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ベロニカ!  作者: 栄 萩乃
逃亡開始
2/16

02.「いらっしゃいませ」

 三ヶ月前のことである。クリスはその日、海に面した街に到着したばかりであった。

 港町ディールは、西では一番と言っていいほど大きな街だ。海だけではなく山も近いことから、食材が豊富なことで有名である。美食主義ではないクリスも、下町気質の溢れるこの街ではどこの店も舌鼓を打つほどに料理のレベルが高いと実感した。前の街から割とわびしい食事を続けていた身には、この街のダクトの香りですらご飯が進むというものである。流石にそれはみっともないので実行しないが。

 肩から斜めにかけた鞄は軽い。その中にある財布しかり。まずは資金調達かと考えたクリスが最初に向かったのは、大きくはないが小さいわけでもない店構えの酒場であった。何も、こんな昼間から飲もうというわけではない。短期間で金を稼ぐのであれば、この街では飲食業が一番だろうと考えたためである。店構えから適当に選んだその酒場では、幸運なことに短期間の働き手を募集しているところだった。

 丁度今は漁のシーズンなのだと聞かされたのは、無事酒場の従業員として短期間の採用が決まったときである。支給された揃いのエプロンを身につけている途中で、同じ従業員の女性に言われたのだ。獲れる魚目当てに多くの観光客が訪れるため、いくら人手があっても足りないらしい。毎年のようにこの時期だけは従業員を増やすのだそうだ。

「ほんと、てんてこ舞いよ。クリスくんはこの時期初めて?」

 下から大きな瞳に見つめられて苦笑する。上目遣いというのは素晴らしい。素晴らしくあからさまに、アピールをされている気分になる。ぴくぴくと耳がひくつくような気分になりながらも、クリスは笑って正直に告げた。この街に来たのは初めてではないが、この時期は初めてであること。以前訪れたのは五年ほど前で、今ほど栄えているようには見えなかったこと。それから支度をしつつ会話を重ねれば、従業員は明るく笑ってクリスの背をばしんと叩いた。

「夜はびっくりするぐらい忙しくなるから、今の内に仕事教えとくね!」

 夕方になって落ちてきた陽の所為ではなく、軽く染まった丸い頬。微笑ましい気分になりながら苦笑したクリスを、彼女がどう見たのかは判らない。ただ、クリスのよく聞こえる耳には彼女の少し早い心音が届いており、何だかなぁと少々複雑な気分になったことだけは真実であった。


   *


 冗談でも誇張でもなかった。怖い。シーズン怖い。もう絶対この時期には来ない。

 初日ということもあり、忙しい合間を縫って与えられたほんの少しの休憩時間。厨房の奥のバックヤードで、ぐたりと頭を抱える姿が一つ。ぶつぶつと呪詛のような言葉を呟くクリスは、傍から見れば十二分に疲れ切った姿をしている。ひょこりと厨房から顔を見せた件の女性従業員は、その姿を見て一瞬ぽかりと口を開いた後でけらけらと笑いだした。

「うん、でもね。クリスくんすごい役に立ってるから! ちょっと飛ばしすぎかなとも思ったけど!」

「……思っていたなら、止めていただけると、非常にありがたかったんですが……」

「だって表では平然としてるんだもん。こんなになるまで無理してたなんて判んないよー」

 ごめんね、と告げる彼女の声にはやはり笑いが混ざっていて、それが一層クリスの肩にずしんと圧しかかる。確かにペース配分的に割と飛ばしている自覚はあったが、まだまだいけるだろうとは思っていたのだ。それが徐々に慢心だったと気付き始めて、次第に肩や足が重くなり、最終的には笑顔すらも引きつっていたように思う。

 だがしかし、こちらの言い分も聞いてほしいとクリスは思う。何しろあちらこちらから延々と呼ばれ続けるのだ。客席だけではない、厨房からも会計からも、挙句の果てには便所や店外からすら声を掛けられる始末。その度に慣れた従業員たちが声を上げ呼ばれた方へと急ぐのだが、何分各々がやるべき別の仕事というものも存在する。手が空いていたクリスが自然と手伝うようになれば、できるならやれということで、新人というステータスは綺麗さっぱり消え失せた。

 客側は勿論クリスが今日から入った従業員なのだとは判らないためお構いなしに呼んでくるわけである。クリスが少々苦手としている大きな大きな声で。次からは静かなバーを選ぼう、短期が難しいなら少々長引いても構わない。クリスがそんな決意を固めたのは想像に難くない。

 結局、休憩時間は体を落ち着け水を一杯飲んだだけで終わってしまった。さて後半も頑張るかと頬を叩きながら立ち上がる。厨房の気さくな料理人からは、頑張れよ新入りと声をかけられ、名物料理の一つである刺身を差し出された。客の残り物ではあるがありがたく受け取り一口で食べ切る。時期なのだろう、程よく脂の乗った刺身は口の中で蕩けて消えた。思わず美味いと呟くような大きさの声が漏れた。そうだろうそうだろう、と得意げな顔でおおよそ十人前の炒め物を一気に作っている料理人は、この厨房の中で一番の古株らしい。道理で鍋さばきが他と一線を画しているわけだ。素人目に見て凄いと思う程度のことしか判別は出来ないが。

