第58話『友達はここにもいるよ』
第58話『友達はここにもいるよ』
——運命の朝が、静かに訪れていた。
冬の空は淡く白んでいて、いつもの朝よりも少しだけ冷たく、少しだけ胸に刺さる。
けれど、その空気の中で、信吾と美沙とカッピーの朝はいつもと変わらず始まっていた。
信吾がキッチンでコーヒーを淹れ、美沙がトーストを焼き、カッピーはその足元で小さく「クゥ」と鳴く。
食卓に座れば、カッピーはちゃっかり美沙の膝に乗り、信吾が苦笑する。
「……カッピー、今日だけ特別だからな?」
信吾が言う。
「うん、そうね。今日は特別ね。」
美沙の言葉に、信吾は肩をすくめ、二人は思わず笑い合う。
そんな穏やかな時間に——
ピンポーン。玄関のインターフォンが鳴った。
信吾と美沙は顔を見合わせる。
この時間に来るのは、もう決まっていた。
玄関の扉を開けると、朝の光の中に立っていたのは——
上品なコートを纏い、背筋をすっと伸ばした桜小路さんと、穏やかな瞳をしたサモエドのルネだった。
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桜小路さん
かつて外交関係や芸術支援に携わっていたとも言われる、品格あふれるマダム。
西洋のお城のような大きな屋敷に住んでいたが、ルネの為に現在は豪華な別邸に住んでいる。
生物愛に溢れ、信吾と美沙の為に様々な支援をしてくれる頼もしい存在。
高城との開発計画の際には力を貸してくれた恩人の一人。
カッピーのことも“可愛らしい子ね”と受け入れる器の広さを持つ。
物事を見極める目は確かで、好奇心よりも信頼を重んじるタイプ。
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ルネ
ふわふわの白い被毛と、やさしく微笑んでいるような表情が印象的なサモエド。
桜小路家にふさわしい気品をもちながら、誰にでも分け隔てなく接する穏やかな性格。
カッピーに対しては落ち着いた対応をとっているが、過去に二度会った際はその都度カッピーが怖がり、さびしい仕草を見せていた。
だが、その距離は確実に縮まりつつある。
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白い毛並みをふわりと光らせながら、ルネはゆっくり尻尾を振る。
「おはようございます、慎吾さん、美沙さん。」
その声は凛としていて、それでいてあたたかい。
「朝早くから……本当にありがとうございます。」
信吾が頭を下げると、桜小路さんはやわらかく微笑んだ。
「いいえ。そんなことありませんわ。
……きっと寂しい朝になるでしょうけれど、あなたたちなら大丈夫ね。
カッピーも、きっと。」
その励ましは深くて優しかった。
美沙はルネにしゃがみ込む。
「ルネも今日は来てくれてありがとね。」
撫でると、ルネは目を細めて嬉しそうに尾を揺らす。
「そういえば、カッピーは?」
桜小路さんが尋ねる。
「さっきまでは元気に走り回ってたんですけど……まだ朝も早いですし、寝ちゃってますね。」
信吾が答える。
「そうなのね。今日は大事な日だから……起きるまでは寝かせてあげましょう。」
桜小路さんは優しく言った。
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三人とルネはリビングへ移動した。
信吾と美沙と桜小路さんは椅子に座り、ルネはその足元に姿勢良く座る。
信吾が口を開く。
「桜小路さん……改めて、こんな朝早く来てくださって、本当にありがとうございます。」
美沙も続く。
「私からも……ありがとうございます。それに、嘆願書の件も……。助けてもらってばかりで……。」
「全然構わないわ。」
桜小路さんは微笑む。
「むしろ、あなたたちの決意を見られて嬉しかったくらいね。
でも……急な決断だったのね。」
「はい。でも……変に長くなるより、この方が……心の整理ができます。」
信吾の声は静かだが、芯があった。
「それなら良かったわ。でも、寂しくなったら——いつでも私に連絡してね。」
その言葉は頼もしかった。
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そのとき、小さな足音が近づき、カッピーがリビングに入ってきた。
寝起きの顔で、少し目をシバシバさせている。
「クゥ……?」
「まあ、カッピー。おはよう。今日も可愛らしいわね。」
桜小路さんが微笑む。
カッピーは恥ずかしそうに美沙の足元へ寄り、そこからそっと顔を出す。
するとルネがゆっくり近づいた。
その大きな体が動くたびに、空気がふわりと揺れる。
カッピーは一瞬で体を強張らせた。
「クゥ!? クク……!」
美沙の後ろに隠れて震える。
「やっぱりまだ怖いか……。でも、もう仲良くなれるチャンスは今しかないぞ、カッピー。」
信吾は静かに言う。
ルネは頭を低くし、威圧しないようにゆっくり近づいた。
慎重に、慎重に。
カッピーは後ずさりしながらも、ルネを見つめている。
「ルネ……ゆっくりでいいからね。」
桜小路さんがそっと声をかける。
ルネは鼻先をほんの少し前に出し、カッピーとの距離をそっと縮める。
カッピーは震えながらも、一歩前に踏み出した。
「……クゥ……」
その瞳には、恐怖と同じくらいの “興味” が宿っていた。
ルネの毛先が、カッピーの小さな指先にふわりと触れる。
カッピーの体がぴくっと跳ねる。
けれど逃げなかった。
ルネは静かに呼吸を整え、喜びを押さえてただ寄り添う。
カッピーはもう一歩、前に進んだ。
そして、そっとルネの胸元へ身を寄せた。
ルネの尾が、ふわりと揺れた。
美沙が手で口元を押さえる。
「……やっと、仲良くなれたんだね……。」
信吾も胸が詰まるような声で言う。
「良かった。本当に……良かった。」
「ふふ……やっと距離が縮まったみたいね。
カッピーも、ルネも、本当に頑張ったわ。」
桜小路さんが優しく言う。
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カッピーとルネは寄り添い、まるで短い時間を惜しむように鼻を寄せ合っていた。
しかし——
穏やかな時間でも、時計の針は容赦なく進む。
冬の空が少しずつ青く変わっていく。
それは、この朝が終わりに向かっている合図のようだった。
——せっかく仲良くなれたのに。
——ようやく触れられたのに。
——ようやく心が繋がったのに。
無情にも、運命の時間は静かに近づいてくる。
でも、確かに絆は結ばれた。
二つの命が恐怖と優しさのあいだで見つけたその“つながり”は、もう消えることはない。
カッピーには友達がいた。
ここにも、ちゃんと。
その事実だけが、これからの道をそっと照らしていた。




