022 鷺澤智の休憩(1)
わざわざ強調して言うことではないのだけれど、私は養護教諭である以前にひとりの人間である。
……いや、独り身だという意味ではなくて。
……いや、実際独り身なんだけど、悲しいけど、だからそういう意味ではなくて。
ひとりの個人として、気になる人がいるのだ。
その人を見かけると自然と目で追ってしまうし、一緒にいるだけでドキドキとさせられる。ふとした拍子にその人のことを思い出すと、想像が膨らんで止まらなくなってしまう。
私は中学からずっと女子校に通っていたので男性と接する機会自体少なかったけれど、それでもこんな思いを抱くような人に出会ったことがない。そしてこれからも出会うことは無いのではないだろうか……。
夕焼けの赤い光が差し込む保健室でひとりそんなことを考えていた私だったが、突如響いたノックの音で我に返らせられた。
もしかしたら相談者が来たのだろうか。
もう完全下校時刻に近い時間だから、普段ならば下校を促して相談はまた後日という形にするのだが、今日はなんだか誰かと話をしていたい気分だ。
自分の気分次第で決めるだなんて本来あってはならないことなのだろうけれど、私は「どうぞー」と来訪者に入室を促した。
しかし――その来訪者は私の予想から大きく外れた人物だった。
「失礼します。鳴神先生、今ちょっと時間ありませんか?」
「さ、ささ、鷺澤先生……!?」
保健室の扉をくぐって現れたのは、この学校で数学教師を務めている鷺澤智先生だった。
鷺澤先生は緩いウェーブのかかったクセ毛の似合う、いつも爽やかな笑顔を浮かべた美男子。その外見はもとより、時折ジョークを交えながらも要点のわかりやすい授業、常に生徒と同じ目線に立って話をしてくれる身近さ等の魅力に溢れた先生だ。男子女子からを問わず人気が高く、同僚の教師陣からも高い評価を受けている。
そしてこの人、鷺澤先生こそが私の気になる人だ。
現に――来訪者が鷺澤先生だとわかった瞬間、私の視線は彼に釘付けになってしまっているし胸はドキドキと高鳴り出している。
まさか鷺澤先生が来るだなんて考えもしていなかっただけに、私の動揺は大きい。
「ど、どうしたんですか? 鷺澤先生ってたしかこの時間はバスケ部の監督をしているはずじゃあ……?」
「おや、忘れてます? 試験期間突入ということで、今日から部活動は停止ですよ。だから顧問の仕事もお休みです」
「あ、そういえばそうでした……。どうりで今日はあまり生徒たちが来ないわけですね」
「あははは。鳴神先生は毎日忙しかったみたいですから、ちょうど良い骨休めになるんじゃないですか? 学生たちの相手をするのって意外と体力使いますしね」
「そうですね、せいぜいこの間に充電させてもらうことにします。……それで鷺澤先生、ご用件は……?」
「ああ、そうでした。恥ずかしながら、少々試験問題作成に行き詰ってまして……鳴神先生のところで息抜きでもさせていただけたらなぁと」
「い、息抜きですか……。でも、その、良いんでせか? 私のところなんひゃで……」
「あ、いけなかったです? 歳も近いですし、一番話しやすいのが鳴神先生だったもので……」
「え、あ、う、あの、いえうえ! 全然構いますんよ! どうぞ、お気にせず入ってくだたい!」
「ありがとうございます。それじゃ、失礼しまーす」
何だか噛みまくってしまったような気がするが、鷺澤先生は特にそれを気にした様子もなく、普段通りの爽やかな笑顔を浮かべたまま保健室の中へと入ってきた。
私はそんな鷺澤先生の一挙一動からも目が離せない。
ただ歩いている――それだけの行動だというのに、胸の高鳴りはその強さを増していく。
「あ、そうだ。ついでに今月分の学校便り持ってきたんですよ。鳴神先生、まだもらってませんでしたよね?」
「え? あ、はい、そういえばもらってなかったです」
「ですよね、良かった。はい、それじゃコレを――」
そう言って私にプリントを渡そうとする鷺澤先生だったが、手が滑ってしまったのかそれを床に落としてしまう。
鷺澤先生は「おっと、すみません」と笑いながら追いかけるが、エアコンの風に吹かれたプリントは床の上を滑り、ちょうど良く踏み出していた鷺澤先生の足の着地点へと移動していた。
それを踏んづけた鷺澤先生は見事なまでの滑りっぷりをみせ、いつも生徒が腰掛けるキャスター付きの丸椅子の上へと尻餅をつく。それで終わりかと思いきや、尻餅をついた際の勢いでキャスターが転がり、鷺澤先生の体は物凄い勢いで壁際に置いてある戸棚へと向かって滑っていく。
そして――その勢いのまま激突し、衝撃で降り注いできた薬品の瓶やら書類やらの山に埋もれてあっという間に姿が見えなくなった。
「さ、鷺澤先生ー!?」
……ほら、やはりドキッとさせられます。