龍ヶ崎琴音。
俺の務める星蘭女子学園の校舎はよくあるH型の作りで北館と南館に別れている。その南館の一階最端、用が無いと誰も来ないような場所に俺の職場の美術室はある。
職員室の自分の席には職員会議以外で座ることはほとんどなく、学校での多くの時間は美術室に隣接されている美術準備室で過ごす。
毎朝そこでコーヒーを飲みながら、窓辺に飾ってある半年計画で作成中の巨大ジオラマとモビルスーツに陽が当たるのを眺めては、束の間の現実逃避に暮れる。
美術準備室の扉に鍵を差し込む。閉めて出たはずの扉がすでに開いていることにげんなりする。
中に入ると、作業台の上に布団が敷いてあった。中身付きで。
学校と布団という組み合わせは何度見ても違和感を拭えない。
「おい、龍ヶ崎起きろ」
「起きてる」
布団の上ものに声をかけると、タオルケットの中からくぐもった返事が返ってくる。
「もう本鈴のチャイムなったぞ」
「知ってる」
「ここは学校で、俺は母親ではない」
「当たり前だ。朝から気持ち悪いことを言うな」
「なら、とっとと教室行けよ」
「今日は体調が優れんのだ。あと二時間寝かせろ」
「体調が悪いんなら保健室行けよ」
「保健室は本当に体調の悪い人が行くところだ」
「じゃあ、ここは何だ」
「表向き体調の悪い人が行くところだ」
「そんな都合の良い場所はない」
「だったら作れ」
「いいから起きろ!」
勢いよくタオルケットを引っぺがすと、中から白いキャミソール一枚の三白眼少女がころんとこぼれる。
彼女、龍ヶ崎琴音は地域に根ざす某力団『龍ヶ崎組』の四代目に当たる。らしいが、本人曰く「先のない家業を継ぐなんて更々ない」らしい。身長は150センチあるかないかぐらいで、腰の辺りまで伸ばした黒髪が余計に身長の低さを際立たせている。
「……どうしてくれるのだ。このザマを」
龍ヶ崎は作業台の上に棒立ちで、自分の無防備な姿について俺を非難する。
「どうもせん」
「責任を取れ」
「何のだ」
「傷ものにされた」
「お前、傷ものの意味わかって言ってんのか」
「……ちょっと待て」
そう言うと龍ヶ崎は枕元にしゃがみ込み、そこに置いてあった携帯をカチカチいじり始める。
「何してるんだ」
「知恵袋で質問している」
「その前にとっとと服着ろ」
言われてようやく龍ヶ崎は作業台から降り、棚に吊るしてあった制服を手に取る。
「こっちを見るなよ」
「見る気もないし。作業台に隠れて、お前の頭しか見えん」
「くっ……」
俺がいる側から作業台を挟むと、龍ヶ崎の頭だけがひょっこり飛び出ている。
制服に着替え終わった龍ヶ崎は、美術準備室の備品の冷蔵庫からパックに入った牛乳を取り出しグラスに注ぐ。
「なぁ。牛乳って本当に背伸びんのか?」
「私は別に身長の為に牛乳を飲んでいるわけではない。好きで飲んでいるのだ。身長など全く気にしてない」
「そうか」
俺は龍ヶ崎の頭にぽんと手を置いて、その高さを保持したまま自分の体へとスライドさせる。
丁度俺の胸の下の辺り……こりゃ150ないな。。
「何をしている」
「いや、お前だんだんと縮んでいってんじゃないかと思ってな」
「縮むか。成長期真っ盛りだ。昨日、一昨日で2ミリ伸びた」
「昨日、一昨日ってめちゃくちゃ気にしてんじゃねぇか」
龍ヶ崎がグラスに入った牛乳を半分ほど飲み、ケプっと小さくゲップをして呟く。
「まずいな」
「お前、今まずいって言っただろ?」
「言ってない。麻酔って言ったんだ」
「意味わかんねぇよ」
龍ヶ崎は再び冷蔵庫を開け、今度は麦茶ポットに入れて冷やしておいたアイスコーヒーを、グラスの中に残った牛乳に足してカフェオレにする。
そして自分の背丈ほどの冷蔵庫の上から、手探りでカゴを降ろすと、中を見つめる。
