第66話『ありがとう。また会おうね。』
第66話『ありがとう。また会おうね。』
空気はまだ少し湿っているものの、先ほどまでの狂ったような豪雨が嘘のように止み、眠り沼の上には透き通った青空が広がっていた。雲の切れ間から差し込む陽光が、水面にきらきらとした揺らぎを生み出し、あの絶体絶命の緊張がまるで遠い日の出来事のように感じられるほどだった。
信吾は荒くなっていた呼吸を整えながら、空を見上げた。大きな影――真竜となったゴンちゃんがゆったりと羽ばたきながら地上を見守っている。あまりの大きさに、思わず胸の奥が熱くなる。
(ゴンちゃん……こんなに大きくなって……本当に、ずっと見守っててくれたんだな)
隣では、美沙が涙を隠すように目元に手を当てていた。
「……信吾、ゴンちゃん……あんなに大きくなって……ほんとに、立派になったね……」
信吾は言葉にならず、ただ頷くしかなかった。
一年という時間が、こんなにもゴンちゃんを成長させたのだ。いや、“ゴンちゃんが持つ使命”が成長させたのかもしれない。
しかし、その感傷を打ち消すように、いさむんが蒼い顔で信吾たちに詰め寄ってきた。
「ちょ、ちょっと待ってください! あれは……一体、何なんですか!? 怪物ですか? どう見ても常識では説明できないんですが……!」
声が裏返っていた。無理もない。
対峙したカッパたち以上に巨大で異質な存在が、頭上を悠然と漂っているのだ。
美沙はふっと笑い、肩の力を抜いた表情でいさむんに向き直る。
「大丈夫ですよ、いさむん。あれは怪物なんかじゃありません。紹介しますね――真竜のゴンちゃんです。私達の家族です。」
「……し、真竜?ゴンちゃん?家族?えぇ!? 何がどうなってるんですか!?」
いさむんは完全に混乱していた。
信吾は苦笑しながら肩をすくめた。
「美沙さん、さすがにそれだけじゃ余計わかんなくなるよ」
「あっ、そうだよね……」
美沙も少し恥ずかしそうに頬をかいた。
そのやり取りを見て、いさむんはさらに困惑した顔で頭を抱えた。
「私が理解できるレベルの会話をしてください……! 本当にお願いします……!」
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けれど今、いさむんの困惑よりも大きな問題があった。
周囲のカッパたちだ。
予想外のゴンちゃんの登場に怯えつつも、彼らはまだ警戒姿勢を解いていない。
背を丸め、唸り声にも似た低い声を漏らしながら、じりじりと距離を詰めてくる個体もいる。
その動きを察知したのか、ゴンちゃんが翼をゆるく広げ――
「グオ……」
と、喉の奥で雷鳴のような低い唸りを響かせた。
たちまちカッパたちがビクリと身を震わせる。
「ゴンちゃん、違うんだ」
信吾は慌てて空に向かって手を上げた。
「そのカッパ達は悪い奴らじゃないんだ。ただ……ただちょっと勘違いしてるだけで」
信吾が必死に呼びかけると、美沙もそっと寄り添って声を重ねた。
「信吾、今だったら……きっと、カッパ達の誤解も解けるんじゃない?」
信吾は深く息を吸った。
「そうだね……分かった。やってみる」
その言葉に、いさむんが思わず叫ぶ。
「ど、どうなんでしょうか!? 刺激するどころか、逆効果になりませんか!? というか、近づかない方が……!」
美沙は柔らかな表情でいさむんに向き直り、小さく首を振った。
「大丈夫ですよ。いさむん。信吾を信じてあげて下さい」
いさむんは不安げに唇を噛んだが、やがて小さく頷いた。
空気が一気に張り詰める。
信吾は一歩、カッパたちの方へ歩み出た。
さっきまで命のやり取りをしていた相手だ。足が震えないはずがない。
けれど、逃げるわけにはいかなかった。
声の大きさ、トーン、そして表情。
全てに細心の注意を払う。
「……ぼくたちは、君たちの敵じゃない」
信吾の声が、風に溶けるように静かに広がっていく。
カッパたちが息を潜めて信吾を見つめる。
「今、空にいるのは……ぼくたちの家族、ゴンちゃんだよ。君たちを襲うつもりなんかない。ぼくたちは君達の仲間を襲ったり、危害を加えたりしない。約束するよ」
言葉の端が震えた。
でも、それでも信吾は続けた。
「それに……もう、君たちの住処には近づかない。……本当に、ごめん」
風が止まり、世界が一瞬だけ静寂に包まれた。
カッパたちの目が揺れる。
警戒、怒り、戸惑い――その奥に、微かに別の感情が生まれつつある。
静かな対峙が続いたあと。
カッパ達が、ゆっくりと、後退りを始めた。
「……っ」
美沙は胸に手を当て、安堵の息を漏らした。
「分かってくれたんだね……」
「お、おぉ……驚きました……」
いさむんは半ば力が抜けたように膝に手を当てた。
やがて、カッパたちは森の奥へと消えていく。
残ったのは、風を切る大きな羽ばたきの音だけだった。
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信吾と美沙は空を見上げた。
それを見届けたゴンちゃんが、別れを告げるように旋回している。
「ギュオォォォーーーン!!」
大空に響くその声は、どこか懐かしい。
一年前、小さな体で甘えるように鳴いていた「きゅう……」という声が、確かにその奥に残っていた。
信吾は胸が締めつけられるような想いを感じながら、そっと呟く。
(ゴンちゃん……ありがとう。本当に……ありがとう)
美沙も同じ気持ちで空を見つめ、涙と笑顔が混じった表情で唇を動かした。
(また……会おうね)
ゴンちゃんは最後にもう一度だけ鳴き、陽光を反射する大きな翼を広げ――
ゆっくりと、しかし迷いのない動きで大空へと飛び去っていった。
その姿が小さくなっていく。
やがて完全に見えなくなると、信吾と美沙はふっ、と息を吐いた。
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――結局カッパ達との誤解が完全に解けたかどうかは分からない。
けれど、いま胸にある静かな温もりは、確かに前へ進むための一歩だった。
そして信吾たちは、もう一度だけ空を見上げる。
大切な家族は、確かにあの空のどこかでずっと彼らを見守っているのだと信じながら。




