婚約破棄?「お客様、お出口はあちらです」 ~伝説のママとして塩対応で元婚約者を出禁にしたら、氷の公爵様から「独占契約」を申し込まれました~
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王都の夜会は、戦場だ。
シャンデリアの暴力的なまでの輝き、淑女たちが競い合うように纏う香水の重厚な香り、そして仮面のような笑顔の下で交わされる腹の探り合い。グラスが触れ合う軽やかな音さえ、ここでは何かの合図のように響く。
けれど今、私の目の前で繰り広げられているのは、そんな手練手管が飛び交う「大人の社交場」には似つかわしくない、あまりにも安っぽい三文芝居だった。
「聞け! 皆の者! 僕は今ここで、ヴィヴィアンとの婚約を破棄する!」
会場のど真ん中、一番目立つ特等席。
私の婚約者であるルーパート・アッシュフィールド子爵令息が、安物の赤ワインで顔を赤らめながら、張り裂けんばかりの大声で叫んでいた。その隣には、彼の腕にこれ見よがしに絡みつく、小柄で愛らしい――けれど、どこか品のない派手さを纏った女性、デイジー男爵令嬢の姿がある。
「そうですぅ! ヴィヴィアン様ってば、いつも暗い色のドレスばかりで、華やかなルーパート様のお隣に全然ふさわしくないですぅ!」
「その通りだ、我が愛しのデイジー! それに比べて君は天使のようだ! ああ、君こそが僕の真実の愛だ!」
周囲のざわめきが、波紋のように広がっていく。
嘲笑、憐れみ、そして他人の不幸を蜜の味として楽しむ好奇の視線。それらが一斉に、矢となって私へと突き刺さる。
普通なら、ショックで泣き崩れるか、あまりの屈辱に蒼白になってその場から逃げ出す場面だろう。実際、私の心臓は早鐘を打ち、目の前がチカチカと明滅していた。手足の先から冷たくなっていく感覚。
ああ、もう駄目。倒れる――
そう思った、その瞬間だった。
(……店内トラブル発生!)
頭の奥底で、カチリと硬質な音がした。
まるで、錆びついていた店のシャッターの鍵が開いたような、あるいは営業開始の照明スイッチを入れたような、明確な音。
それと同時に、濁流のように流れ込んできた記憶が、私の萎縮していた背筋を一本の鋼のように正した。
そうだ。思い出した。
私、ヴィヴィアン・エヴァレットになる前は、銀座で店を張っていたんだっけ。
夜の蝶たちが舞う街で、「伝説」なんて大層な二つ名で呼ばれて、政財界の海千山千を相手に夜毎盃を傾けていた。酸いも甘いも噛み分けた、あの夜の世界。
それに比べれば、今のこの状況なんて……
私はゆっくりと視線を戻す。
酔っ払って大声を出し、周囲の迷惑も顧みず自分の正当性を喚き散らす男。それに便乗して、勝ち誇った顔で騒ぐ連れの女。
なんだ。何度も見た光景じゃないか。
タチの悪い泥酔客と、お行儀の悪いヘルプの女の子。よくある「質の悪い客」の典型だ。
スゥ、と深く息を吸い込む。
肺に入ってくる空気が、先ほどまでとは違って、冷たく澄んで感じられた。
怯えて震えていた指先は、今や獲物を前にした狩人のように、静かに、優雅に動く。私はドレスの袂から、愛用している白檀の扇子を取り出した。
パチリ。
小気味よい音が会場のざわめきを切り裂き、私は扇子で口元を隠す。
さあ、開店の時間だ。
「……は? なんだその態度は!」
私が泣いて縋り付くとでも予想していたのだろう。
ルーパートが眉間の皺を深くし、苛立ちを露わにする。彼が求めているのは、捨てられる惨めな女の涙と、「お願い捨てないで」という懇願だ。自尊心を満足させるための、安っぽい筋書き。
