第61話『えっ、あれってもしかして』
第61話『えっ、あれってもしかして』
夜が明けたばかりの空は、まだ薄い青色をしていた。
早朝特有の冷たい空気が漂い、山の奥へと続く道は白い靄に包まれている。
エンジンの振動が止まり、車がゆっくりと静止した。
「……着きました。ここから先は、車では入れません」
いさむんがドアを開けながら静かに告げた。
信吾と美沙、そしてカッピーも外に降り立つ。カッピーはカートの中で少しワクワクしているように見える。朝露の匂いが胸いっぱいに広がり、耳の奥で静かに鼓動が鳴っていた。
道路の先は細い獣道になっており、木々が重なり合ってトンネルのように道を覆っていた。
「やっぱりここから徒歩ですよね?」
美沙が少し心配そうに周囲を見渡す。
「はい。何度かこの辺りに来ていますが、眠り沼には、この先の林を抜けるしか方法は無いですね」
いさむんは慎重に足場を確認しながら言った。
「……まぁ、そうですよね。急ぎましょう」
信吾は息を整えながら続ける。言葉とは裏腹に、その目には不安が混ざっていた。
いさむんは一呼吸置いてから、さらに真面目な声色になる。
「昨日よりも気温がさらに上がっています。冬眠していたカッパ達が目覚めている可能性はより高いです」
信吾は無意識に唇をかんだ。
期待と不安が胸の奥で混ざり合い、ざわざわと揺れている。
(今日……本当にカッピーを送り返すことになるのかもしれない。でも、どんな結末になってもカッピーの為になるなら。)
美沙も不安げに手を胸の前で組み、深く息を吐いていた。
しかし、その隣では――
「クゥ!」
カートの中のカッピーだけが元気いっぱいだった。
周囲の自然に興味津々で、立ち上がって窓から顔を出そうとしたり、木々の匂いを嗅いだりしている。
「カッピーは……楽しそうだね」
美沙が微笑む。
「……うん。なんか、余計に胸が痛いね」
信吾は小さく呟き、カートを押した。
いさむんは三人を促すように、林の方へと歩き出した。
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林の中は、外とは違うひんやりとした空気が流れていた。
朝だからなのか鳥の声はまばらで、代わりに地面を踏む音と、遠くで水の滴る音が静かに響く。
「昨日、私が来た時は……」
歩きながらいさむんが口を開く。
「この先にカッパ達の痕跡がありました。新しい足跡や、かじられた植物など……。確かに“動いている”と感じました」
信吾と美沙は息を飲む。
「ただ、まだ朝が早いので……もし冬眠から覚めていても、今日はまだ、活動は始めていないかもしれません。逆にそこが狙い目です」
「そ、そうですか……」
信吾はカートの中を見る。
さっきまでソワソワしていたカッピーは、揺れに気持ちよくなったのか、小さく背中を丸めて眠っていた。
時折、指先をピクッと動かし、寝言のような小さな音を漏らす。
「カッピー寝ちゃったね……」
美沙が小声でつぶやく。
「なんか、こういうの見ると、まだまだ子どもなんだなって思うよね」
「うん……だから母親に会えたら、喜ぶんだろうな……」
信吾の声はかすかに震えていた。
眠り沼へ向かう道は徐々に険しくなり、木々の密度も増していく。
足元の土は水分を含み、ぬかるんだ場所も多い。
「あと少しで……眠り沼です」
いさむんが振り返り、信吾達に優しい笑みを向けた。
林を抜けるにつれ、空気が少しずつ変わっていくのを全員が感じていた。
湿度が上がり、土の匂いが一段と濃くなる。遠くで鳥が一声鳴き、また静寂が戻る。
やがて木々の隙間から淡い光が差し込み、視界が急に開けた。
「えっ……ここ、ですか?」
美沙が息を飲む。
眼前には、鏡のように静まり返った水面が広がっていた。
薄い朝霧が沼全体を覆い、風もなく、ただ静かに、ひっそりとそこに存在している。しかし、それは前に信吾達が来た時とは風景が変わっていた。
「はい。ここが……今の眠り沼です」
いさむんは少し声を落として言った。
まるで、この場そのものが大きな寝息を立てているかのように、穏やかで、どこか神聖な気配が漂っている。
「前に来た時と違う。何だろう、穏やかな感じは変わらないけど、以前、ここに来た時はまだ冬って感じだったけど、今は……」
信吾は思わず息を呑んだ。
前にここに来た時のことが一瞬で蘇り、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
美沙もそっと両手を握りしめ、言葉を失っていた。
カートの中では、カッピーが眠ったまま小さく呼吸をしている。
その寝息すら、この静寂の中ではやさしい音に聞こえた。
