放課後。
ウチの学校の場合、美術は必須科目に含まれている。
美術室は十分な広さがあるので、二クラス合同で週一コマ50分の授業だ。
たったこれだけで美術を学ぼうという考えはナメとるとは思うが、そのお陰で俺の受け持っている授業時間はめちゃくちゃ少ない。
授業以外の時間は芸術家らしく、ホビー雑誌を読んだり、モビルスーツの製造に勤しんだり、学校の資材でジオラマを作ったりと忙しなくしている。
更には担任も受け持っていないし、部活の顧問でもないし、どうせ美術なんて受験と関係ないし、美大に行きたいんですって言う生徒にはそっち方面に強い友人の美術教室を勧めるし……と悠々自適、完璧快適な職場環境を維持している。いた。こいつらが入学してくるまでは。
「ポチ村、いつもの三つ」
放課後、岬と松野、龍ヶ崎の三人が美術準備室の作業台に着くなり注文が入る。
「そんな『いつも』はない。ファミレスでも客に飲み物を取りに行かせる時代だ。飲みたいなら自分で入れろ」
「ケチ」
そう言うと岬は冷蔵庫を開けて、アイスコーヒーの入った麦茶ポットを取り出す。
その隙に龍ヶ崎がグラス用意し、松野が自分の鞄から食パンを取り出して、トースターで焼き始める。
もう、やりたい放題だ。
「ポチ村ぁ。ガムシロもうないから職員室からパクってきてって昨日頼んだやん。聞いてなかったん?」
「確かに聞いてたが、了解した覚えはない。トースト用の蜂蜜があるだろ」
「クワガタ違うねんから、甘ければいいってもんやないやろ」
「まったくだ。この味覚障害が。今すぐ取って来い」
「クワガタ味覚はお前だろ龍ヶ崎。お前が行けよ」
「ポチさんポチさん」
「何だ松野」
「お・ね・が・い・です!」
ぐるんと白目を剥いて威嚇してくる松野。まさかウィンク?
「何だ今のは。それで僅かでも俺の心を揺さぶれると思ったのか」
「可愛い教え子がこんなにお願いしてるのに心が痛まないのですか」
「痛まないし。可愛くないから教師にそんなお願いしてくるわけだし」
そこで岬が漫画のようなひらめいた仕草で「そっか!」と拳を手のひらにをぽんと打ちつける。
「失念失念。教師やもんなぁ。忘れてたわ。そりゃこんなこと教師に頼むことやないわ」
「大事なことを思い出してくれてありがとう。お前には何度も言ってるが改めて言おう。美術教師の犬村誠志郎25歳独身だ。よろしく」
そんな俺の自己紹介など耳に入ってないといった様子で「そうやんな。教師やもんな」とブツブツと呟きながら、指をパキポキ鳴らし俺の方へ近づいてくる。
「な、何だ、わかったならもういいから……。何で近づいて来るんだよ。何か怖いよお前。おい!」
岬の何だかわからない威圧感に寄り切られるように後ずさっていると、尻が作業台にぶつかり、思わず後ろ手をついて仰け反る。
がちゃり。
右手首のひやりとした感触に振り向くと、俺の腕に金属の輪っかを取り付けている龍ヶ崎の姿があった。
「おい、龍ヶ崎何をし……」
がちゃり。
反対の手首にも同様の感触。
振り向くと松野が輪っかを腕に以下同文。
そしてそれを最後に俺は両手の自由を奪われる。
「……何のマネだこれは」
自分の見えない所で奪われた自由について質問すると、松野が嬉々として答えてくれる。
「やっぱり! ポチさんすごくお似合いですよそのブレスレット! あとはワイシャツが引き裂かれでもすれば完璧です!」
「それは何を頂点としての完璧なんだ」
「安心しろ。ウチの家にあった本物の手錠だ」
「すまんが、今の説明のどこに安心を求めたらいいのかわからない。日本語は正しく使え龍ヶ崎」
「よかったじゃないですか。こんなところで本物の逮捕が体験できるんですから。いつかの為の予行演習ですよ」
「俺の人生にそんないつかはない」
「大丈夫だ。おまわりさんはいつもお前を見ている」
龍ヶ崎は何を言いたいんだ?