けれど、あいにく当店ではそのようなサービスは行っておりません。メニューにないものは出せないのだ。
私は扇子の向こうで、営業用の完璧なスマイルを作った。
目尻を下げ、口角を数ミリ上げ、相手に「貴方は尊重されていますよ」と錯覚させる、プロの笑顔。けれどその瞳の奥には、値踏みするような冷徹な光を宿して。
「左様でございますか」
私の口から出たのは、王宮の氷よりも冷たく、最上級の絹よりも滑らかな声だった。
「ヴィ、ヴィヴィアン? 聞いていないのか! 婚約破棄だぞ! お前のような地味でつまらない女は、僕には釣り合わないと言っているんだ!」
ルーパートが吠える。唾が飛びそうだ。
ああ、声が大きい。他のお客様のご迷惑になりますね。素敵なBGMが台無しだわ。
私は心の中の顧客台帳を開くと、彼の名前の横に赤ペンで大きく『×』印を書き込みながら、優雅に小首をかしげた。
「ええ、よく聞こえておりますわ、ルーパート様。本日の夜会は少々お酒が進んでいらっしゃるご様子。お顔の色も優れませんし、少し熱っぽくはありませんこと?」
(酔っ払ってんじゃねーよ、この酒乱。安酒の匂いさせないでくれる?)
「なっ……僕は酔ってなどいない! 正気だ! 本気なんだぞ!」
「まあ、正気でそのようなことを? ルーパート様はご実家からのご援助がなければ、今宵お召しのその新しい燕尾服ひとつ、満足に仕立てられない経済状況でいらっしゃいますのに?」
(今月のツケも溜まってるけど、払えんの? 実家の財布アテにしてデカい口叩くんじゃないわよ)
私の指摘に、ルーパートの言葉が詰まる。「ぐっ……!」と呻き、視線が泳いだ。
痛いところを突かれた自覚はあるらしい。だが、プライドだけは高い彼が、素直に引き下がるはずもない。
「う、うるさい! 金のことなど関係ない! 愛だ! 愛の問題なんだ!」
「それに、そちらのデイジー様」
私は彼の言い訳を無視し、流れるような動作で扇子の先を隣の女に向けた。
「先ほどからルーパート様の腕にぶら下がっていらっしゃいますが、それは最新のダンスのステップですの? 随分と……独創的なマナーですこと」
(行儀悪いから離れなさい、この泥棒猫。私の男にベタベタ触らないで)
私の言葉は、あくまで丁寧で、教養ある貴族の令嬢言葉。
しかし、その芯には銀座で培った「嫌味」という名の猛毒がたっぷりと仕込まれている。直接的な罵倒は品がないし、言質を取られるだけだ。真綿で首を絞めるように、逃げ道を塞ぎ、相手の無礼さを浮き彫りにするのが大人の流儀。
デイジーが顔を真っ赤にして、私を睨みつけた。可愛らしい顔が台無しだ。
「な、なによ! 偉そうに! ヴィヴィアン様なんて、ルーパート様に愛されてないくせに! 負け惜しみですかぁ?」
「愛、でございますか」
私はふふ、と扇子の裏で笑いをこぼした。
愛だの恋だの、夜の街では一番高くつくオプションだ。金払いの悪い客に限って、そういう形のない幻想を求めたがる。サービス料に含まれていないというのに。
「貴重なご意見、ありがとうございます。今後の参考にさせていただきますわ」
(ハイハイ、文句あるなら帰ってちょうだい)
暖簾に腕押し、糠に釘。
私の徹底した「塩対応」に、二人の表情がみるみる歪んでいく。
罵倒すればするほど、私が涼しい顔で、まるでクレーム処理のマニュアル通りの対応で受け流すものだから、彼らのフラストレーションは溜まる一方だ。
「なんだ……なんだよ、その顔は!」
「悔しくないのかよ! お前は今、公衆の面前で捨てられたんだぞ! 泣けよ! 喚けよ!」
ルーパートが子供のように地団駄を踏む。
