ってみせる女性に毒気を抜かれたのは、何もクリスだけではないだろう。何だあの女、という空気に中てられついつい怒らせていた肩を落としてしまった客は数知れず。けれども、何だただの痴話喧嘩かと安直に決めつけ、不躾な視線を収めるような者はいなかった。皆、気になっているのだ。このあとベロニカと呼ばれた女がどのような行動を取るのかを。
ベロニカはジョニーと呼んだ騎士の男に向けていた視線を不意に外し、つるりと軽く撫でるように観衆へ目を向けた。真っ直ぐすぎるその瞳に居心地の悪さを感じたのはこの場にいるほぼ全員で、慌てたように彼女と目が合わないようにあらぬ方向へ視線を逃がす。クリスもそれに倣ってそろりそろりと厨房へ逃げようとしたのだが、踵を返す前にベロニカの視線に捕まってしまった。別段悪いことをしているわけでもないのに、ギクリと背筋が跳ね上がる。
「ねえ、ジョニーさん?」
クリスから視線を反らさず、ベロニカは口を開く。唯一の救いは騎士がベロニカから目を外していないということだろうか。蛇に睨まれた蛙のように身じろぎ一つ出来ないクリスを見たベロニカは、ぱあっと目を輝かせて立ち上がった。ぎょっとする一同など何のその、ぱたぱたと軽い足取りで駆け寄ったベロニカがクリスの手を取る。目を白黒させているクリスに満面の笑みを浮かべてから片手を掴んだまま振り返り、ベロニカは口を開いた。
「この方では駄目です? 私の代わりに」
約一名を除いて、空気が固まった。その約一名であるところのベロニカは、嬉しそうな顔で再びクリスに向き直った。ぐっと握られた手の感触がクリスの人並みな脳味噌に届いて処理されるまで、普段の数倍以上の時間がかかっているように感じた。
「第六種? と、言うのですよね? この方もそうですもの。私でなければならないという理由はありませんし」
彼女の言っている意味が判らない。それはクリスだけではないはずなのに、周囲から刺さってくる視線は雄弁だ。シンと静まり返っているように思えても、実はあちこちでこそこそと話している声は聞こえる。
その中に客だけではなく従業員のものも混ざっているのを確認して、クリスの脳内に絶望の二文字が浮かぶ。
「そんな、言いがかり」
「嘘じゃありません」
ハハ、と軽く笑ってみせたクリスだが、間髪入れずにスパリと否定されてしまった。ぶわりと嫌な汗が背筋に浮かぶ。誰の目からもクリスの顔が真っ青になっていることは明らかで、その反応こそがベロニカの言葉の真贋を明らかにしていた。
不意にチャリ、という軽い金属音が聞こえて、クリスは俯いてしまっていた顔を勢いよく上げた。視線の先には鋭い目で見据える騎士の姿。ポケットに突っ込んだ手には、恐らく法具が握られているはずだ。
法具とは、外見だけでは判別できない第六種を判別するための道具である。音からして、形状は鎖を通したロザリオだろう。持ち運び可能な小さい法具は本人に触れることでしか役目を果たせないはずだから、このまま逃げ切ればどうにかなる。そう決断したクリスは、そっとベロニカの手を外しつつ引きつった顔で一歩後ずさった。
逃げなければならない。その考えがクリスの脳内を占めた。冷静な判断など出来ようはずもなかった。たとえどんな手段を使っても、逃げなければ。
「あら」
「……君は、もう少し言葉を選んだ方がいい」
苦く重い言葉と共に、クリスは視線だけを巡らせた。背後の扉までは少々遠いし従業員だっている。一階の窓も閉ざされたままだから、脱出するには時間がかかるだろう。その間に騎士に捕まってしまえば終了だ。クリスから見える開いた場所と言えば、高い天井付近で開け放たれた大きい窓程度。空でも飛べなければ逃げられやしないだろう。
そう。空でも、跳べなければ。
「まあ!」
腹を決めたクリスの行動は早かった。ロザリオを握った手を引き出そうとする騎士に向かって真っ直ぐに駆ける。能面のように冷静だった男の顔は変わらなかったが、その目にほんの少しの驚きと喜びの色合いが混ぜられたのには見て見ぬふりをした。騎士の長い腕が伸びてくる気配を耳で聞き取りながら、クリスは地を蹴る。たぁんと靴底が床を大きく踏みしめる音と、息を飲んだ観衆の声がやけにクリアに耳へと届いた。
超人的な跳躍力。それがクリスの第六種としての異能の一つ、いわゆる六能と呼ばれるものである。見た目からして常人と異なる第六種の、最大の特異点がこの六能だ。いわゆる超能力というものである。個人によって使える能力は違うらしいが、大きく六つに分類されることから六能と呼ばれるのだとか。研究しようにも第六種は皆教会によって捕獲……もとい、保護されてしまうから、詳しいことは伝わっていないのだが。
瞬きほどの間に階段を駆け上がるようにして高い窓まで辿りついたクリスは、自分の後ろから一つの気配が追いかけていることを察していた。クリスより幾分か遅いペースで後についてきたのは、先ほどの女。顔をしかめながら、クリスは彼女の手を取って引き上げてやる。窓の桟に足をかけたベロニカは、ふふふと笑って小首を傾げている。
「……とんだとばっちりだ」
「あら、それは失礼しました。でもどうせ逃げるのでしたら、相乗りしません?」
にこにこと毒気を抜かれるベロニカの笑みに、クリスは大きな溜め息を溢す。積極的に追ってくる気配を見せない騎士を一瞥してから、握った手を再度握り直して外へと飛び出した。踏みしめた空気が、靴底を軽快に鳴らした。




