第57話 『おやすみカッピー』
第57話 『おやすみカッピー』
正人の小さな立てこもり事件が落ち着き、家の中にはようやく静けさが戻っていた。
信吾と美沙は、リビングの椅子に並んで座っていた。
カッピー用の部屋では、疲れきったのか、カッピーがいつもの桶で大の字になってすやすや眠っている。
小さな胸が上下して、規則正しい寝息が微かに聞こえる。
その姿を見つめながら、信吾がぽつりとつぶやいた。
「……なんか、急すぎて実感が湧かないなぁ」
穏やかだけど、どこか力の抜けた声だった。
美沙は小さく頷く。
「うん。私も。ついさっきまで、あんなにバタバタしてたなんて思えないよね……」
二人とも、ただカッピーの寝顔を見つめる。
静かで、柔らかくて、寂しさの影が少しだけ差す時間。
ほんの数時間後には――
ここにいるカッピーが、もう手の届かない場所へ帰っていく。
それでも、今だけは。
カッピーは、何も知らないまま、安心しきった顔で眠っている。
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信吾がそっと肩を落とし、微笑を漏らす。
「結局、カッピーがここに居たのって三ヶ月経って無いんだよね……
でも、こうやって寝てるだけでさ。ずっとこの家にいた子みたいに見えるんだけどな」
「ね。なんか……本当の家族みたいだったよね」
美沙も同じ気持ちを抱えていた。
「……明日さ、本当にカッピーのお母さんに会えたら……カッピー、どんな反応するんだろうな」
信吾がぽつりと言う。
「そうだね……私たちといたことなんて忘れちゃったみたいに、一直線に走っていったりするのかな」
美沙は少しだけ寂しそうに笑って答える。
「まぁ、それが一番幸せなんだろうけど……ちょっと寂しいよね」
信吾は苦笑いを浮かべ、目を伏せた。
二人のあいだに、ほんの短い沈黙が落ちる。
温かい気持ちと切なさが同時に胸に広がるような、静かな間だった。
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「でも、短い期間だったけど、濃い日々だったよね。」
あの雪の日にカッピーと初めて会ったこと、引っ越し中にカッピーと虎之介がじゃれ合っていたこと、正人と出会って兄弟のように仲良くなったこと、観葉植物を倒した時のカッピーの顔――
雷が得意で、怖がるどころか窓に張り付いて喜んでいたあの日……。
信吾の脳裏に、カッピーとの思い出が次々と浮かぶ。
美沙もそっと微笑んだ。
「カッピーって人に笑顔を作ってあげられるよね。雅さんだってカッピーが来て、正人くんの笑顔が増えたって言ってたし。」
「うん……本当にそうだよね」
信吾は少し笑って首を縦に振った。
美沙は、そっとカッピーに視線を戻しながら言葉を続けた。
「カッピーってさ、人の心の距離をすごく縮めるよね。
うまく言えないけど……ただそこにいるだけで、周りがあったかくなるっていうか」
信吾は「わかる」と小さく笑った。
二人が視線を向けると、カッピーが小さく「クゥ……」と寝言を言った。
小さな手足がぴくっと動き、夢の中で何か追いかけているみたいだ。
「……どんな夢、見てるんだろうね」
美沙が微笑む。
「正人くんと遊んでる夢じゃないかな」
信吾が答える。
そう言いながら、二人はゆっくりと立ち上がった。
部屋の空気が少し冷えていることに気づき、信吾がそっとストーブのスイッチを入れた。
柔らかな暖かさがじんわり広がり、桶のお湯とストーブの熱で部屋全体が心地よく満たされていく。
カッピーの寝顔はますます安心したものに見えた。
この夜だけは、
時が止まってくれたらいいのに――
そんな願いを抱きながら。
美沙が小さくつぶやく。
「……おやすみ、カッピー」
信吾も続ける。
「また明日……起きたら、ちゃんと出発しような」
二人の声は、そっとカッピーの夢へ溶けていく。
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――こうして、カッピーは最後の夜を
優しい二人に見守られながら、静かに眠りについた。
その寝息は、まるで「ありがとう」と言っているみたいに
柔らかく揺れていた。
――おやすみ、カッピー。