その見苦しい姿に、周囲の貴族たちも、ようやく事態の異様さに気づき始めたようだ。最初は私への嘲笑だった空気が、徐々にルーパートへの呆れへと変わっていく。
「おい、あのアッシュフィールド家の三男、随分と取り乱しているな」
「それに比べて、ヴィヴィアン嬢のなんと落ち着いていることか」
「やはり、噂通りの放蕩息子だったか……品性というのは隠せないものだな」
潮目が変わった。
場の主導権は、完全に私が握った。
ルーパートは焦り始めたのか、さらに声を張り上げる。自分の優位性が崩れていくのを感じ取り、それを大声で誤魔化そうとしているのだ。典型的な小物の反応。
「うるさい、うるさい! 僕が正しいんだ! おい、誰か! 誰かこの女のおかしさを証明してくれ! 誰でもいい、僕に賛同しろ!」
彼は必死に周囲を見渡し、同意を求めた。
哀れな。自分の価値を自分で下げるだけのパフォーマンスだと、なぜ気づかないのか。
これ以上騒ぐなら、他のお客様の迷惑だ。そろそろ「出入り禁止」の措置を取らなければならない。
私は会場の隅に控える衛兵たちに目配せをし、黒服を呼ぶタイミングを見計らっていた。
その時だった。
「――何事だ、この騒ぎは」
その声は、決して大きくはなかった。
けれど、地を這うような重低音は、会場の空気をビリビリと震わせ、瞬時にして喧噪を凍り付かせた。
モーセが海を割るように、人だかりが左右にさっと分かれる。
現れたのは、漆黒の礼服を、まるで夜そのもののように完璧に着こなした長身の男性。
銀糸の刺繍よりも冷ややかなアイスブルーの瞳に、全てを見通すような鋭い眼光。
この国の筆頭公爵にして、現国王の甥。そして何より、誰もが畏怖する最高権力者の一人。
ジークフリート・ハイルマイスター公爵、その人だった。
「げっ、公爵閣下……」
ルーパートの顔から、サーッと血の気が引いていくのが見えた。
あら、太客のご来店ね。
私は扇子を閉じ、背筋をさらにピンと伸ばした。だらしない姿勢はプロ失格だ。
さあ、ここからが本当の「接客」よ。
「ジークフリート公爵閣下……! こ、これは奇遇ですね! 本日はお日柄もよく……!」
先ほどまで赤鬼のように顔を真っ赤にして喚いていたルーパートが、瞬時に揉み手をする勢いで公爵に擦り寄った。
その変わり身の早さは、ある意味で感心する。
けれど、客あしらいのプロである私の目は誤魔化せない。彼の目は笑っていないし、公爵への敬意もない。あるのは「この権力を使って、自分を正当化し、生意気なヴィヴィアンを黙らせてやろう」という、透けるほど浅ましい計算だけだ。
(あーあ、やっちゃった。一番やっちゃいけない接客よ、それ)
私は扇子で口元を隠しながら、冷ややかな視線を送った。
ジークフリート公爵は「氷の公爵」の異名を持つ堅物だ。媚びへつらう人間や、場を弁えない騒音を何よりも嫌うと聞いている。
そんな「上客」に対して、自分たちの痴話喧嘩という汚い「泥水」を浴びせかけようとするなんて。自分の店の品位を自分で下げるようなものだ。
「閣下、聞いてくださいよ! ちょうどよかった! この女、私の婚約者のヴィヴィアンなのですが、私が正当な理由で婚約破棄を申し出たら、往生際悪くごねて、あろうことか私に暴言を吐いたのです!」
ルーパートは、あることないこと(主にないこと)を、唾を飛ばしながら並べ立てた。
デイジーもここぞとばかりに加勢する。公爵の端整な顔立ちに色めき立ちながら、上目遣いで媚びを売るのを忘れない。
「そうですぅ! 私たち、ただ真実の愛を貫こうとしただけなのにぃ、ヴィヴィアン様ったら酷いことばかり言って……とっても怖かったですぅ」
