第6話 『引っ越し大作戦』
第6話 『引っ越し大作戦』
翌日の夕方。
信吾は赤荻さんに呼ばれ、マンションの一角にある作業スペースへと顔を出していた。
「──そうかぁ。三月までか。今回も期限付きってわけか」
赤荻さんが言った。軽く肩をすくめてつぶやくように言った赤荻さんを、信吾は思わず見つめる。赤荻さんは手を止め、振り返る。少し困ったように眉を下げながらも、その口調にはどこか余裕があった。
「まぁ、あくまでも私見みたいなので絶対ってわけではないんですけどね。ただ、あながち的外れなことは言ってない気がするんです。
それにゴンちゃんの時に急に期限を指定したのは赤荻さんじゃないですか」
信吾が冗談めかして返すと、赤荻さんは「悪い悪い」と頭をかき、笑い声を漏らした。
「そういえば山之内。そろそろ部屋の更新の時期だろ?」
唐突な話題転換に、信吾は目を瞬かせる。話題の急展開に戸惑い、口を開きかけてから慌てて閉じる。
「あぁ、そういえばそうですね。……えっ、まさかこの状況下で出ていけって言うんですか?」
信吾は眉をひそめ、思わず身を乗り出した。だが返ってきたのは、にやりと笑みを浮かべた赤荻さんの言葉だった。
「いや、その逆だな」
赤荻さんは愉快そうに口角を上げ、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「俺が住んでる最上階の下の階の角部屋が空いててな。お前の今の部屋より一部屋多い。そこに引っ越したらどうだ?」
「えっ……」
信吾は一瞬、返す言葉を失った。確かにカッピーが来て、今の間取りではやや手狭になっている。もう一部屋あれば、カッピーの居場所も確保できるだろう。だが現実問題として、家賃が頭をよぎる。
「いや……確かにカッピーも増えて、もう一部屋くらい欲しいとは思ってましたけど、家賃の問題もありますし……」
信吾は慎重に言葉を選びながら、表情を曇らせる。赤荻さんは片手を軽く上げ、その心配を制するように首を振った。
「家賃は今まで通りでいい。お前らにはいろいろ迷惑をかけたからな」
「……は?」
信吾は目を丸くし、思わず声が大きくなった。作業場の空気が一瞬だけ固まる。
「いやいやいや……そんな、嬉しいですけど。こんなことやってるって他の入居者の人にバレたら大問題になりますよ。それにさっき、カッピーは三月までしかいないって言ったじゃないですか」
「まぁそれはそうだが……お前は隠し事は上手いだろ? カッピーがいなくなった後のことは、上手い感じで言えばいい」
赤荻さんが肩をすくめて軽口をたたくと、信吾は苦笑を浮かべた。
「隠し事は上手いって、それ、赤荻さんが言います?」
言葉の裏に少し呆れを混ぜながらも、どこか温かな響きがあった。
「ははっ」
赤荻さんは軽く笑い、信吾も肩の力を抜く。短い沈黙が流れたのち、信吾は深呼吸をして気持ちを整えた。
「でも……ありがたいお話なので、受けようと思います。美沙さんにも伝えておきます」
信吾は真剣な眼差しで言った。その表情には感謝と覚悟が宿っていた。
「おぉ、分かった。すぐに手続きをする」
赤荻さんは満足げに頷き、手を叩いた。
「分かりました。できるだけ早く準備します」
互いの言葉に、温かな信頼の色がにじんでいた。
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三日後。
信吾と美沙の部屋には段ボールが山のように積み上がっていた。家具の隙間を縫うように歩くだけで息が切れそうになる。
カッピーはというと、好奇心いっぱいに箱の上に登ったり、中身を覗き込んだりしている。まるで「これは宝探し?」と言わんばかりの様子だ。
「ちょっとカッピー、それ割れ物だから……あぁ!」
美沙の声が飛ぶ。カッピーは慌てて段ボールから飛び降りたが、その拍子に腕で別の箱を倒してしまった。中から転がり出たのは、信吾が大切にしているマグカップ。
「おっと……セーフ!」
信吾がすばやく手を伸ばして受け止めると、カッピーは「クゥ……」と申し訳なさそうに鳴いた。