「ガムシロップがない」
「知らん。俺は使わんからな。蜂蜜があるだろ?」
そう言ってやると龍ヶ崎は渋々といった様子で、棚から『お徳用』と書かれた1000ml入りの蜂蜜ボトルを出してきて、小さな手で逆さまに持ち上げる。
龍ヶ崎が持つとより一層お徳感が増す。手をプルプルさせながら、見事にグラスから蜂蜜をはみ出させている龍ヶ崎。
見ていて自分の妹の幼い頃を思い出し、思わず手が伸びる。
「俺が入れてやるよ」
「いい」
「俺がよくない。そこら中べトべトだろうが」
「あとで舐めとけ」
「いいから貸せ」
無礼な言葉を吐く龍ヶ崎から、まだ封を切りたてでドッシリ重い蜂蜜を受け取ると、カフェオレの上で逆さまにひっくり返す。
「……これぐらいか?」
「もっとだカス」
「……こんなもんか?」
「もっとだクズ」
「……これぐらい?」
「もっとだボケ」
「……あの、いちいち罵るのやめないか?」
龍ヶ崎とやり取りしている間に、カフェオレのかさは蜂蜜でニセンチは増えた。
「もう終わりだ。お前糖尿になるぞ」
「糖尿はデブがなるものだ」
「お前その知識かなり間違ってるからな」
龍ヶ崎がクワガタのエサのようなカフェオレを美味しそうに飲む。
「うまいか?」
飲みながらこくりと頷くものだから、グラスと口の隙間からカフェオレがこぼれる。
それが頬をつたい、あごの先で雫になって輝いている。
「あーあー、床にこぼすなよ。アリが来るから」
ちなみに龍ヶ崎は12歳だが非常に優秀なため飛び級で高校に進学している。
と説明しても違和感のないれっきとした16歳。高校二年生だ。
そんな龍ヶ崎の顎をたまたま近くにあったカラフルタオルで拭いてやる。
「あっ」
拭いた手が思わず止まる。
よく見たらカラフルタオルの正体は絵の具で汚れた雑巾だった。
龍ヶ崎の顎にも何色かわからない濁った色が付いている。
「何だ」と龍ヶ崎。
「何でもない。気にするな。もう少し飲むか?」
「糖尿病はどうした」
「あんなものデブがなるもんだ。気にすんな」
龍ヶ崎に二杯目のカフェオレを与えつつ、今度はキレイな濡れタオルで顔の汚れを拭き取ろうとするもますます広がる。
どうしよう。
「貴様、さっきからやけにぐいぐいと私の顎を拭いてくるな」
「いや、ベトベトしてたら気持ち悪いだろうと思ってな」
「もう痛いからやめろ」
「遠慮すんなって」
「やめろと言ってるのだ」
「わ、わかった」
ガッと頭を掴まれ、両目に親指を挿入されそうになったところで、ホールドアップ。
「貴様はまったくふわぁぁぁ」
龍ヶ崎が小さな口で大きなあくびをひとつ。
「お前、ここで二度寝するぐらいなら家でちゃんと寝てこいよ」
「二度寝などしていない。朝一でここに来て初めて眠るのだ」
「余計質が悪いな。夜ちゃんと寝るようにしろ。成長ホルモンだって夜寝てる内に分泌されるんだぞ」
「最近は動物の森林の村長で忙しいのだ。村民が非協力的でな」
「典型的な森からとびだせなくなったパターンだな」
「そもそもそんな夜寝るなどという姑息な真似してまで身長などいらん。直にグ○コが一粒で300m伸びるキャラメルを作ってくれる」
「そんなおっかないキャラメルは市販されん」
カフェオレを飲み終えると、蜂蜜でベタベタの手を龍ヶ崎と並んで洗い場の水道で洗う。
びしゃびしゃ。
びしゃびしゃ。
びしゃびしゃびしゃ。
「……おい、龍ヶ崎。さっきから俺に全力で水が撥ねてるのに気が付かんか?」
「何を言ってるんだ」という顔をして、俺を見上げる龍ヶ崎。
「水出し過ぎだ」
手を伸ばして龍ヶ崎の前の蛇口を閉める。
「なぁ、お前って小学生じゃないよな?」
「バカか貴様」
そう言うと、龍ヶ崎は俺のワイシャツで手を拭いた。