第70話『あれから二ヶ月後 後編』
第70話『あれから二ヶ月後 後編』
「では、先に失礼します。……しっかり伝えて下さいね。」
いさむんはそう言うと、意味深な視線を小林へ、そしてなぜか美沙へと向けた。
一瞬だけ、二人の視線が交わる。そこに言葉は無かったが、何かを確かめ合うような空気が流れた。
信吾はその様子に首を傾げたが、深くは聞かなかった。
玄関のドアが閉まる音がして、部屋には信吾、美沙、小林の三人だけが残される。
急に、静かになった。
エアコンの微かな作動音と、カーテン越しに僅かに聞こえる外の車の走行音だけが、部屋の中に淡く響いている。
少しの沈黙。
それは気まずさというより、誰かが言葉を選んでいる時間のようだった。
「……信吾さん。」
先に口を開いたのは、小林だった。
いつもより少し緊張した表情で、背筋を伸ばしている。
「僕からも、報告があるんです。」
「はい。何ですか?」
信吾は不思議そうに首を傾けながら、正面に座る小林を見つめた。
「実は……東京に行こうと思うんです。」
信吾はその小林の発言に一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「えっ……東京?」
思わず聞き返す信吾に、小林は静かに頷いた。
「はい。実は今回の森田さんの件で、業界の方から注目して頂けまして……大手の新聞社からお声がかかったんです。」
一拍置いて、その言葉の重みが信吾の胸に落ちてくる。
「えっ、そうなんですね……凄いじゃないですか?
それってヘッドハンティングってやつですね。」
信吾は次第に表情を明るくしながら続けた。
「だって今回の件は、小林さんがいなかったら成し遂げられなかったし。ぼく、小林さんの記事好きですよ。
何だ、それだったらもっと早く言ってくれれば良かったのに。」
それは心からの笑顔だった。
「良かった……。」
小林はほっとしたように息を吐く。
「でも、僕は今回の件で、何かしたなんてことは無いですよ。
ただ、信吾さん達のお手伝いをさせて頂いただけで……。」
「全然、気にしないでくださいよ。」
信吾は即座に首を振った。
「小林さんなら、東京に行ったって絶対いい記者さんになれますよ。
それで、いつから行く予定なんですか?」
「ありがとうございます。来月からの予定です。」
小林がやさしい口調で言った。
「来月……。」
信吾は少し目を丸くしたが、すぐに笑った。
「いや〜、びっくりしたなぁ。でも、喜ばしいことですよ。」
ふと、美沙の方を見る。
「美沙さんは……知ってたの?」
「うん。」
美沙は小さく頷いたあと、少しだけ間を置いた。
「ねぇ、信吾。それでね……私からも、報告があるの。」
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「うん?報告?このタイミングで?」
信吾は嫌な予感というほどではないが、胸の奥がざわついた。
「私も……一緒に東京に行こうと思ってるの。」
美沙が何か心苦しそうに言った。
一瞬、部屋の空気が止まった。
「……ふーん。」
無意識にそう返してから、信吾は目を見開いた。
「えっ?……美沙さんも?」
美沙と小林が、思わず目を合わせる。
その表情は、少し気まずそうで、少し覚悟を決めたようでもあった。
信吾はその様子を見て、ゆっくりと何かを察した。
「……えー!
いつから?全然、気づかなかった。」
「まぁね……。」
美沙は少し照れたように視線を落とす。
「うーん、カッピーと別れてから、かな。」
「……そうなの?」
信吾の声は、思ったよりも静かだった。
「まぁ、私の仕事って、パソコンがあればどこでも出来るでしょ。」
美沙は言葉を選ぶように続ける。
「それに……今回の件は、私も一緒にサポートしたいと思ったの。
この人、一人で行かせると、性格的にちょっと不安でしょ?」
「いや〜……。信用されてませんね。」
小林が照れくさそうに頭を掻いた。
「……そうなのか。」
信吾は、少しだけ視線を落とした。
胸の奥に、ほんの小さな寂しさが芽生えるのを自覚する。
その様子を見て、美沙は一歩踏み込むように言った。
「でもね。」
真っ直ぐ、信吾を見る。
「彼はやさしい性格だけど、強い気持ちを持っている人だと思ってる。
だから、ヘッドハンティングの話が出た時に、真っ先に“行くべきだ”って言ったの。」
少しだけ、美沙の声が揺れた。
「信吾には……さびしい想いをさせるけど。それでも、応援してくれる?」
信吾はしばらく黙ったまま、二人を見ていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「いやいや……もう、ぼくだって十分大人だから。」
肩をすくめるように言う。
「心配しないでよ。
小林さんは素敵な人だよ。それは、ぼくだって分かってるつもりだよ。」
信吾が笑顔で言った。
「信吾さん……。そう言われると照れますね。
でも、東京で……人の為になる記事を書けるように、頑張ります。」
小林は深く頭を下げた。
そして、はっきりと続けた。
「それに、美沙さんも幸せにします!
だから……見守って下さい。」
「大丈夫。幸せにしてもらわなくても、私は、勝手に幸せになるから。」
美沙は即答した。
その言葉に、三人の間に静かな笑いが生まれた。
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カッピーとの別れをきっかけに始まったそれぞれの旅は、いつの間にか、次の旅立ちへと繋がっていた。
誰かと離れることは、終わりではない。
それぞれが、自分の場所へ進むための通過点なのかもしれない。
信吾は、二人の背中を思い浮かべながら、胸の奥に残る感情を噛みしめていた。
嬉しさと、ほんの少しの寂しさ。
それでも――
また、日常は続いていく。




