10.「私は激怒した」
クリスは激怒した。必ず、かの物価高騰の波を止めねばならぬと決意した。
「何でこんなに高いんだよ!」
ばん、と古ぼけたカウンターに手を突けば、ぶわりと埃が舞い上がった。カウンターの向こうで椅子に埋もれるようにして座っている店主が、呆れたような顔で溜め息をつく。ボロいんだから無茶してくれるな、とでも言いたげである。
「私は激怒した」
「はいはい」
「必ず水を以前の値段で買えるようにせねばならぬと……」
「何を言っても値下げはしねーよ。そもそもうちはそういう店じゃねーからな」
「うるさいジジイ」
「ぶっ飛ばすぞテメコラ」
はああ、と盛大に溜め息をつかれてもクリスの憤慨は収まらない。収まらないが、で、払うのか? 払わねーのか? と目だけで聞かれれば渋々ながらも財布を開くしかなかった。
クリスが憤っている理由は、水の異様な価格上昇によるものである。ここはフェラルから歩いて一日ほど離れたサイモンの街だ。大きなオアシスをぐるりと囲む形で形成された街である。フェラルと違って表立って水を使えるのが利点だろうか。欠点はその豊富な資源を奪うため、権力者周りの争いが絶えないところだろう。だったら大手を振れなくてもフェラルで暮らす、というのはクリスの持論である。
財布を引っくり返し、カウンターの上にちゃりちゃりと小銭を散らす。鈍い色のそれらを一瞥して、店主は顎をしゃくった。その目は真っ直ぐにクリスの懐を見ている。嫌だなぁがめつい人って、と思いつつ袖から手を突っ込み、隠していた数枚の貨幣を取り出した。
「ひいふうみい……ほい、確かに」
「お得意様割引とか、ないの」
「だからうちは情報屋だっての」
どん、とカウンターに差し出される三本の瓶。以前の約三倍という値段で購入したそれを、大事に鞄へとしまい込む。水が豊富なこの街では、その購入のために特別な許可証が必要なのだ。住民であれば顔パスでいいような緩いものだが、余所者のチェックは非常に厳しい。住民からぼったくられようとも水がなければ死ぬのは第六種だって同じだ。
「酒の方が安いじゃないか」
「買ってくるか? 大して強くもねぇくせに」
うるさいな、と再度口を尖らせながらカウンター前の椅子に腰を下ろす。同じ目線になって話すのは、売買の話ではなく仕事の話だ。この店は、先ほど店主が言った通り情報屋である。あまりあけっぴろには出来ないので表向きは金物屋の看板を掲げているが。
クリスがこの店を利用する理由は一つ。仕事を斡旋してもらうためだ。昔から出入りしているだけあってここの店主はクリスの能力を大まかにだか知っており、それを公言することもない。知られてしまえば教会に拘束、もとい保護されてしまうからだ。金よりも水や食料品などを欲しがるクリスとの取引は店主にとっても実入りがいいらしく、みすみす取引相手を逃がすつもりはないらしい。
「そんで、結果は」
腰を落ち着けるなりすぐさまぐっと身を寄せ進捗を聞く店主。クリスは近い近いと心の中で呟きながらも溜め息混じりに黒だと告げた。にたり、と店主が口角を上げる。追加依頼が来ることが判っていたので、クリスは先ほど散歩ついでに見てきた新領主の様子を報告した。
「言われた通り屋敷の警備周りまで見てきたけど、前より数倍警戒してるね。領主は肝っ玉小さくなる病気にでもかかったの? 国王でも迎えるような態度だったけど」
肩を竦めて、領主の屋敷の様子を伝える。以前の緩かった警備も問題と言えば問題だが、今の異様なまでの警戒態勢の方こそ問題だ。オアシスがあるとは言え、周辺の街だって当然水の周りで生きているからこの街だけが襲われる確率は低いだろう。そもそも領主の屋敷に詰めている警備兵たちがほとんどで、周辺を巡回して街を守ろうなんて気は見えなかった。
屋敷にそれほど大事なものがあったとしたら小耳に挟んでも良さそうなものだが、噂話にも上がってこない。住民からは、あの警備が始まってから領主は水の値段を徐々に上げていったのだとしか聞けなかった。何故水の値段を上げる必要があるのかは疑問だが、恐らく領主の懐事情が厳しくなってきたのではないかとクリスは考える。あの統率の取れ具合から見て、警備兵たちは傭兵か、もしくは訓練を積んだ兵士だろう。傭兵であれば雇い続けるために金が要るし、兵士であっても食わせるために金が要る。私は激怒した、と再度心の中で考えつつ、クリスは店主の言葉を待つ。
