第54話 『これから、そしてここから』
第54話 『これから、そしてここから』
森田劇場から、もうすぐ二週間が経つ。 まだ二月の中旬だというのに、季節外れのぬるい風が街を撫でていた。
冬の名残を消し去るように、空気はどこか春の手前のように軽い。
「最近、ずっと暑いですよね……」
ホテルのロビーへ向かうエレベーターの中で、信吾がぽつりとつぶやいた。
「ええ。本当に二月かって疑いたくなるくらいです。」 小林がネクタイをゆるめ、汗ばむ首筋を軽く拭った。
二人が向かっているのは、勾留が解かれた森田が“身を隠している”と聞いたビジネスホテルの一室だ。
過熱した報道と政治騒動の渦に巻き込まれ、彼は数日間、誰にも会わず静かに過ごしたという。
ドアをノックすると、少し間を置いて、静かな声が返ってきた。
「……どうぞ。」
扉が開いた瞬間、信吾の顔が曇った。
「……お久しぶりです。森田さん……痩せましたね。」
その言葉に、森田は小さく微笑んだ。 無理に作った笑みではあるが、それでもどこか安心した色が宿っている。
「まあ……いろいろありましたしね。でも、来てくれて嬉しいです。
正直、人と会うのが少し怖かったので……こうしてお二人の顔を見に来てくれたのは、本当に救われます。」
森田はか細い声で言った。
簡素な部屋の中には、テレビが無音でニュース映像を流している。
高城議員の雲隠れ、開発計画の混乱、政権への影響……。 そのどれもが、さらに森田を追い詰めている現実だった。
「本当に……これで良かったんですかね。僕はまだ悩んでいます。」
小林がゆっくりと言った。 その声には、記者としてではなく、一人の人間としての迷いが滲んでいる。
森田はしばらく黙り、少し目を伏せた。
「僕も……ずっと悩んでますよ。これで良かったのか。
中には僕のこともヒーロー扱いする声も耳には入っています。でも……」
机の角に視線を落とし、両手を握りしめる。指先がわずかに震えていた。
「団体や実家への嫌がらせも来ていると聞きます。
それに、連日、僕にも団体にも実家にも過度な取材も続いていますし。ここにだっていつまで滞在できるかは分からないですし……。 」
森田の目が曇る。
「でも……止めなければいけなかったんです。あの計画だけは。僕の手で。僕が黙っていたら……誰かが傷つく未来が確実に来る。それだけは、どうしても許せなかったんです。」
森田はより強く拳を握りしめた。
しばらくの静寂の後、小林が姿勢を正し、静かに告げた。
「先ほど、正式に発表がありました。
川辺地区の開発計画――白紙になりました。」
信吾は森田を見つめ、ようやく柔らかい笑顔を見せた。
「良かった。森田さんのおかげですよ。」
「いえ……あの、皆さんの頑張りの最後に、僕が“付け足し”をしただけです。」
森田は苦笑しながらも、どこかほっとしたように息を吐いた。
そして小林が、真剣な目で問いかけた。
「森田さん……これからどうするつもりですか?」
短い沈黙のあと、森田は静かに言った。
「悩みましたが……やっぱり僕が知っていることをすべてを話そうと思っています。
ただ、今は直接会見を開くのではなく……
――小林さんに、記事にしてほしいんです。」
「……僕に?」
小林は驚き、目を見開いた。
「いえ……無理ですよ。僕なんかじゃ――」
「責任が重すぎますよ。僕なんかが書いていい話じゃ……ない気がします。」
「違います。」
森田は首を振った。
その目に迷いはなかった。
「今回の件は、小林さんがいたからこそ動けたんです。支えられ、導かれた。だから……あなたの言葉で伝えてほしい。」
信吾もそっと背中を押すように頷いた。
「小林さん、お願いします。森田さんの思いを……全部、伝えてください。」
小林はしばらく俯き、胸に手を当てるように息を整えた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……分かりました。書きます。
僕の言葉で、森田さんのすべてを。」
――後に「森田の告白」と題されたその告白記事は、地方紙としては異例の売り上げを記録することになる。
そして小林拓也という名前は、業界に広く響き渡ることになる。
そして、その先で彼を待っている変化は……それはまた別の話。
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ホテルを出た二人は、夕陽の差し込む歩道を並んで歩いていた。
本来なら喜ぶべきはずだ。
計画は白紙。
カッピーの住処は守られた。
しかし、信吾の表情はどこか晴れなかった。
「信吾さん。」
小林が穏やかに声をかける。
「森田さんも、前に進もうとしてるんです。
僕たちも……彼の気持ちを汲んであげましょう。」
「……はい。そうですね……僕も、切り替えなきゃいけませんね。」
その瞬間、スマホが震えた。 画面には「いさむん」の名前。
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「何だろう……」
信吾が不思議そうにスマホを耳に当てた。
「いさむん?今、森田さんに会ってきましたよ。」
電話口の向こうから聞こえた声は、いつもの落ち着いた調子ではなかった。
強い風の音が混じり、どこか急いでいるようだった。
『そうなんですね……それは後で聞きます。
信吾さん、今、眠り沼を見てきたんですが……ちょっと、違和感があるんです。』
いさむんの声に、思わず信吾は歩みを止めた。
「違和感……って、何ですか?」
『うまく言えないんですが……湖面の水温が高いんです。
普通なら、まだ凍るほど冷たいはずなのに……春の手前みたいに温かい。
それに、水底から……気泡が上がってきてました。』
「気泡……?」
『はい。それだけなら自然現象で済むかもしれないんですけど……』
少し間があった。何かを躊躇うような沈黙。
『……最近ずっと暑いですよね。
もしかしたら、もうカッパ達が――冬眠から覚めているかもしれないです。』
その言葉は、信吾の胸の奥をざわつかせた。
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――季節外れの暖かさは、ただの気候の変化ではないのかもしれない。
高城との戦いがひとつの区切りを迎えたその同じ頃、
静かに眠っていた水辺の世界は、確かにその目を開こうとしていた。
人の社会と、カッパ達の世界。
ふたつの流れが、ゆっくりと、しかし確実に交わり始めている。
信吾達が胸に抱えた小さなざわめきは、やがて大きな波となり――
物語は、いよいよクライマックスへと向かっていく。