嘘泣き。
涙が一滴も出ていない。演技力ゼロ。銀座なら新人研修で初日に「田舎に帰れ」と言われるレベルだ。
ジークフリート公爵は、氷のような瞳で二人を見下ろしたまま、沈黙を守っている。
その表情からは一切の感情が読み取れない。ただ、その沈黙の圧力が、場の気温を確実に下げていることだけは確かだ。
だが、その無言を「肯定」あるいは「黙認」と都合よく勘違いしたルーパートは、さらに調子に乗った。
「閣下もそう思われますよね? こんな地味で、愛想のかけらもない、男を立てることもできない女! 社交界の恥だと思いませんか! さあ、閣下からもガツンと言ってやってください!」
ルーパートが、ビシッと私を指差す。
会場中の視線が、固唾を呑んで公爵の唇に集まる。
公爵が私を断罪すれば、私の社会的な死は確定する。逆に、公爵が彼らを咎めれば……。
私は静かに息を吐き、扇子を持つ手に力を込めた。
弁明? 泣き落とし?
いいえ、そんなものは必要ない。三流のすることだ。
私がすべきことはただ一つ。
私の目の前に現れた「大切なお客様」である公爵の、不快指数を下げること。
最高のホスピタリティを提供することだけだ。
私は流れるような所作で、公爵の前に進み出た。
ドレスの裾を指先で優雅に摘み、完璧なカーテシーを披露する。背筋の角度、膝を折る速度、そして顔を上げるタイミング。すべてが計算され尽くした、王家の夜会でも通用する最上級の敬礼。
銀座時代、お客様をお見送りする際に何万回と繰り返した所作が、今、貴族の礼儀作法として昇華される。
「お騒がせして申し訳ございません、ジークフリート公爵閣下。わたくしの不徳の致すところで、閣下の貴重な安らぎのお時間を妨げてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」
一切の言い訳をせず、まずは場の空気を濁したことそのものを謝罪する。
これがクレーム対応の基本であり、上客への最初のアプローチだ。「でも」「だって」は禁句。まずは相手の「不快感」に寄り添う姿勢を見せること。
公爵の美しく整えられた眉が、ピクリと動いた。
アイスブルーの瞳が、私を捉える。
その瞳の奥にある感情を、私は瞬時に読み取った。
――安堵。そして、明確な興味。
(よし、掴みはオッケー。このお客様は「静寂」と「知性」がお好みね)
「……顔を上げよ、ヴィヴィアン嬢」
公爵の声は低く、しかし先ほどまでの威圧感とは違う、穏やかな響きを含んでいた。
「謝罪の必要はない。騒々しいのは君ではなく、そこの彼らのようだが」
その言葉に、凍りついたのはルーパートだ。
「え……? か、閣下?」
「私は静寂を好む。そして、品位のない大声を何よりも嫌う……君たちの声は、私の耳にはいささか障るようだ」
公爵の言葉は遠回しだが、貴族社会においては死刑宣告に等しい。
『うるさい、消えろ』
これ以上ないほど明白な拒絶の意思表示だ。
しかし、愚かなルーパートにはその真意が届かない。あるいは、届いていても認めたくないのか。
「い、いえ! ですから、元凶はこの女でして! こいつがさっさと婚約破棄を受け入れないから、僕が声を荒げる羽目に……!」
まだ言うか。
公爵の表情が、明らかに不機嫌そうに歪んだ。周囲の温度がさらに数度下がるのを感じる。
これ以上はまずい。
店内で他の客に絡む酔っ払いを放置すれば、店の評判に関わる。「この店は客層が悪い」と思われたら、上客は二度と来てくれない。
ここが、私の引き際であり、攻め時だ。
(黒服、スタンバイOK?)