「ふふ、でも楽しそうね。引っ越しなんて、カッピーにとっても冒険みたいなものかも」
美沙が笑い、信吾も苦笑いを返す。
その後、信吾は霧吹きを手に取り、カッピーの頭と背中に水を吹きかけた。室内はで乾燥している。身体が乾かないように水分を与えると、カッピーは心地よさそうに目を細め、「クゥ……」と甘えるような声を漏らした。
ちょうどその時だった。ベランダの方から「コトン」と小さな音がした。振り返ると、そこにふらりと姿を現したのは──虎之介だった。
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虎之介
近所を歩く野良のキジトラ猫。 ゴンちゃん(ドラゴン)にとっての始めての友達。 ふらっとやってきては玄関や窓を開けようとするなど、妙に高度な技術を持つ。
言葉はないが、“信吾達の家族の一員”のような空気をまとい始めている。 以前に信吾がゴンちゃんが真竜であると知るきっかけを作った猫でもある。
(※虎之介の活躍は『ドラゴンの飼い方教えます』の第6話、第9話、第11話、第26話、第29話、第31話、第32話、第48話、第49話を参照)
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冬毛に覆われたキジトラの野良猫は、冷たい風を背負いながらベランダに座り、こちらをじっと見ている。まるで「元気にやってるか」と問いかけてくるかのように。
「おぉ、虎之介……来てたのか。今日も雪が降って寒かっただろ」
信吾は目を細め、声をかける。その口調には懐かしさと優しさが滲んでいた。だが同時に、胸の奥にかすかな寂しさを覚えた。おそらく、引っ越せば今のように気軽には会えなくなるからだ。
「そういえば、今の階だったら来れるけど、引っ越ししたら高さ的に厳しいな」
信吾は苦笑まじりに言った。
虎之介はふいにカッピーの方へ歩み寄る。カッピーは最初こそ少し緊張したが、すぐに小さく手を伸ばし、喉を鳴らすように「クゥ」と声を出した。虎之介は何の警戒も見せず、そのまま隣に腰を下ろした。
「わ……仲良しになれるのかしら」
美沙の目が優しく細まる。二人が並ぶ姿はどこか不思議で、そして温かかった。異なる種なのに、互いを受け入れる雰囲気が漂っている。
「虎之介なら大丈夫だよ。ゴンちゃんの時もそうだったし」
信吾は安堵を覚えながら、二人を見守った。虎之介がカッピーにすり寄る姿は、まるで小さな家族を見守る兄のようだった。
「虎之介……ちょっとだけ遠くなるけど、これからもよろしくな」
信吾は小さく声をかける。虎之介はまるで理解したかのように、信吾と美沙の足元にすり寄り、温もりを分け与えてくれた。
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荷物の搬出と搬入でてんやわんやになりながらも、どうにか作業は終わった。夕方、ようやく一段落ついた部屋に腰を下ろした信吾と美沙は、ぐったりと息をつく。
「……ふぅ、なんとか終わったね」
美沙が髪をかき上げながら呟く。頬はほんのり赤く、額には汗が滲んでいた。
「ほんと、引っ越しってこんなに体力使うんだ……」
信吾も背中を壁に預け、深い息を吐いた。腕や腰に疲労がたまり、鉛のように重い。
カッピーは新しい部屋を探検するのに夢中で、あちこちの扉を開けようと挑戦している。その姿に、二人は自然と笑顔になった。
「広いね。これなら少し余裕をもって暮らせそう」
美沙は目を輝かせながら部屋を見回した。
「うん。赤荻さんに感謝しないとな」
信吾も穏やかに頷く。
二人の視線の先で、カッピーは窓際に立ち、今までよりも高くなった外の景色をじっと見ていた。遠くの街の灯りが瞬き始める。
──新しい生活が始まる。
別れもある。出会いもある。けれど、こうして一歩ずつ積み重ねていく日々が、確かに信吾たちを家族にしていく。
夕暮れの風が、窓を揺らした。
その音は、これからの暮らしを祝福しているように聞こえた。




