第65話『やっぱり見守ってくれてたんだね。』
第65話『やっぱり見守ってくれてたんだね。』
ずぶ濡れになった服が肌に張りついて、まとわりつくように重い。耳鳴りのような雨音が辺りを支配し、視界は白い煙幕のような雨粒でほとんど遮られていた。
その中で、信吾、美沙、いさむんの三人は、カッパ達の隙間をぬうように肩で息をしながら必死に走り続けていた。背後では、ぬめりを含んだ足音のようなものが複数、泥を蹴り上げながら迫ってきていた。
――絶対絶命。
その言葉だけが胸の奥で確実に音を立てていた。雨で冷え切っているのに、背筋を伝う汗の線が熱い。
「はぁっ……はぁっ……! 信吾、こっち! 早く!」
美沙が掠れた声で叫ぶ。
足を取られながらも信吾はついていく。水を含んで重たくなったカートを失った分、走るスピードは出ているはずなのに、まるで足が地面に吸い付いているみたいに思ったほど前に進まない。
前方の木陰に飛び込み、三人はどうにか身を隠した。幹の影はわずかで、雨を完全に遮るものではない。だが濁った視界を遮るには十分だった。
「……まずい……今度こそ完全に囲まれた……」
信吾が震える声で呟く。
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木々の合間、ぼんやりとした濁色の影がいくつも揺れている。小刻みに動くその影は、明らかに三人を中心に円を描くように散開しながら近づいてきていた。
「何かどんどん数、増えてない……?」
美沙が唇を噛み、かすれた声で言う。
「ええ、増えていますね。これは……まずいですね」
いさむんの震える指先が彼の本音を如実に物語っていた。
「そんなのこの状況を見れば誰だって分かりますよ!」
信吾が怒鳴る。
雨粒が叩きつける音と、ぬめりのある足音。そこに混ざって、どこか湿った生臭い匂いが漂ってきた。
――もうどうしようもない。
その事実が背筋をぞわりとさせる。背中を押す風の冷たさが、恐怖をひたひたと浸透させてくるようだった。
「……何か策は……策は無いのかな……」
信吾が振り返りながら言う。
隣を見ると、いさむんが目を閉じ、唇を噛みしめている。考えているのか、覚悟しているのか、その判断すらつかない。
信吾は一瞬で悟った。
――ダメだ。いさむんにもう策は無い。
「どうする、美沙さん……?」
信吾が美沙を見て言う。
「もう……いっそのこと三方向に分かれて逃げる?」
美沙が焦った声で提案する。
「それじゃダメだよ!分かれたってすぐ追いつかれる!」
信吾の声は半ば悲鳴だった。
打つ手は、ない。
雨は降り続け、時間だけが悪い方向へ三人を追い詰めていく。
雷鳴が、空のどこかで低く唸った。
ゴロゴロ……ッ!
次の瞬間、閃光が天を裂いた。
バリィィィン!!
光に照らされた一瞬の視界。その刹那、ぬらりとした影の一匹が飛びかかろうと、信吾に爪を伸ばしていた。背筋が凍り、信吾の喉が声にならない叫びを上げる。
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その時――
「ギュオオオオオオオオーーーーン!!!!」
空を揺さぶるような、耳をつん裂く轟音が響いた。
「……えっ……?」
「何……今の……?」
信吾も美沙も、そしてカッパ達までもが動きを止めた。
もう一度、雷? いや、違う。
爆発?それとも地響き?
雷鳴の余韻さえ吹き飛ばすような大音量だった。
一瞬の沈黙。
カッパ達が再び動き出し、再度襲いかかろうと身を低くした。
その時――
「ギュオオオオオオオオオーーーーーーーン!!!!!!」
先程の数倍にも感じる、空気を割くような叫びが天から降ってきた。
同時に、激しい風圧が三人の頬を切り裂くように吹き抜けた。
ザワァァァァァァァ!!
木々が激しく揺れ、雨粒が斜めに飛び散る。
ドンッ……!!
続いて落ちてきたのは――炎だった。
真っ直ぐに落ちてきた火柱が、カッパ達の足元に着弾し、ドロッと濁った地面を焼いた。水気を帯びた土が蒸発し、白い蒸気が一気に立ち上る。
カッパ達は驚愕したように後ずさった。先ほどまで迫っていた生臭い匂いがふっと薄れる。
「あれだけの雨が……」
信吾は驚きの声を上げる。
「嘘でしょ……止んでる……?」
美沙も声を震わせた。
激しかった雨がまるで嘘のように弱まり、やがてピタリと止んだ。湿気を含んでいた空気が、まるで霧が晴れるように澄んでいく。
その変化を受け、信吾の胸に何かが湧き上がった。
――何だろう。
声色は違う。けれど、音の奥にどこか懐かしさを感じる。
耳が自然と記憶を探る。
(この鳴き声……まさか……)
信吾は美沙を見る。
美沙も息を呑み、信吾と同じ確信を抱いていた。
二人の心の中で同時に言葉が生まれる。
(……やっぱり見守ってくれてたんだね……)
一方で、状況を全く理解できない人物が一人。
「し、信吾さん! 今のはどういう──え?何が……?」
いさむんは完全に混乱していた。視線が定まらず、手は震えている。
空気が澄む。視界が開けていく。
巨大な影が、空の彼方からゆっくりと降りてくるのが見えた。
羽ばたくたびに風が巻き起こり、地面の水たまりが円を描いて跳ねた。
全長――十メートルはあろうか。
鋭い爪、力強い翼、そしてどこか懐かしい瞳。
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ゴンちゃん。
かつて信吾達と家族として共に過ごし、旅立っていった存在。
その圧倒的な姿は、今や威厳と成熟を兼ね備えたまさに“守り神”だった。
(※ゴンちゃんの活躍は『ドラゴンの飼い方教えます』を参照)
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信吾も美沙も、胸の奥の恐怖がゆっくりと溶けていくのを感じた。
あれほど無慈悲だった雨も、残酷に支配していた絶望の空気も。
全てが、ゴンちゃんの羽ばたきによって吹き払われていく。
――信吾達の味方として。
――守るために。
真竜となったゴンちゃんが戻ってきたのだった。