「こうなったのは一月前からだ。どうも教会関係らしい」
「げっ」
教会と聞いて珍しくクリスから声が上がるが、店主は気にした様子もなく言葉を続けようとした。が、クリスの顔が引きつっていることから内心訝しむ。普段であれば先ほど上げた声など、何のことでしょうかと言い出しそうな飄々とした笑みで隠しているだろう。それなのに、未だに表情が戻らないのは何故か。だらだらと冷や汗を流すクリスを見て、店主はぴんと閃いた。
「……お前……、何か絡んでやがるな?」
「なにをおっしゃるうさぎさん」
「吐け」
「そんなご無体な」
「吐こう? な? 俺がまだ優しくしてやれる内に、な?」
にっこにこと満面の笑みを浮かべた店主に胸倉を掴まれ、クリスは近い近いと今度はしっかり声を出す。どこが優しいんだ! と叫んだって状況は変わらないだろう。仕方ないのでここ三ヶ月の事情を当たり障りない範囲で説明すれば、やっぱりお前かと呆れられた。最初はそんなこと思ってなかったくせに、説明してからやっぱりな、とはどういうことだ。
「まあ、なっちまったもんはしゃーねぇな。原因探ってもらおうかと思ったが、原因自身がここに居んなら話は早ぇ。あいつらここから離すように誘導しながらさっさとドロンしな」
ひどい言い草に聞こえるが、店主はここで警備兵たちを呼んでクリスを引き渡し、今回の問題を根本から解決することだって出来るのだ。それを実行されないだけありがたいと思いつつ、解放された襟を正して立ち上がる。
「ああ、あの屋敷のことだが」
じゃあそういうことで、と重い鞄を背負って背を向けたタイミングで、店主から声がかけられた。クリスは肩越しに振り返りながら、わざとらしくきょとりと目を丸くして首を傾げる。
「屋敷って?」
売った後の情報には立ち入らないのが原則であり、クリスはそれを「知らないふりをする」ということで明らかにする。実際興味のない情報はすぐに忘れてしまうのが常であるから、そうそう難しいことでもない。今回のものは少々忘れるのに時間がかかりそうだが、この三ヶ月間のように逃げ回っていればどうにかあちらも忘れてくれるだろう。忘れてくれるといいな。忘れてくれよ、なあジョン。
判ってるならいい、と満足そうに笑って追い払うように手を振った店主に見送られ、クリスは店の外に出た。半地下になっていた店内とは違って外は眩しく、青々とした空がやけに眩しく見えた。実際、非常に眩しい。ちかちかと忙しない視界を庇うようにして日影に入る。
「……重」
鞄には水の入った瓶が三本。それらは報酬であり、財布代わりだ。一本一本に仕掛けが施されており、中には今回の報酬が入っている。宝石や鉱石などのときもあったが、今回は普通に現金だろう。クリスが支払った分は多めに支払われた前金だ。店主からすれば前金を持ってクリスが逃げれば大損だが、それも信頼の証らしい。頭から信じられるのもどうかとは思うが。
とりあえず先に水を置きに行こう、とクリスの足は自然と宿を目指していた。大人しくしていればベロニカと比べようもなく目立たないことは自覚しているため、少々奮発して街の中ほどの位置にある宿を取ってある。治安のいい地区なので、まさか宿に押し入られて水が奪われる可能性も非常に低いだろうと踏んで、報酬を取り出す面倒な作業も後回しだ。無一文ではないのかと言われれば、何のことはない。先ほど店で引っくり返した財布はただの小銭入れだ。普段使い用の財布はまた別の位置に仕込んであるから問題はない。
「荷物置いたら酒場……いや、食事だけでもいいな……。なんか……潤い的なアレを……」
物陰を優先的に選んで歩きながらぶつくさと呟くクリスの姿をすれ違った住民が不思議そうな目で見ていたが、残念ながら本人は自分がかなり怪しいことに、全く気付いていなかった。