 丁重に礼を伝えてから表へ戻る。気分はさながら、戦場に向かう兵士と言ったところだろうか。あくまでも一兵卒というのがミソだ。最後の晩餐は美味かったな、と肩を組めるような戦友がいればよかったのだが、生憎今のところ新兵クリスに仲間はいない。孤独とはかくも恐ろしいものだったのか。

「あ、すいません店員さーん」

 そんなどこかぶっ飛んだ気合いも、客からかけられた声によりすぐさま霧散してしまう。はい少々お待ち下さいと言いつつしっかりエプロンを装着し直し、伝票を用意しながら笑顔を張り付けた。


   *


 その後、忙しさは留まるところを知らず、ようやく客が落ち着いたのは日付を跨いでからだった。その頃になればクリスも比較的静かなカウンター席の付近を担当することになり、マナーの良い常連客の近くでほっと一息つく。

 こんな時間でもまだ客入りがあるのかと思ってしまうほどだが、やはり出ていく方が多い。ピークは過ぎ去ったなと一息ついて額に浮かんだ汗を拭ったところ、その考えを甘いと笑うかのように外からドアが押し開かれた。やはりそう簡単にはいかないらしい。内心苦笑しながら接客用の笑顔を浮かべる。

「いらっしゃいませ」

 お一人様ですか、と続ける通り、入ってきたのは一名だ。この時間にお一人様、それも女性客とは珍しい。そんなことを考えながらも無粋な思考は丁寧に包み隠して席を勧める。常連客のテーブルから少し離れた二人用の席に誘導すると、女性は嬉しそうに微笑んで礼を告げてくれた。クリスもまあ普通の感性を持った人間であるから、美人の笑顔は嬉しいものだ。いえいえ、すぐにメニューをお持ちしますね、と答える声に喜色が混ざるのも仕方ないだろう。その直後、入口のドアが勢いよく開け放たれなければきっと、従業員や常連客からにやけ面を指摘されるほどに表情は緩みきっていた。

 女性のときにカランコロン、と鳴っていた入口のベルは、今度ばかりはガラゴロゴロ、と慌ただしい音を立てた。慣れた様子で従業員が接客にあたる。面倒な客であれば緩やかにお引き取り願うし、店として関わりたくない客であれば自警団への通報も辞さない勢いで。

 メニューを取るついでとばかりにちらりと入口を覗いたクリスの視界に映ったのは、非常に背の高い男の姿だった。クリスも背が低い方ではないが、きっと来店者の方が頭一つ分ほど大きいだろう。程よく乗った筋肉と涼やかな顔立ち。これはモテるだろうなと密かに頷いたクリスを知ってか知らずか、男は真っ直ぐにクリスを見つめてくる。別段悪事を働いているというわけでもないのにどきりとしてしまうのは何故だろうか。もしや、これが恋……、なわけがない。絶対にだ。誰にとも知れず言い訳を重ねる。

 視線を反らして、お待たせしましたと言いつつ先ほどの女性にメニューを差し出す。店内をゆっくり見渡していた様子の女性はまたもや綺麗に笑って礼を告げた。クリスも接客用のものから少し跳び抜けた笑みをこぼしつつ、マニュアル通りの言葉を返す。

 さて次の仕事はと踵を返した瞬間、入口付近で席を勧められていた先ほどの男がつかつかとクリスの方へと歩を進めてきた。え、と呟いた口のまま目を開いていれば、男はクリスの隣でぴたりと足を止める。体こそそちらを向いていないが遠慮なく視線を投げるクリスを、男は欠片も気にしてはいなかった。

 そのまま男は口を開いて話しかける。クリスの背後、今まで接客していた女性客に向かって。

「……探しましたよ」

 低い低い声だった。いい男というのは声までいいらしい、と思ったクリスの脳内は混乱に混乱を重ねていたのだろう。それがようやく物を考えられる程度までクールダウンしたのは、女性の朗らかな笑みがあったからである。ほっとするような笑みと共に発せられた言葉は、その顔に似合わぬ衝撃的なものであったが。

「騎士団って割と、暇なのです?」

 声量を絞ろうなどとは考えず、よく通る高めの声がそう言った。瞬間、周囲の雰囲気ががらりと変わる。バッと振り向き男を見るカウンター席、立ち上がり覗き込み状況を確認するテーブル席。大混乱だ。奥まったカウンター周辺の席で良かったと安心すべきか、常連客を慌てさせてしまったことに焦るべきか。即座に反応出来るような余裕は、クリスには残されていなかった。

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