第55話 『えっ、いきなり過ぎませんか?』
第55話 『えっ、いきなり過ぎませんか?』
「冬眠から覚めてるかもしれないって本当ですか?」
スマホを耳に当てた信吾の歩みが、わずかに止まった。 息が白くならないほど暖かい冬の夕方、その声だけが妙に冷たく響いた。
『それはまだ分かりませんが、今、そちらに向かっております。合流することは可能でしょうか?』
「分かりました。ぼく達も戻ります」
通話を切った瞬間、小林が眉をひそめる。
「冬眠から覚めた?それってまさか?」
「まだ分かりません。でも…小林さん、ぼくの家に向かいましょう。いさむんとはそこで合流する予定です」
信吾は歩調を速めた。
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部屋では、美沙がソワソワと落ち着かない様子で二人の帰りを待っていた。
隣の部屋では、カッピーと正人が散らかったおもちゃの中で夢中になって遊んでおり、二人の存在がそこにあることさえ忘れそうになるほど自然な、穏やかな気配だけが漂っていた。
だが、笑い声が時折漏れ、その明るさが部屋の緊張をほんの少しだけ薄めていた。
ガチャッ。
扉が開き、信吾、小林、そしていさむんがほぼ同時に玄関に入ってくる。
「おかえりなさい。森田さんの件どうだった?あれっ、何でいさむんがここにいるの?」
美沙が驚きつつも出迎える。
「ちょっと帰る途中にいさむんから連絡があってね。ちょうど下で合流したんだ。森田さんの件は後で話すよ」
信吾は靴を脱ぎながら、どこか慌ただしい声色で答えた。
美沙はその空気の異変を一瞬で察した。 「どうしたの?何かあったの?」
いさむんが小さく頷き、真剣な表情で口を開く。
「ことは一刻を争うかもしれません。お時間を頂けますか?」
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四人はリビングに集まり、硬い空気の中で向かい合って座った。
「突然、申し訳ありません。まず、結論からお伝えします。……カッピーの仲間は、もう冬眠から覚めている可能性があります」
その言葉が落ちた瞬間、美沙の表情が強張る。
「えっ、そんな…でも、何でそんなことが分かるんですか?」
いさむんは深く息を吐き、静かに続けた。 「以前にもカッピーの仲間は眠り沼にいる可能性があるとお話してましたよね。実は森田さんから私に連絡が来ていたんです。 今年の冬の気候を考えると、カッパが冬眠から覚める時期が早まってもおかしくない。すぐに調査をしてほしい、と」
「今日、森田さんに会った時はそんなこと一言も言ってなかったのに……」
信吾は握りしめた手を少し震わせた。
「おそらく信吾さん達にこれ以上迷惑をかけられないと思ったのでしょう。それで今日、眠り沼に入って調査をしたんです。
そうしたら、以前に私が調査した時のデータや森田さんからいただいた写真・映像とは大きく変わっていました」
信吾と美沙が不安げにあいづちを打つ。
「具体的には、食べ物の残り方が明らかに新しい。新しい糞もありました。そして――」
いさむんの言葉が区切られる。
「それに?」 信吾が促した。
「……これは私の感覚の話ですが、眠り沼の空気が変わっていたように感じました」
いさむんの言葉に重い沈黙が落ちる。
その空気を割るように、信吾が口を開く。
「確かに、この暖かさですし、カッピーの仲間が冬眠から覚めている可能性はありますよね。 でも…いさむんは実際にカッピーの仲間を見たわけじゃないし、今の話だけではまだ何とも言えないと思います。それに、カッピーの住処が眠り沼だって、完全に決まったわけでもないし」
「おっしゃる通りです。ですが――ことは一刻を争います。
だから、明日には我々とカッピーで眠り沼に向かい、冬眠が覚めていると判断できれば、カッピーを自然に帰す必要があります」
信吾、美沙、小林が同時に目を見開いた。
「えっ、いきなり過ぎませんか?
そんな今日の明日で動かなくても……まだまだ分からないことも多いですし、もう一度、しっかりした調査をした後でも……」
信吾の声には焦りと不安が混じっていた。
「信吾さん、お気持ちは分かります。私ももっと前から眠り沼を調べておけばよかったと後悔しています。
ただ、もし眠り沼が住処なら……カッピーの仲間、特に母親は、今もずっとカッピーを探しているはずです。母親がカッピーを探す過程で仮に悪意のある人間に見つかってしまえば大騒ぎになってしまう。
それこそ森田さんがあれほどのことをして道を作ってくれた努力を無駄にしてしまうことになる。」
いさむんは冷静に伝えた。
「……確かに言ってることは分かります。……でも……」
信吾は言葉を探しながら視線を彷徨わせた。
胸の奥がざわざわと波立ち、心の中に積もっていた不安が音を立てて崩れかける。
テーブルの上で握った拳が小さく震え、何かを言おうとしては飲み込み、また言おうとしては飲み込む。
答えの出ない苦しさが、静まり返ったリビングにじわりと広がっていく。
空気が重く沈む中、その空気を切り裂くように、美沙がゆっくりと口を開いた。 「でも……カッピーだって、母親や仲間に会いたいと思う」
その言葉に、信吾はハッと目を見開いた。
胸の奥で、ぐしゃりと感情が潰れるような音がした。
(寂しい。悲しい。別れたくない。
でも、カッピーのことを考えるなら……。
早く、仲間の元に帰してあげるべきなのかもしれない。)
信吾は深く息を吸い、柔らかく笑った。 「そうですね。カッピーにだって立派な家族がいますよね。
それに……ぼく達が悲しい顔してたら、カッピーも心配しちゃいますよね。だから、ちゃんと送り出してあげましょう」
その笑顔に、美沙も小林も胸の奥が熱くなる。
「信吾さん、美沙さん……ありがとうございます。ですが、時間は無いと思います。 なので、人目が少ない明日の早朝に眠り沼に行きましょう。桜小路さんには私から連絡しておきます」
いさむんは静かに頭を下げた。
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――こうして、明日という“突然の別れ”へ向けた決断がリビングで下された。
その場を満たしていたのは安堵でも興奮でもなく、
それぞれが胸の奥に抱えたまま揺れる“覚悟”と“ためらい”の入り混じった、静かな重さだった。
誰もが言葉を失い、ただ時間だけがゆっくりと進んでいく。
だが、信吾達は気付いていなかった。
大人が必死で出した結論の意味を――
奥の部屋の隅で遊んでいた、
まだ何も理解できるはずのない、
純粋な少年が聞いていたことを……。




