第69話『あれから二ヶ月後 前編』
第69話『あれから二ヶ月後 前編』
カッピーが仲間のもとへ帰って、約二ヶ月が経った。季節は四月。例年なら、まだ肌寒さが残る時期だというのに、今年の空気はどこかおかしい。朝からじっとりと肌にまとわりつく湿気。窓をわずかに開けただけで、部屋の中にゆっくりと熱気が流れ込んでくる。テレビでは連日「異常気象」という言葉が飛び交い、専門家たちが口々に気候変動の深刻さを伝えていた。
その影響か、信吾と美沙の暮らすマンションの周囲でも、いつもより早く咲いた花がしおれ、木々が早くも濃い緑色を帯び始めている。二人の部屋にも、ようやく落ち着いた日常が戻りつつあった。
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昼下がり。インターホンが鳴り、小さく電子音が響いた。
「来たみたいだよ。」
美沙がモニターを覗き込むと、そこにはいさむんと新聞記者の小林が立っていた。
扉を開けると、むわっとした外気が一気に流れ込んでくる。その中に、どこか懐かしい空気が混じっていた。
「いさむん、久しぶりです。」
玄関先に立ついさむんに、信吾が笑顔を向ける。
「お久しぶりです。いやぁ……暑いですね。本当に四月ですか?なかなかこちらに来ることが出来ず、すいません。」
額に薄く汗を浮かべながらいさむんが頭を下げた。
「全然いいですよ。いさむんだって忙しいと思いますし。」
信吾がそう言って笑い返すと、いさむんは肩の力を少し抜いたように見えた。
美沙が来客用のスリッパを二つ差し出すと、いさむんと小林が部屋の中へ足を踏み入れた。
玄関を抜けると、リビングに続く廊下の奥に、カッピーが使っていた部屋の扉が見える。
扉は、その日から一度も閉じられていなかった。中の空気は、どこかひんやりとしているようにすら感じる。
「あっ、カッピーの部屋はそのままなんですね。」
いさむんがそっと覗き込むようにして言った。
「そうですね。なんか片すのも違うかなって思って。」
信吾は少し照れくさそうに答えた。
「まぁ何かね」
美沙も照れくさそうに笑う。
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四人はリビングのテーブルを囲むように椅子に腰を下ろした。テーブルの上には麦茶の入ったグラスが並べられ、部屋をゆっくりと涼しい風が流れていく。窓の外では、鳥の声がほんのかすかなBGMのように響いていた。
「こうやって何度か向かい合って話し合いはさせてもらいましたけど……やっぱり、なかなか寂しいですね。」
いさむんはテーブルの上で指を組みながら、静かに呟いた。
「そうですね。」
信吾も頷く。
「でも、ぼく達はもう平気です。」
「そうだね。時々思い出すことはあるけどね。」
美沙も続く。
その言葉に、いさむんがホッとしたように微笑む。
「そういえば正人くんはどうしていますか?」
いさむんがふと思い出したように聞いた。
「はい、元気にしてますよ。この前もこの部屋に来て、美沙さんと小林さんと三人で遊んでましたよ。」
信吾が言うと、美沙と小林もうなずいた。
「そうだね。カッピーが眠り沼に帰ってすぐは急に部屋に来て、一人でカッピーが使ってた桶を眺めたりしてましたけど……正人くんは私が思ってる以上に強いですよ。」
美沙が柔らかく微笑みながら言う。
「そうなんですね。」
いさむんも少し安心したように目を細めた。
「はい。もちろんさびしいのはあると思いますけど、サッカーチームにも入ったって雅さんから聞きました。」
信吾が言うと、いさむんは嬉しそうに頷いた。
「ちょっと心配してたんですが、それなら良かった。……そうだ、今日、ここに来た目的は森田さんのことなんです。」
いさむんの表情が少し真剣みを帯びる。
「えっ?森田さんがどうしたんですか?」
信吾の背筋がすっと伸びた。
「はい。あの出来事からもう二ヶ月が経ったので、メディアからの過度な取材は無くなりましたが……森田さんは今回の件で、今も平穏な日々はおくれていない状況です。」
いさむんは言葉を慎重に選ぶようにして続けた。
「そうなんですね。心配です……何とかならないんでしょうか。」
信吾の声には、抑えきれない不安が滲んでいた。
「そうですね。森田さんは真面目な方ですので、私達が考えるよりも繊細なのかもしれないですね。ただ……今日は森田さんから伝言を預かって来ています。」
いさむんの言葉に、信吾は目を大きく開く。
「えっ?伝言?」
「はい。森田さんですが、今日からインドネシアへ、熱帯雨林と野生動物の保護活動に参加される為、現地に向いました。どうやら知り合いの環境保護団体の方からお誘いがあったようです。」
いさむんは淡々と説明したが、その声の奥には、どこか複雑な思いが見え隠れした。
「そうなんですか?しかも、今日?……それなら何で直接言ってくれないんですか?」
信吾の胸に、ひどく急な痛みのようなものが走る。
「私からも信吾さん達には直接伝えてはどうかと言ったのですが……それも森田さんの性格なのかもしれないですね。」
いさむんは申し訳なさそうに眉を下げた。
そのとき、小林が優しく口を開いた。
「森田さんも、直前まで信吾さんには直接伝えるか迷っていたと思います。でも、これは森田さんなりの決断なのかもしれないですね。……想いを汲んであげて欲しいです。」
「そんな……。」
信吾の声は震えていた。
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しばらく、部屋には重い空気が流れ続けた。
麦茶の氷がひとつ、コトリと音を立てた。
その沈黙を断つように、美沙がゆっくりと口を開いた。
「森田さんも迷ったと思うよ。でも……信吾に会ったら決断が出来なくなってしまうって、思ったのかもね。」
静かだけれど、強い声だった。
「そうですね。高城の件もありましたし……信頼関係があるからこそ信吾さんには言えなかったのかもしれないですね。」
いさむんが美沙の言葉に続いた。
信吾は一度目を伏せ、深く息を吸い込んだ。そして、静かに微笑んだ。
「はい。それが森田さんの決断なら、それで良かったのかもしれないですよね。……帰ってきたら、現地での話をたくさん聞きたいと思います。」
その言葉に、いさむんも小林も、どこか肩の荷を下ろしたように微笑んだ。
「はい。そうですね。それでは私はこの辺で失礼します。」
いさむんが立ち上がる。
「えっ?まだここに来て全然時間経ってないじゃないですか?」
信吾が少し慌てて言った。
「そうなんですが……私は森田さんの伝言を伝えられたので。私もなかなかやることがありまして。……それに、信吾に伝えたいことがある人はまだいますよ。」
いさむんはそう言って、小林へと視線を向けた。
小林はひとつ、ゆっくりと頷いた。
「えっ?小林さんも?」
信吾が驚いたように身を乗り出した。
後編に続く。




