第68話 『日常へのリスタート』
第68話 『日常へのリスタート』
空は、すべてを洗い流すように透き通っていた。
朝から広がり続けていた青は、いまやどこまでも淡く、まるで新しい一日がやわらかく塗り替えられたキャンバスのようだ。白い雲はひとつもない。風はそっと頬を撫で、少し汗の残る肌を涼しくしてくれる。さっきまでの騒動や湿った空気がまるで幻だったかのように、街は静かな日常の匂いを取り戻していた。
いさむんの運転する車が、穏やかな住宅街を滑るように進んでいく。後部座席では、信吾と美沙が並んで座っていた。
信吾は、疲労が限界に達していた。何時間も歩き続けた足腰の疲労。カッピーとの別れ。眠り沼の不気味な出来事。突然の雨。ゴンちゃんとの再会……心も身体も、張りつめた糸がようやくほどけ始めていた。
信吾が、そっと美沙の肩にもたれかかる。
「あ……寝てる……」
信吾はゆっくりとそのまま静かに目を閉じた。呼吸が深くなる。美沙はその横顔を見つめ、不思議と安心感に包まれる。ついしばらく前までは涙を流し、何度も心臓を掴まれるような思いをしたのに、こうして信吾が眠っているのを見るだけで、自分も力が抜けていくようだった。
車内には控えめなエアコンの音とラジオの音だけが響き、三人の静かな時間を守る。
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どれほどの時間を走ったころだろうか。
「信吾さん、信吾さん。マンションの前に着きましたよ」
いさむんの穏やかな声が前から響き、信吾はまぶたを震わせた。
「……あ、すいません。いさむんだって疲れてるのに……寝てしまって」
「いいんですよ」
いさむんはバックミラー越しに微笑んだ。
「信吾さんと美沙さんは、カッピーとの別れで精神的にも来ていると思いますし」
信吾は小さく息をついた。カッピーと別れた胸の奥の痛みが、まだ生々しく残っている。
美沙も静かにシートベルトを外し、いさむんに向けてぺこりと頭を下げた。
車を降りると、アスファルトがまだ昼の名残りの温かさを持っていた。二人がドアを閉めると、いさむんも運転席から出てきて、軽くストレッチをしながら笑う。
「今日は本当にありがとうございました」
信吾が深く頭を下げると、美沙も後ろから丁寧に会釈する。
「こちらこそありがとうございました」
いさむんは優しい声で返した。
「今日はお疲れなので、ゆっくり休んで下さいね。今度、しっかりとゴンちゃんのこと聞かせて下さいね」
信吾は少し照れくさそうに頷いた。
「そうですね……今度ゆっくり。またお会いしましょう」
いさむんは手を振りながら車に乗り込んだ。
信吾と美沙は、それを見えなくなるまで見送った。
車の音が遠ざかっていく。
静かな夕方の空気が、二人を包んだ。
「……なんとか帰ってきたね」
信吾が深く息を吐くように言った。
「うん。途中いろいろあったけどね」
美沙は小さく笑った。涙の跡がまだ頬の端にわずかに残っているが、その表情は穏やかだ。
「そうだね。……これで良かったんだよね」
信吾はマンションの方向へ目を向ける。
「部屋に帰ろうか」
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二人がエントランスへ歩くと、その前で背中をもたれかけにしながら誰かが立っていた。
「……赤荻さん?」
近づくと、腕を組んで待っていた赤荻さんが口角を上げた。
「あぁ、ずいぶん遅かったな?」
彼はじろりと二人を見て目を丸くする。
「それにしてもどうした? 泥だらけじゃねぇか」
「ちょっと眠り沼で、雨に打たれちゃって……」
信吾が苦笑いしながら言う。
「雨?」
赤荻さんは眉をひそめた。
「こっちは雲一つ無かったぞ」
「え……?」
「そんなはず……」
信吾と美沙は目を合わせ、不思議そうにする。
眠り沼の異様な気候は、外の世界とはまるで切り離されていたように感じた。赤荻さんの言葉を聞いたことで、その奇妙さが一層際立つ。
「それで――カッピーとは無事に別れられたのか?」
赤荻さんが静かに尋ねる。
「そうですね……無事かどうかは分からないですけど……」
信吾はかすかに笑って見せた。
胸が締めつけられるような感覚が、まだ残っている。
「どうした?」
赤荻さんは、いつものようにぶっきらぼうだが、その奥には確かな心配がにじんでいる。
「まぁ……いろいろと……」
美沙が代わりに答え、ふっと笑う。
「でも、眠り沼でゴンちゃんにも会えたんですよ。立派な真竜になってましたよ」
「えっ?坊が?」
赤荻さんの目が少し見開かれ、次の瞬間、ぽつりと笑みがこぼれた。
「ふっ……まぁそうか。それは……良かったな」
その表情は、どこか親が子の成長を聞いたときのような柔らかさだった。
「はい」
信吾も穏やかに返す。
「まぁ、お前達も疲れてるだろうから、今日は休め。細かいことは後で聞く。」
赤荻さんはそう言って、持っていたコーヒー口の中に流していれた。
彼も心配して待っていてくれたのだろう。
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信吾と美沙は「ありがとうございます」と頭を下げ、エントランスへと進んだ。
エレベーターの鏡には、泥で汚れた自分たちの姿が映っている。
だが、そこには確かに“成し遂げて帰ってきた人間”の顔があった。
扉が閉まる直前、夕日の光が二人の横顔を照らす。
長い長い非日常の中で――
ようやく、日常へのリスタートが始まる。