「そうですね……行きましょう。沼の縁まで」
いさむんの言葉に、三人はゆっくりとうなずき、静かに歩き出した。
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その時だった。
「……クゥ……クゥクゥ……」
カッピーが小さく鳴き、目を開いた。
眠りから覚めたばかりのようにまばたきを繰り返し、次の瞬間――
「クゥッ!!」
急にカートの縁に両手をかけ、身を乗り出し始めた。
「えっ、カッピー?どうしたの?」
美沙が驚いて身を寄せる。
「ま、待って、危ないよ!」
信吾も慌ててカートを押さえた。
だがカッピーは今までにないほど強い力でカートから降りようとする。
目は林の奥をじっと見据えており、その瞳は興奮と何かの確信で輝いていた。
いさむんは真剣な表情でその様子を見ていた。
「……何か、感じているのかもしれません」
「えっ……感じてる?」
信吾が聞き返す。
「はい。匂いでしょうか、気配でしょうか……。仲間の存在を察知している可能性があります。」
美沙はカッピーの背中をそっと撫でた。
「……カッピー。大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね」
だがカッピーは落ち着かず、短い腕を伸ばして奥を指すようにする。
「クゥ……ククゥ……!」
訴えるような、呼ぶような声。
信吾の胸が強く締めつけられた。
(やっぱり……本当に、眠り沼に仲間が……?)
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その時だった。
――ガサッ。
茂みの奥から、何かが動く音。
昨日よりも湿った土の匂いと、強い草の香りを含んだ風が吹き抜けた。
「……えっ?」
信吾が立ち止まる。
いさむんもすぐに気配を察し、三人の前へ出た。
「皆さん、後ろに」
美沙は思わず信吾の腕を掴む。
カッピーは興奮して身を乗り出し、目を大きく見開いている。
――ガサッ、ガサガサッ。
音が近づいてくる。
地面がわずかに揺れ、いくつかの枝が折れる音。
やがて――
木々の隙間から“それ”が姿を現した。
緑色の皮膚。
大人の人間よりも一回り小さい体。
丸く盛り上がった皿。
そして、深く澄んだ金色の瞳。
――カッパ。
それは、間違いなく“大人の”カッパだった。
「えっ……あれって……もしかして……」
信吾の声は震え、最後まで言葉にならなかった。
美沙は息を呑んで後ずさる。
カッパは敵意を見せず、ただ一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。
その視線はまっすぐに、カートの中を捉えていた。
カートの中――
カッピーは震えていた。
だが、怖がっているわけではない。
まるで、胸いっぱいに懐かしい匂いを吸い込んだかのように。
「ク、クゥ……」
その瞬間、カッピーは身体を前に乗り出し、カートのロックが外れ――
カートごと前に倒れた。
「うわっ!?」
信吾が慌てて手を伸ばすが間に合わない。
カッピーは転がるように地面に着地し、そのまま迷うことなく――
大人のカッパに向かって駆けだした。
「カッピー!?」
美沙の叫びも届かない。
大人のカッパは、小さな足音に反応し、ゆっくりと腕を広げた。
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いさむんはその光景を凝視しながら、息を呑んだ。
「……大きさ的にも……まっすぐカッピーに近づいてくる様子も……それにカッピーが全く恐れていない……」
その声は震え、驚愕と確信が入り混じっている。
「もしかして……カッピーの……」
最後の言葉は、風にかき消された。
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カッピーは両手を伸ばした。
「……クゥ……!」
その声に呼応するように、
大人のカッパも一歩踏み出し、そっと腕を差し伸べる。
湿った朝の空気の中で、
二つの影が、ゆっくりと重なっていく――。
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――眠り沼の入り口。
湿った土と朝露の香りの中で、
運命の瞬間は、誰の予想よりも早く訪れた。
いきなり姿を現した“大人のカッパ”。
それが何者なのか、敵なのか、味方なのか、
信吾たちにはまだ分からない。
だがただ一つだけ、確かなことがある。
カッピーは、その姿を見た瞬間、迷わず手を伸ばした。
その小さな動作が、
“再会”という言葉を静かに形づくり始めていた。




