第64話『ダメだ。完全に囲まれた』
第64話『ダメだ。完全に囲まれた』
激しく打ちつける雨が、眠り沼の奥を真っ白にかき消していた。さっきまで確かに晴れていた空は嘘のように黒く沈み、雷こそ鳴っていないものの、空気だけは嵐の前触れのように重く冷たい。沼の地面はぬかるみ、足を踏み出すたびに靴が泥に吸われるような感覚が走る。
「いさむん、こっちで本当に合ってるんですか?」
信吾は荒い息を吐きながら叫んだ。雨のせいで声がすぐにかき消される。
「だと思います!ただ、この雨で見えません!」
いさむんは振り返らず、必死に前へと駆ける。彼の声も雨に飲まれ、半分以上が流されていく。
「ちょ、ちょっと待って! カートが……!」
後ろを走っていた美沙が悲鳴のような声を漏らした。ぬかるみに足を取られ、彼女の手からカッピーのカートが滑り落ちる。
「あっ──!」
カートは泥の上を滑り、ズズッと音を立てて横倒しになった。水が弾け、瞬間、光が差したように感じたのは雷ではなく、心がヒヤッとしたからだ。
「今はカートは諦めましょう! こっちです、早く!」
走りながら、いさむんがいつになく強い口調で叫ぶ。
「でも──!」
美沙の声は震えている。雨のせいだけではない。信吾と美沙にとってカートはカッピーとの象徴のような存在だったのだ。
「気持ちは分かりますが、今は命の方が大事です!」
いさむんの叫びは、雨を割り裂くようだった。
信吾が美沙の腕を掴んだ。
「美沙さん!行こう!」
二人が振り返ると、カートの周りに複数の影が集まっているのが見えた。
──カッパ達だった。
幸いにも、彼らは今はカートに気を取られている。何匹もが、落ちたカートを興味深そうにつついたり、匂いを嗅いだりしていた。
「今です。走って!」
いさむんの声に、三人は泥だらけの地面を蹴るように駆け出した。
雨脚はさらに強くなり、視界はどんどん白く濁っていく。どこからが道で、どこからが沼の深みに繋がっているのか判別もできない。足元だけを頼りに、三人は死に物狂いで前へ進んだ。
ようやく大きな木の根元が見えた。そこだけは葉が厚く、多少の雨を避けられる。
「ここで、少し……!」
いさむんが木の陰に滑り込むようにして座り込み、信吾と美沙も続いた。
雨と恐怖で呼吸が乱れ、胸が上下に激しく動く。三人とも泥まみれで、髪も服もびしょびしょだった。
「いさむん……さっき、カッパたちは臆病な性格だって言ってませんでしたよね?」
信吾が肩で息をしながら言う。
「じゃあ、何でぼくらを襲ってきたんでしょうか……?」
いさむんは水滴のついた眼鏡を指で押し上げ、深いため息をついた。
「そうですね。理由は二つあると思います。一つは、私たちが彼らのテリトリーに誤って入り込んでしまったこと。それは、先ほども話した通りです。ただ……それだけなら攻撃はされなかったかもしれないです。」
「えっ……じゃあ?」
信吾の声が雨よりも震える。
「先ほど、カッピーとカッピーのお母さんに会った時のことです。信吾さんが、もう一匹カッパらしき影を見たと言いましたね?」
「は、はい……言いましたけど……」
「おそらく、あのカッパが仲間を呼んだのでしょう。カッパ同士の仲間意識は強いのだと思います。私たちがカッピーを連れ去ったか攻撃したか、そう誤解したのだと思います。」
「そんな……」
美沙の表情から血の気が引く。
「どうしたら……どうしたらぼく達が敵じゃないってわかってもらえるんだろう!?」
信吾が声を荒げた。
「カッピーとカッピーのお母さんに説明してもらえばいいんじゃない?」
美沙が希望を込めた声で言う。
「うーん……それは……難しいでしょうね。」
いさむんは首を振る。
「この雨ですし、姿もどこにあるか分からない。そして、カッパたちは今、興奮状態です。もし中途半端に近づけば、カッピーだって危険です。」
「そんなぁ……じゃあ本当にどうすれば……」
信吾の声が濁る。
「一秒でも早く、ここから離れる。それしかありません。」
いさむんは雨に濡れた手で拳を握る。
その瞬間、風が強く吹き、木の枝がバキッと折れた音がした。緊張が一気に身体中を走る。
雨はさらに強さを増し、空気が冷たく刺々しい。
──何かが近づいている。
信吾は木の向こう、雨の帳の中に僅かな揺れを感じた。
「……ねぇ、いさむん。何か、変じゃないですか?」
「はい。先程と同じ感覚がありますね。」
いさむんも続く。
美沙も震える声で言った。
「信吾、何かさっきから……“足音みたいなの大きくなってない?」
「う、うん……」
「……何かさっきよりも足音が大きい気がする。」
信吾の言葉が終わらないうちに──。
ガサガサッ……
ズズッ……
木々の奥から、いくつもの影が姿を現した。
緑色の頭。皿。甲羅。鋭い視線。
その数は、さっき見たときの倍以上だ。
「……まずい。囲まれた。」
信吾の声がかすれた。
「やっぱり、さっきより……数増えてない?」
美沙の顔は真っ青だ。
「これは絶対絶命とは、このことですね。」
いさむんが妙に冷静に言った。
「冷静に言ってる場合じゃないですよ……!」
信吾は叫ぶが、どうしようもない。
カッパたちはじりじりと距離を詰めてくる。こちらを伺う鋭い視線。その皿に溜まった雨水が、不気味に光っている。
息が詰まるほどの緊迫感。
三人の鼓動が、雨音と混ざって響き合う。
──もう逃げ道はない。
眠り沼の奥地で三人を囲んだカッパたち。
それは偶然でも、単なる誤解でもなかった。
そこは、決して立ち入ってはならない“彼らの住処”だったのだ。
信吾達はこの窮地を脱することが出来るのか。それとも……
答えは天のみ知り得るのかもしれない。




