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第71話『ぼくだけ成長してないような気がするんです。』

第71話『ぼくだけ成長してないような気がするんです。』


 夕方の空は、穏やかな橙色に染まっていた。

 昼間の暑さが少しだけ和らぎ、風が建物の隙間を抜けていく。

 遠くには低く連なる雲、その下に沈みかけた太陽が、街全体をやさしく包み込んでいた。


 信吾は一人、マンションの屋上にいた。


 フェンス越しに外を見下ろしながら、ただぼんやりと空を眺めている。

 特別なことを考えているわけではないはずなのに、胸の奥には言葉にしづらい感情が溜まっていた。

 たそがれる、という言葉がしっくりくる時間だった。


 足音が、コンクリートに響いた。


「おぉ、山之内。こんなところでどうした?」

 振り返ると、そこには赤荻さんがいた。

 いつものように穏やかな表情で、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


「あっ、赤荻さん。」

 信吾は少し驚きながらも、すぐに答えた。


「いや、別に何にも無いですけど……ちょっと外の景色を見てたくて。」

 信吾は照れたように視線を空へ戻しながら、そう答えた。


「そうか。」

 赤荻さんはそれ以上深くは聞かず、隣に立つ。


 信吾の視線が、赤荻さんの足元に向く。

 そこには、大きな甲羅を持つ陸ガメが、のっそりと歩いていた。


「赤荻さんは今日もお散歩ですか?」

 信吾は少し笑いながら言った。


「あぁ。」

 短く、けれどどこかやさしい返事だった。


---


 ――赤荻さんはカッピーが帰っていった後、ひどく落ち込んでいた。

 それを心配した妻の翡翠さんから送られてきたのが、この大きな陸ガメだった。

 赤荻さんはそのカメを溺愛している。

 本人は「カッピーのことはもう気にしてない」と言っている。

 けれど、その陸ガメの名前が「カッメー」であることを、信吾はまだ一度も突っ込めずにいた。

 指摘してもいいのか、それとも触れない方がいいのか。

 信吾は密かに、ずっとモヤモヤしていた。


---


 赤荻さんは屋上のフェンスにもたれ掛かる信吾の横に立ち、ポケットから缶コーヒーを取り出した。

「ほら、飲め。」


「ありがとうございます。」

 受け取りながら、信吾は首を傾げる。


「……何で缶コーヒー、二本持ってるんですか?」

 信吾が思わず笑いながら言う。


「まぁな。細かいことは気にすんな。」

 赤荻さんは素っ気なく答えた。


 二人並んで、夕焼けを眺めながら缶を開ける。

 プシュッという音が、妙に静かな屋上に響いた。


 しばらく、言葉はなかった。

 それでも、不思議と居心地は悪くない。


 やがて、信吾がぽつりと口を開いた。

「何か、ぼくだけ成長してないような気がするんです。」

 信吾は自分でも驚くほど素直な声で、胸の内を吐き出した。


 少し間があった。


「急にどうした?

 俺は……そんなことは無いと思うけどな。」

 赤荻さんは肩の力を抜いたまま、静かにそう言った。


「ありがとうございます。」

 信吾は苦笑する。

「でも、最近いろいろ考えるんです。

 カッピーが帰って、それから……皆がそれぞれ次のステップに進んでるっていうか。」

 信吾は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。


「そうか。周りが動き出すと、自分は何も出来てないって迷うこともあるよな。」

 自分の昔を思い返すような口調だった。


「はい。」

 信吾は缶コーヒーを見つめながら続けた。

「カッピーの時もそうですし、ゴンちゃんが旅立った後だって……

 結局、自分じゃ何もしなかった。

 何か、ぼくだけ取り残されているような気がして……。」

 声は自然と小さくなっていった。


「そうかぁ。」

 赤荻さんは少し考えるように間を置いてから言った。

「山之内、カッピーを帰したくないって、正人がトイレに籠ってたのを説得したんだってな。正人の母親が話してたぞ。」

 事実を淡々と伝えるような口調だった。


「……まぁ。」

 信吾は苦笑いを浮かべる。

「あれはぼくも必死だったし。

 でも、正人くんが隣の部屋で聞いてるかも、なんて思わなかったぼくのミスでした。

 それにあの時は焦ってて……正直、あんまり何話したか覚えてないんですよね。」

 少し照れたように頭を掻きながら言った。


「確かに、それはあるな。」

 赤荻さんは認めるように言った。

「ただな、結果として、正人はカッピーと別れる決心がついた。

 そうなるように導いたのは山之内、お前だろ?」

 はっきりとした口調だった。


 信吾は黙った。


「別に成長っていうのは、目に見えるものだけじゃないと思うけどな。」

 諭すように、しかし押しつけがましくなく続ける。


「……まぁ。」

 少し間を置いて、

「確かに、そうかもしれないですけど。」

 信吾は小さく頷いた。


「それに俺はな、お前は、しっかり成長してると思うぞ。

 それでも不安なら……少しずつでも変わろうとしてみるのも一つだと思うけどな。

 些細なことでも。」

 背中をそっと押すような言葉だった。


「はい。」

 信吾は深く息を吐いた。

「ありがとうございます。

 他人は他人、ぼくはぼく……ですよね。赤荻さんが言ってくれたみたいに、少しずつ変わろうと思います。」

 その声には、さっきよりも迷いが少なかった。


「そうだな。」

 赤荻さんは足元に目を落とし、

「まずは身近なことからやっていけばいい。」

 そう言って、カッメーを屋上の小さなプールの中へ入れた。


「……赤荻さん。」

 信吾は思わず声を上げる。

「カッメーって陸ガメじゃないんですか?

 プール入れて、大丈夫なんですか?」

 本気で心配した様子だった。


「大丈夫だ。プールの水は抜いてある。」

 赤荻さんは平然と答えた。


「それなら良かった。」

 信吾は少し間を置いて、続ける。

「それに……言おうか迷ってたんですけど、やっぱり名前、気になります。」

 遠慮がちに本音を口にした。


「そうだな……ちょっとカッピーに寄せ過ぎたな。」

 赤荻さんは少し照れたように笑った。


「ですよね。」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 夕焼けの中、その笑い声は穏やかに屋上に溶けていった。


---


 信吾は、ゆっくりと胸の奥が軽くなるのを感じていた。

 成長は、気づかないうちに積み重なっているものなのかもしれない。


 誰かと比べる必要はない。

 自分の歩幅で、一歩ずつ進めばいい。


 信吾は、次に進もうと静かに決意した。

 夕暮れの空の下で。


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