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第62話 『カッピーまた来るね』

第62話 『カッピーまた来るね』


 朝霧がわずかに揺れていた。

 眠り沼の静寂は相変わらず深く、風もなく、ただ時間だけがゆっくりと流れている。

 だがその静けさの奥に――言葉にできない“ざわり”があった。


 目の前では、カッピーが大人のカッパへ駆け寄っていく最中だったが、

信吾の背筋には、どこか説明のつかない寒気がまとわりついていた。

美沙も同じなのか、小さく肩を震わせて信吾の袖をつまんでいる。


「……あれって多分、お母さんだよね?でも何か動揺してるように見えない?」

「……ああ。少し、変だな。喜んでるはずなのに、どこか……落ち着きがないっていうか」


 周囲の木々がざわめくわけでもなく、動物の声がするわけでもない。

 ただ、“何か”張り詰めた空気があった。


 いさむんもじっと周囲を見渡しながら小声で言った。


「おかしいですね……。カッパ達の住処は、眠り沼のもっと奥のはずです。

 しかも、カッパというのはもっと臆病な性格のはずで……人前にこんなに堂々と出てくることは、まずあり得ないです」


 その言葉に、信吾の胸のざわつきが一層強くなる。


(じゃあ……このカッパはどうしてここへ……?)


 疑問が胸に刺さったその瞬間――


「……クゥ」


 カッピーの小さな声が沼の静けさをやわらかく破った。


 その声だけで、なぜか辺りの空気がふっと和らぐ。

 その場に重くのしかかっていた不穏さが澄んでいき、

霧の中に光が差し込んだように、雰囲気が柔らかく変化した。


 大人のカッパはゆっくりと膝をつき、カッピーを抱き上げるように腕を広げた。

 カッピーはその胸に飛び込むと、

まるで今までの出来事を、一つひとつ“楽しかったよ”と言いながら伝えるように、

短い腕をぱたぱた動かし、「クゥ、ククゥ!」と嬉しそうに鳴いた。


 その様子に、美沙は胸に手を当てて言った。


「……やっぱりお母さんだったんだね。

 急にカッピーが現れた時は驚いたけど……この様子を見ると、ずっと会いたかったんだってわかるね」


 信吾もほっと息を吐いた。

 胸の奥にあった緊張がほどけ、目頭がじんわりと熱くなる。


「……そうだな。どう見ても……カッピーのお母さんだ」


 いさむんは静かに頷きながら言った。


「大きさ、しぐさ……そして何よりカッピーへの反応。

 あれは母親で間違い無いですね。

 もしかすると……母親はずっとカッピーを探していて、眠り沼の入り口付近まで来ていたのかもしれません」


 その言葉に、美沙は涙をこらえきれずに微笑んだ。

 信吾も思わず頷き、カートの横にそっと手を置いた。


 カッピーは母親の胸元に顔をすり寄せながら、

時折こちらを振り返って「クゥ!」と嬉しそうに鳴いた。


 沼の空気はいつしか穏やかさを取り戻し、

霧の向こうからわずかに朝日が覗き始めている。

その光が、水面に揺れながら反射し、三人を柔らかく照らした。


 ――そのときだった。


 信吾はふと背後に気配を感じ、振り返った。


「……ん?」


 木々の間。

 霧越しに、何か小さな影がこちらをじっと見ていた。


 丸い皿。

 緑がかった肌。

 そして光を反射する瞳。


(こっちにも……カッパ……?)


 目を凝らした瞬間、その影は音もなくスッと姿を消した。


「えっ、今……もう一匹カッパいなかった?」

 驚いて声を上げる信吾。


 美沙は目をぱちぱちさせて振り返る。

「えっ?ほんと?私は見えなかったよ……気のせいじゃない?」


「……うん、そうかもな。気のせい……かもしれない」


 そう言いながらも、信吾の胸には小さな疑問が残ったままだった。


 だが、いまこの瞬間の空気は、その疑問さえ溶かしてしまうほど――温かかった。


 カッピーが母親の膝にちょこんと座り、こちらを見て嬉しそうに手を振る。


 美沙が涙ぐみながら笑う。

「……帰れるんだね、カッピー」


 信吾も静かに近づき、カッピーの前にしゃがむ。


「なぁ、カッピー……」

 言葉を選びながら、そっと笑顔を作る。

「……また来るね」


 その声を聞いたカッピーは、嬉しそうに耳を震わせ、

「クゥ……!」と小さく優しい声を返した。


 美沙も続いて言う。


「カッピー……ううん、カッピーくん。

 元気でね。ちゃんと、お母さんの言うこと聞くんだよ?」


 カッピーは「ククゥ!」と返す。その顔は笑みを浮かべているように思えた。

 その声があまりに嬉しそうで、信吾達は逆に胸がぎゅっと締めつけられた。


 母親のカッパは深々と頭を下げるようにして、

信吾たちにゆっくりとまぶたを閉じた。

その仕草はまるで、感謝を示しているかのようだった。


 まるで言葉の代わりに伝えているようだった――

「この子をありがとうございました。心も身体も、あなた達のおかげでこんなに大きくなりました」と。


 信吾と美沙は静かに頷き返し、

カッピーと母親が沼の奥へ歩いていくのを見送った。


 カッピーが振り返る。

 もう一度だけ、手を大きく振るようなしぐさをした。

 その姿が霧の向こうに溶けていく。


 そして――二つの影は静かに森の奥へ消えた。


---


 静けさを取り戻した水面は、

どこか寂しさと、それ以上の温かさをたたえていた。


 信吾は小さく息を吐き、空を見上げる。

(カッピー……元気でな)


 美沙は涙を拭い、いさむんは静かに二人に寄り添いながら言った。

「……良かったんですか?

 私が言うのも変ですが……もっとゆっくり別れの時間を取っても良かったんじゃ……」


 信吾は首を横に振り、穏やかに笑った。

「はい……たしかにそうなんですけど。

 でも、カッピーのあの様子を見てたら……

 “早くお母さんに伝えたいことがあるんだろうな”って思いまして」


 美沙も優しく微笑む。

「そうだね。私たち、別れはいろいろ経験してきたし……。

 でもカッピーには、私たちより仲間と過ごす時間を大事にして欲しいしね」


 いさむんは二人の答えにふっと笑い、目尻を下げた。


「……そうですか。やっぱり、あなた達は優しいですね」


---


 別れはいつだって寂しい。

 けれど、それが“帰るべき場所”への別れならば――

悲しみよりも、温かい安心が胸に残るのだと、三人は知った。


 朝日が沼の水面を照らし、

小さな波が優しく光を揺らす。


 その輝きの中で、

カッピーへの「またね」という声が、

確かに残響のように響いていた。


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