第56話 『正人の小さな立てこもり事件』
第56話 『正人の小さな立てこもり事件』
話し合いが終わり、全員がしばらく黙り込んでいた。
美沙がふと首をかしげる。
「……あれ?正人くんとカッピー、さっきまでここにいたよね?」
信吾と小林が顔を見合わせる。
「確かに。カッピーの部屋で一緒に遊んでたはずだけど……」
信吾が言う。
そのとき――
いさむんの表情が、わずかに曇った。
(……まさか。さっきの会話、聞かれてた……?)
嫌な予感が胸を締めつける。
「ちょっと見てくる」
信吾が立ち上がり、部屋の奥へ向かった。
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だが次の瞬間――
バタン!
トイレのドアが勢いよく閉まる音が響いた。
「えっ!?」
美沙が驚く。
「今の……」
信吾が急いでトイレへ駆け寄る。
ドアノブを回す――しかし。
ガチャ……ッ。
「ダメだ……鍵、かかってる!?」
信吾は焦りを隠せず、何度もドアノブを試した。
「正人くん!? カッピーも一緒なの!?」
美沙が青ざめる。
その直後、ドアの向こうから震え声が響いた。
「だ、だめっ!! 絶対開けちゃダメ!!」
確かに正人の声だった。
いつもの張りのある声じゃない。涙を含んだ必死の声。
「正人、どうしたの?」
信吾が優しく声をかける。
「開けたら……いなくなっちゃうんでしょ……!
カッピー、帰っちゃうんでしょ!?
いやだ!! 絶対いやだ!!
僕、ずっと一緒にいたいの!!」
泣き叫ぶ声が、閉ざされた扉を震わせる。
信吾の胸に、鋭い痛みが走った。
美沙は手を口元に当て、涙を堪えている。
小林が眉をひそめ、いさむんは目を閉じて苦しげに息を吐いた。
(やっぱり……聞こえてたんだ)
そのとき――
インターフォンが鳴った。
美沙が慌てて玄関に向かうと、ドアの向こうには雅が立っていた。
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美沙がドアを開けた瞬間、雅は家の中の張りつめた空気を察し、胸騒ぎを覚えた。
「正人を迎えに来たんですけど……あれ? なんだか慌ただしくないですか?」
雅は部屋の中の状況を確かめるように言う
「ま、正人くんが……カッピーと……トイレに……閉じこもっちゃって……!」
その言葉だけで、雅の顔から血の気が引いた。
靴を脱ぎ捨てる勢いで家の中へ駆けこむ。
雅は状況を一望し、蒼白になった。
「正人が……どうしたの……?」
美沙が早口で説明する。
「その……カッピーの仲間の冬眠が覚めたかもしれなくて……
それで……カッピーを……元の住処に返さなきゃいけないって話をしてたら……
それを聞いたみたいで……」
「正人が……そんな……」
雅の顔が一瞬で不安に染まる。
雅は震える声でトイレのドアに近づき、優しく叩いた。
「正人。お母さんだよ。……ねぇ、話しをしない?」
「やだぁ!!」
正人が泣き叫ぶ。
「カッピーは、ここにいたほうが幸せなんだよ!!
ぼくと冒険するし! 一緒に寝るし!
……ぼく、カッピーとずっと一緒がいいんだ!!」
ドアの向こうで、カッピーが不安そうに「クゥ……」と鳴いた。
美沙の心が締めつけられる。
信吾は胸の奥がきしむように痛んだ。
(僕達だって辛いんだ……そうだよな。正人くんが平気なわけないよ)
信吾は深く息を吸い、ドアの前にしゃがむ。
「正人くん」
静かで、真っすぐな声。
「正人くんにもお母さんがいるように――
カッピーにも“お母さん”がいるんだ」
正人のすすり泣きが少しだけ小さくなる。
「カッピーのお母さんはね……
ずっと、ずっと探してるんだよ。
毎日、毎日……
会いたくて、会いたくて……
泣きながら探してるかもしれない」
さらに信吾は、正人の想いを否定しないようにゆっくり続ける。
「正人くんがカッピーを大切に思ってくれてることは、ちゃんと伝わってるよ。
でもね……“帰したくない”って気持ちが強いほど、
本当は正人くんがカッピーの幸せを一番考えてあげられる人なんじゃないかな?」
トイレの中から、正人のかすれた声。
「……そんなの……わかってるよ……
でも……でも……」
「正人」
雅が震えながら言う。
「あなたが寂しいのも、お母さん知ってるよ。
でもね……カッピーのお母さんだって、同じ気持ちだよ」
正人は声を震わせながら叫ぶ。
「わかってるけど!!
でも……ぼく……ぼくは……
強くなんてなれないんだよ!!!」
その瞬間、トイレの中から「クゥ……」と心配そうなカッピーの声がした。
沈黙が落ちる。
信吾は静かに届けた。
「正人くん」
ゆっくり、心の奥まで届く声で。
「強くなんてならなくていいよ。
でもね――“強くない”ってことは、
自分より誰かの幸せを先に考えられるってことなんじゃないかな」
ドアの向こうで、正人の息が止まる。
「正人くんは、
カッピーがいなくなるのが怖いのに……
それでも“カッピーの幸せ”を悩んでくれてる。
そんな子、他にいないよ」
「優しいってね、別に“我慢すること”じゃないんだ。
“誰かをちゃんと思えること”なんだよ。
そしてそれは……強さより、ずっとすごいことなんだ」
内側で、小さなすすり泣きが聞こえる。
「……僕が……優しい……?」
か細い声。
「うん。
優しいからこそ、カッピーの未来を考えられるんだ。
優しいからこそ、お母さんだって正人くんを誇りに思うんだよ」
雅も美沙は涙をこらえきれなかった。
「正人……」
雅が呼ぶ声は震えていた。
少しの沈黙――
カチャ……
鍵が外れた。
ゆっくり、ゆっくりドアが開く。
「まさと……!」
雅が正人を抱きしめた。
「お母さん……っ……」
正人がしがみつく。
美沙はカッピーをそっと抱き上げた。
カッピーは心配していたのか、いつもより少しだけ静かに「クゥ……」と鳴いた。
正人は涙を拭いて、カッピーに向き合う。
「……カッピー……
お母さんのところ、帰ろうね……
僕……優しくなるから……」
一同の目が潤む。
雅と美沙は涙でもう前が見えていなかった。
いさむんも、小林も、目をそらして鼻をすすっている。
ただ、信吾だけは正人に向かって“優しく微笑みかけた”
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――こうして、
小さな少年は“強さ”ではなく“優しさ”で、
大人たちが越えられなかった痛みを、静かに受け止めた。
その涙の先にあったのは、
確かにひとつの成長の光だった。