私は会場の隅に控えていた衛兵たちに、扇子の先で小さく合図を送った。
無論、いまの私に彼らを動かす権限などない。
しかし、子爵令息という身分に遠慮して動けずにいたが、ルーパートの醜態にはうんざりしていたのだろう。私の合図に同調して、待っていたかのように力強く頷き返してくる。
私は扇子をパチリと閉じた。
その乾いた音が、終わりの合図だ。
「ルーパート様、デイジー様」
私は二人に歩み寄り、冷徹な微笑みを向けた。
もう、猫を被る必要もない。営業用スマイルの出力を最大にしつつ、瞳の奥だけは絶対零度で見据える。
「これ以上、ジークフリート公爵閣下、ならびに他のお客様のご迷惑になるようでしたら、しかるべき対応を取らせていただきます」
「は、はあ!? お前ごときが何を――」
「衛兵の方々、お願いしますわ」
私の凛とした声が響くと同時に、屈強な衛兵たちが二人の左右を取り囲んだ。
有無を言わせぬ圧力。
ようやく事の重大さに気づいたのか、ルーパートとデイジーが悲鳴を上げる。
「な、なんだ! 離せ! 僕は子爵家の人間だぞ! 無礼者!」
「いやぁ! 離してぇ! ドレスが皺になっちゃう!」
暴れる二人を、衛兵たちが手際よく拘束する。
会場中が、その光景を息を呑んで見守っている。ざまぁみろ、という視線と、ヴィヴィアン嬢を怒らせてはいけない、という畏敬の念が入り混じる。
私は、連行されていくルーパートの目の前に立ち、最後の仕上げに取り掛かった。
ルーパートが憎しみに満ちた目で私を睨み上げる。
「ヴィヴィアン! 覚えてろよ! 僕をこんな目に遭わせて、ただで済むと思うな! 後悔させてやる!」
捨て台詞としては及第点だが、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
私は彼を見下ろし、聖母のように優しく、しかし残酷に微笑んだ。
「まあ、後悔? あいにくですが、わたくし、済んだことには興味がございませんの」
そして、公爵にも、周囲の誰にも聞こえるはっきりとした声で、宣告した。
「お客様、お出口はあちらです」
指先で出口を示す。
そして、すれ違いざま、彼の耳元でだけ聞こえる声量で、とどめの一撃を囁いた。
「二度とお顔を拝見したくありませんわ」
(永久指名停止、永久出禁です。二度と来んな、クズ)
ルーパートの顔が絶望に染まる。
公爵の前で恥を晒し、強制退場させられた事実。それは社交界における「死刑宣告」と同義だ。
彼らがこれから歩む人生は、借金取りと悪い噂に追われ、誰からも相手にされない転落の道しかない。
「う、うわあああああ!」
情けない叫び声を上げながら、ルーパートとデイジーは煌びやかな会場から引きずり出されていった。
大きな扉が、ドォン、と重々しい音を立てて閉じる。
後には、静寂だけが残された。
嵐が去った後のような、清々しい静けさ。
私はふぅ、と小さく息を吐き、乱れた前髪を指先で直した。
やれやれ、手間のかかる客だった。チップも置いていかないなんて。
「……見事だ」
背後から、感嘆の混じった低い声が聞こえた。
振り返ると、ジークフリート公爵が、先ほどまでの不機嫌さを霧散させ、熱っぽい瞳で私を見つめていた。
まるで、素晴らしい美術品か、あるいは戦場の英雄を見るような眼差し。
「あのような鮮やかな『害虫駆除』は、初めて見た。胸がすくような思いだ」
……害虫駆除。
随分な言い方だが、的確な表現だ。
私は苦笑しつつ、再び淑女の仮面を被り直した。
「お褒めに預かり光栄ですわ……お耳汚しをしてしまい、大変失礼いたしました」
