第1話 文字は、口ほどに嘘をつく
「文字には、声よりも饒舌に『その人』が宿るものだな」
薄暗い文書庫の中で、私はそっと竹簡を撫でながら独り言をこぼした。
窓から差し込む一筋の月光が、紙の上の墨の跡を淡く照らしている。
私の名前は、翠玲。
この凛華帝国の後宮において、妃たちの手紙や嘆願書、日常の記録を分類し、保管するだけのしがない下級官女だ。
きらびやかな絹の衣も、美しい宝石も、私には縁がない。私の世界は、この埃っぽい書庫と、数え切れないほどの「文字」だけで出来ていた。
「……昨日の麗妃様は、ひどくお怒りだったのね。筆の入りが深すぎるわ。それに引き換え、今日の明妃様は心が弾んでいらっしゃる。払いの線が踊っているもの」
文字は嘘をつかない。
どんなに美辞麗句を並べ立てても、筆の運び、墨の掠れ、紙への圧力……その一つ一つに、書き手の本当の感情が裸のまま残されてしまう。
幼い頃から文字の模写ばかりをして育った私には、一目見ただけで書き手の心情や人となりが透けて見えてしまう悪癖があった。
だからこそ、私は人と関わるのが少し苦手だった。
言葉と本心が違う人を見るのは、とても悲しいから。
バタンッ!!
突然、書庫の重い扉が乱暴に開け放たれた。
静寂に包まれていた空間に、冷たい夜風と、ざわめくような緊迫感が流れ込んでくる。
「記録係はいるか。大至急、照合したいものがある」
低く、しかし氷のように冷たく響く声。
振り返った私は、思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、後宮の闇よりも深い漆黒の衣を纏った青年だった。
月明かりに照らされた横顔は、恐ろしいほどに整っている。切れ長の鋭い双眸に、意志の強そうな薄い唇。
第二皇子、暁星殿下。
『氷の皇子』と呼ばれ、後宮の治安維持を冷徹に取り仕切るお方だ。
「は、はい……! わたくしが、記録係の翠玲と申します」
慌てて平伏する私の前へ、暁星殿下は一枚の紙切れを放り投げた。
ふわりと舞い落ちたそれは、上質な唐紙だ。
「先刻、紅燕妃が自室で亡くなっているのが発見された。服毒による自死だ。……これが、現場に残されていた遺書だ」
「紅燕妃様が……」
後宮でも一、二を争う美貌の持ち主だった妃の突然の死。
しかし、殿下の声に悲哀の色はない。ただ淡々と事実だけを述べている。
「紅燕妃の過去の直筆記録を出せ。この遺書が本当に本人の真筆かどうか、確認する」
「かしこまりました」
私は立ち上がり、棚の奥から紅燕妃の文字が残された帳簿を取り出した。
そして、殿下が持参した『遺書』と並べて文机に置く。
遺書には、こう書かれていた。
『皇帝陛下への愛に疲れ果てました。どうかお許しください』と。
流れるような、美しい行書体。後宮の誰もが知る、紅燕妃のたおやかな文字そのものだった。
「どうだ。相違ないか?」
殿下が急かすように問う。
私は、遺書の文字をじっと見つめた。
……あぁ、なんてこと。
「翠玲? どうした、答えろ」
「……殿下。大変申し上げにくいのですが」
私は、震える手をぎゅっと握りしめ、顔を上げた。
怖い。けれど、この文字が放つ『悲鳴』を、見過ごすことはできなかった。
「この遺書は、偽造されたものです。紅燕妃様がお書きになったものではありません」
ピタリと、書庫の空気が凍りついた。
「……何?」
暁星殿下の目が、剣のように私を射抜く。
「筆跡鑑定の専門の官吏たちは、皆『真筆だ』と言ったぞ。お前のような下級の小娘が、一目見ただけで偽物だと? ……いい加減な口を叩けば、首が飛ぶぞ」
恐ろしい威圧感。
けれど、文字の事となると、私はどうしても引き下がれなくなるのだ。
「いいえ、偽物です」
私は遺書の文字をそっと指でなぞった。
「確かに、字の形、はね、払いの癖は、紅燕妃様のものと瓜二つです。どんな鑑定眼を持った者でも騙されるでしょう。……ですが、決定的な違いが一つあります」
「違いだと?」
「『息継ぎ』です」
「息継ぎ……?」
殿下が訝しげに眉をひそめた。
私は帳簿の文字(本物)と、遺書の文字(偽物)を指差す。
「紅燕妃様は、非常に呼吸が浅く、筆の運びが早い方でした。ですから、文字の連なりに独特の軽やかなリズムがあります。しかし、この遺書の文字は……」
私は遺書の『愛』という文字を指した。
「形を完璧に似せることに意識が向きすぎた結果、筆の動きがわずかに躊躇し、墨が紙に沈み込んでいます。特に、感情が高ぶるはずの『死』や『愛』といった言葉の線が、あまりにも冷静で、冷たすぎるのです」
さらに、私は机の上の筆をとり、白紙に向かった。
さらさらと、一気に文字を書き上げる。
「これが、本物の紅燕妃様の文字」
次に、一度深呼吸をして、少しだけ筆を握る手に力を込めた。
神経を尖らせ、先ほど書いた文字を「なぞる」ように、別の行へ書き連ねる。
「……そしてこれが、遺書を書いた『誰か』の文字です」
書き上がった二つの文章を見て、暁星殿下は息を呑んだ。
どちらも全く同じ紅燕妃の字に見える。しかし、後者には遺書と全く同じ、微かな「淀み」と「重さ」が再現されていたのだ。
「犯人は、紅燕妃様の文字を熟知し、かつ、手首の力が強い人物……おそらく、長年筆を執り慣れた男性の文官かと思われます。紅燕妃様は、自死ではありません。殺されたのです」
書庫に、深い沈黙が落ちた。
やがて。
「……くっ、ふふっ」
暁星殿下の喉の奥から、低い笑い声が漏れた。
氷のようだった彼の瞳に、初めて燃え盛るような強い光が宿る。
「面白い」
殿下は私の手から筆を奪い取ると、私の細い顎を長い指でぐっと持ち上げた。
至近距離で見つめ合う形になり、心臓が跳ねる。
「お前、名前はなんと言った?」
「す、すいれい、です……」
「翠玲。たった今から、お前は私の直属だ」
「……え?」
「後宮の女たちの嘘と愛憎が絡み合ったこのくだらない盤上を、お前のその目でひっくり返して見せろ」
それは、静かで平穏だった私の人生が、後宮のどす黒い陰謀と、美しくも冷酷な皇子様によって鮮やかに塗り替えられた、最初の夜だった。