「だいたいお前達、こんなことしてどうするつもりだ」
「せやから教師に頼むんが間違ってたって言うたやろ?」
「だからガムシロップぐらい自分達で用意しろよ」
「ちゃうちゃう。教師の方から頼むんや」
「ははん、拷問でもしようってのか? ふんっ、俺は力には屈しんぞ。暴力では何も解決しないということをお前達に我が身をもって学ばせてやる。さぁ、殴るなら殴れ」
「そんなぁ。教師に手をあげるなんて野蛮な真似はしませんよ」
そう言って松野がニコニコしながら俺の顔を覗き込む。
どちらかと言うと童顔な松野のそれは、もし写真だけで見たなら百人中九十七人の男子が迷わずかわいいと答えるだろう。
しかし、リアルで目の当たりにしている俺のシックスセンスは肌を鳥のようにして何かを警告してくる。
そんな松野さんの演説をどうぞ。
「人は自らの痛みにはある程度耐え忍ぶ事ができます。しかし、それが自分の大切な存在に及ぶ時にはどうでしょう? 自分の愚かさを認め、『頼むからやめてくれー』『何でも言うことを聞くからー』などみっともない声をあげて懇願するということが北東の拳を始めとする過去の名作漫画で実証されています。では、ポチさんはどうでしょう?」
はっ、所詮は中二高校生か。
「残念だったな。俺に失うものなど何ひとつない!」
「言い切りましたね。二十半ばにしてその台詞がかっこいいのかどうかは別にして」
そう言うと、窓際に向かってゆっくりと歩みを進める松野。
そ、そこは……。
「お、おいおい君? おいおいおい、ちょっと待ちなさい」
足は自由なのでジオラマの前に立つ松野の傍まで行き、ぴょんぴょんと跳ねて抗議する。
「おっと、あまり近付かないでください。シャツをビリビリに破って大声出しますよ?」
そう言って、自らのシャツの胸元に手をかける松野。
「ぐっ」
何という卑劣な脅しだ。この世で紳士な男子な教師ほど弱い生き物はない。
「ポチさん。このジオラマって作り始めて今どれぐらいでしたっけ?」
「さ、三ヵげっつ!」
もぎり。
五時間かけてつくったジオラマの鉄橋が一瞬でもぎ取られる。
「頼むからやめてくれ、何でも言うことを聞くから」
気が付くと俺はみっともない声をあげて懇願していた。
「いきなり全部言っちゃいましたね。で、そう言われた場合の次の展開もちゃんとテンプレで決まってるんですよ」
ぽきり。
目の前で機動戦士の角が無残に折られる。
「やーめーてーくーれー……」
「そうなんです。悪は残虐極まりないんです。頼めば許してやらんこともないと言いながら結局は殺すんです。北東の拳の場合」
「お前のテンプレ、全部北東の拳じゃないか! もう頼むからそれ以上はやめてくれ」
「わかりました。それはあれですよね。芸人の『押すなよ! 絶対に押すなよ!』ってのと一緒ですよね。大丈夫です。ボクはその辺ちゃんとわきまえていますから」
「全然そんなんじゃないから! これ魂の叫びだから!」
「はいはい。えと、この青いのって、『ざく』っていうんでしたけ」
「違うそれは……」
ポキリ。
「ぐふっ!」
青いモビルスーツの手から伸びるムチが折られる。
ざくとは違うんだよ?
「わ、わかったから。ガムシロ取ってきてやるから!」
「そうですか。取ってきてやるですか? 何だか申し訳ないですね」
ポキリ。
「ガ、ガムシロップを私めに取りに行かせてください! お願いします! ホントに! 心の底から」
「ガムシロップ? 呼び捨てですか」
ポキリ。
「え、えぇー! ガ、ガガ、ガムシロップ様を! こ、このポチ犬めが取りに行く事を! お許しいただけませんでしょうか! 心の底から」
ポキリ。
「えぇーもぉー何? 何なの?」
「犬なのに言葉を喋るんですか?」
鬼か!
「わ、わん」
ポキリ。
「わ、わん?」
「何を待ってるんです? 取りに行ってくれるんじゃないんですか?」
「こ、この手錠を……」
「犬語はわからんワン」
そう言って髪を揺らして可愛らしく小首を傾げる松野。
俺は溢れ出る涙を拭うことも叶わず、そのまま準備室を飛び出す。
十分後、メロスな気持ちで職員室から美術準備室へと駆け戻るとモビルスーツの頭が食パンに挿げ変わっていた。
これじゃあのアニメの食パンヒーローじゃないか。
とりあえず、どんなモビルアーマーよりもシュールな食パンさんをジオラマから降ろす作業から始めようと思った。