「いや、むしろ良いものを見せてもらった……少し、風に当たりたいのだが、付き合ってもらえるだろうか?」
公爵が、私にスッと手を差し出す。
その手は、ダンスの申し込みというよりは、もっと切実な、何かを求めるような手つきだった。
周囲の令嬢たちが「きゃあ!」と黄色い悲鳴を上げるのが聞こえる。
あの氷の公爵が、自ら女性を誘うなんて、前代未聞の事態らしい。
(あら、延長入りました)
私は内心で舌を出しつつ、表面上は恥じらう乙女のように頬を染め、その手を取った。
「喜んで、お供させていただきます」
太客の誘いを断るママはいない。
それに、この公爵様、どうやら私に相当興味を持ってしまったらしい。
今夜の営業は、まだまだ長くなりそうだ。
◇ ◇ ◇
夜風が頬を優しく撫でる。
バルコニーに出ると、会場の喧騒が嘘のように遠のいた。
頭上に広がるのは、宝石箱をひっくり返したような満天の星空。王都の夜景が眼下に広がり、まるで光の海のようだ。
そして隣には、この国で最も価値ある男、ジークフリート・ハイルマイスター公爵。
(さて、ここからはアフターの時間ね)
私は手すりに寄りかかりながら、夜風に火照った肌を冷ますふりをして、横目でチラリと公爵を観察した。
彼は何も言わず、ただ静かに月を見上げている。
沈黙が苦にならない。これは「良い客」の特徴だ。自分の武勇伝を語りたがるわけでもなく、下心丸出しでボディタッチをしてくるわけでもない。ただ、そこにいるだけで絵になる男。
「……静かだな」
ぽつりと、公爵が呟いた。
「ええ。とても心地よい風ですわ」
「君のおかげだ。あのまま彼らが騒ぎ続けていたら、私は頭痛で倒れていたかもしれん」
公爵が私に向き直る。
月明かりに照らされたその表情は、先ほどの「氷の公爵」とは別人のように柔らかく、どこか少年のような無防備さを帯びていた。
「ヴィヴィアン嬢。君の立ち振る舞いには感服した。理不尽な侮辱を受けてなお、眉一つ動かさず、優雅に、かつ徹底的に相手を排除する。……まるで、熟練の指揮官を見ているようだった」
(指揮官じゃなくて、チーママですけどね)
私は心の中で訂正しつつ、口元に手を当ててコロコロと笑った。
「買いかぶりすぎですわ、閣下。わたくしはただ、店の……いいえ、会場の雰囲気を守りたかっただけですの。騒がしいのは苦手ですから」
「謙遜もそこまでいくと嫌味には聞こえないな……君のような女性は初めてだ」
出た。「君のような女は初めてだ」
銀座のクラブで一晩に五回は聞く、口説き文句のテンプレート。
大抵の男は、これで気を引けると思っている。あるいは、少し変わった珍しい玩具を見つけたような気分になっているだけだ。
私は営業スマイルを崩さず、軽やかにかわす体勢に入った。
「あら、お上手ですこと。そのような甘い言葉、今までに何人の女性に囁いてこられましたの?」
(はいはい、社交辞令お疲れ様です。次は何? 「君の瞳に乾杯」?)
軽く受け流して、話題を変える。それがセオリーだ。
しかし、ジークフリート公爵は引かなかった。
むしろ、一歩、私に近づいてくる。
その瞳の輝きが、月光を受けてさらに増した気がした。
「社交辞令ではない。私は本気で言っている」
真剣な声色が、夜風に乗って鼓膜を揺らす。
私は思わず息を呑んだ。
彼の瞳を見る。そこにあるのは、酔客の濁った欲望ではない。もっと純粋で、強烈な熱量。
例えるなら、店の奥の鍵付きショーケースに鎮座する、超最高級のヴィンテージ・ワインのような輝きだ。深みがあり、芳醇で、一度味わったら逃れられないような。
(……あら? これ、本気のやつ?)
