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第63話 『急転の雨雲とカッパ達の住処』

第63話 『急転の雨雲とカッパ達の住処』


 眠り沼の奥深くに消えていった母子の姿は、霧の向こうへ完全に溶けていった。

 残されたのは、朝日の気配と、ほんのり温かい余韻だけだった。


 胸の奥に残る寂しさは確かにあった。

 だがそれ以上に、信吾も美沙も、カッピーが幸せそうだったことへの安堵が勝っていた。


 ――空気は穏やかで、どこか晴れ晴れとしていた。


 三人は木のそばの乾いた地面に腰を下ろし、しばし休憩を取っていた。

 柔らかな木漏れ日が彼らの肩に落ち、湿った土の匂いが静かに広がっていた。


「カッピー、お母さんに会えて本当に良かったね……」

 美沙の声は、ふっと空気を和らげる。

 その表情は、さっきまで涙を流していた面影を残しながらも、やさしく笑っていた。


「うん。そうだね。あんなに嬉しそうな顔、初めて見たよ。

 本当に……幸せそうだった」

 信吾も穏やかに微笑みながら、木の幹に背を預ける。


 いさむんは腕時計を見ながら言った。

「そうですね。そろそろ陽が出てきました。他のカッパ達が活動を始める前に戻りましょう」


「分かりました。でもさ……」

 信吾は地面に落ちる光を見つめながら言葉を続けた。

「カッピー以外のカッパって、もっと怖いイメージがあったけど、カッピーのお母さん、すごく優しそうだったなぁ。

 こんな感じだったら……週一回くらい来て、カッピーの様子を見たいくらいだよ」


「さすがに週一回は多いでしょ」

 美沙がくすっと笑う。

「でも、月一回くらいなら……来たいかも。他の仲間にも歓迎してもらえるかもしれないし」


 その言葉に、いさむんは少しだけ苦い表情を浮かべた。

「自然の生き物は……時にとても怖いですよ。

 あまり甘く考えない方がいいと思います」


 二人はその言葉を聞き流すように笑っていたが――


 信吾と美沙は、このとき完全に浮かれていた。

 だが、後にこの発言をしたことを、二人は心の底から後悔することになる。

 この瞬間、まだ三人は知るよしもなかった。

 カッパという生物が抱える、本当の恐ろしさを……。


---


「そろそろ……出発しましょう」

 いさむんの声と同時に、世界が音を変えた。


 ――ポツ……

 ――ポツ、ポツ……


 大粒の雨が降り始め、空が一瞬にして薄暗くなる。


「えっ? 雨が……?

 今日、降らないって予報だったのに……」

 信吾が空を見上げた瞬間――

 ザァァァァッ――!

 まるで空が裂けたような豪雨が襲いかかってきた。


「急ぎましょう……!泥濘んでいると危険です。それに……何か……嫌な予感がします!」

 いさむんの声は、雨にかき消されそうだった。


「はいっ!」


 三人は足元の泥濘に足を取られながら、必死に前へ進んでいった。


 しかし、雨は一向に弱まらない。

 むしろ、視界はどんどん奪われ、周囲の木々の輪郭すら曖昧になっていく。


(こんなに……世界が変わるものなのか……!?)


「いさむん! 帰り道って……この方角で合ってるのかな……?」


「はい……おそらくこちらで問題無いと思います。

 ただ……私が目印にしていたポイントが……この雨で消えてしまって……!」


 視界は真っ白だった。どれだけ歩いただろうか。

 雨の幕が何層にも重なり、音が地面から空へ跳ね返り、世界を飲み込んでいく。


 ここはもう――

 信吾たちが知っている“眠り沼”ではなかった。


「はぁ……っ、はぁ……っ。

 カートが……重い……。水を吸って……これ以上は……握力が持たない……」


 信吾と交代しながらカートを押していた美沙の声が震えていた。


「これ以上進むのは危険です。

 あそこの木の下で、一時的に雨宿りをしましょう!」

 いさむんの声に、信吾と美沙は必死に頷く。


---


 三人はなんとか太い木の根元へたどり着き、肩を寄せ合って雨をしのいだ。


 雨音はまるで大地そのものが唸っているように響き、風が湿った森を揺らしていた。


「……いさむん、ここ……何か……違和感、無い?」


 信吾は、全身にぞわりと広がる“気配”に気づいていた。


「……そうですね。

 何か……違和感がありますね。

 この雨の音に紛れて……何かが動いている気配がします」


 美沙が不安げに口を開いた。

「信吾……少し前に、カッピーのお母さん以外に……他のカッパがいたって言ってたよね……?」


「う、うん。確かに言ったよ」

 信吾が疲れた声で言う。


「それって……一匹だったよね……?

 なんか……今は……複数いるような気がするんだけど……」


 その瞬間だった。


 ゴポ……

 ゴボッ……

 バシャ……ッ!!


 泥濘で出来た水面をかき分ける音が、前方から響く。


「っ……!?」


 次々に、暗がりの影が浮かび上がる。

 緑の肌。水滴に濡れた皿。ぎらりと光る瞳。


 カッパ達が――複数体、一斉に姿を現した。


 美沙が息を呑む。

 信吾の喉がひゅっと狭くなる。


 普段のカッピーとは違う。

 彼らの目は、獲物を狙うように鋭く、動きは素早く……しかし、信吾達を恐れているするような、顔は苛立ちに満ちていた。


「二人とも……逃げましょう!」


 いさむんが叫ぶ。


「わ、わっ!? いさむん、ここって……!?」


「私達は……知らず知らずに眠り沼の“奥地”――

 カッパ達の住処に、入り込んでしまったようです!!」

 いさむんの声が雨にかき消されながらわずかに響く。


 信吾の背筋を激しい悪寒が走り抜けた。


 霧も雨も視界を奪う中、

 三人の周囲には“影”がいくつも……いくつも……。


 足元の泥が震えているように感じた。


 この日、三人は初めて知ることになる。

 カッパはただの愛らしい生物ではない。

 自然の中で生きる“生物”としての本能は、時に人間が想像する以上に残酷で――

 そして、眠り沼は決して軽い気持ちで踏み込んではいけない場所だったのだと。


---


 静かだった森は、もうどこにも存在しなかった。


 豪雨と緑の影が混ざり合い、

 三人はついに――眠り沼の“真の姿”を目の当たりにする。


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