私の背筋に、今までとは違う種類の緊張が走る。
公爵は、私の逃げ道を塞ぐように、両手をバルコニーの手すりに置いた。
私を腕の中に閉じ込めるような、いわゆる「壁ドン」ならぬ「手すりドン」だ。距離が近い。上質なコロンの香りが鼻をくすぐる。
「私はずっと探していた。私の隣に立ち、共にこの国を、社交界という戦場を生き抜いてくれるパートナーを」
公爵が切々と語り出す。
彼がいかに周囲の媚びへつらいに疲弊していたか。
求めていたのは、人形のような飾りではなく、共に背中を預けて戦える「同志」であったこと。
そして今夜、私の「塩対応」という名の鉄壁の防衛ラインを見て、雷に打たれたような衝撃を受けたこと。
「君のその度胸、判断力、そして何より、その完璧な笑顔の下に隠した強かな知性……すべてが、私の理想だ」
彼は私の手を取り、手袋越しにその甲へ口づけを落とした。
熱い。手袋越しでも伝わる体温と、吐息。
私の「営業スイッチ」が、ぐらりと揺らいだ。
「ヴィヴィアン嬢。単刀直入に言おう」
公爵が顔を上げ、私を真っ直ぐに見据える。
そのアイスブルーの瞳に、私の呆けたような顔が映っている。
「私と『独占契約』を結んでくれないか」
ドクン、と心臓が跳ねた。
独占契約。
結婚でも、婚約でもなく、その言葉を選ぶセンス。
前世の記憶を持つ私にとって、これ以上ないほどの殺し文句だった。
誰のものにもならず、彼だけのものになる。そして、彼という最高の上客を、私が一生独占できるということ。
(……参ったわね)
私は心の中で白旗を上げた。
こんな極上のアプローチをされて、断れる女がいるだろうか?
いいえ、いない。もし断ったら、ママ失格だ。
それに、認めたくはないけれど、私の心臓もうるさいくらいに高鳴っている。どうやら、私の「客あしらい」のスキルも、この男の前では役に立ちそうもない。
私はゆっくりと、顔に張り付いていた「営業スマイル」を剥がした。
計算された角度も、作った声色も、全部捨てる。
代わりに浮かべたのは、前世でも数えるほどしか見せたことのない、心の底からの素の笑顔だった。
「……条件がございますわ、閣下」
「なんだ? 何でも言ってみろ。屋敷の改装か? 領地の譲渡か? それとも宝石か?」
必死な公爵に、私はふきだしそうになるのを堪えて言った。
私の望みは、そんなありきたりなものじゃない。
「わたくし、接客には少々うるさいのです。貴方様が生涯、他のお店に浮気なさいませんよう、厳しく管理させていただきますけれど……覚悟はおあり?」
公爵は一瞬きょとんとして、それから夜空に響き渡るような、心からの快活な声で笑った。
その笑顔は、氷なんて溶かしてしまうほどに熱く、魅力的だった。
「ハハハ! 望むところだ! 君以外の店になど、行く気も起きないさ……一生、君の常連でいさせてくれ」
「ふふ、ええ。特別会員様としてお迎えいたしますわ」
公爵の腕が伸び、私を優しく抱き寄せる。
その温もりに包まれた瞬間、私は心の中で、パタンと音を立てて店の看板を下ろした。
『Close』
本日の……いいえ、ママとしての営業は、これにて終了。
だって、もう他のお客様なんて必要ないもの。
目の前にいる、この愛すべき「上客」ひとりがいれば、それだけで十分だから。
「……契約成立、ですね」
私は彼の首に腕を回し、そっと目を閉じた。
ルーパートとの婚約破棄から始まった波乱の夜は、こうして甘やかな静寂の中へ溶けていく。
伝説のママの新しい人生は、どうやらとびきり甘く、刺激的なものになりそうだ。
そう、この終身契約は永久更新なのだから。




