第53話 『久方さんの告白とカッピーの笑顔 後編』
第53話 『久方さんの告白とカッピーの笑顔 後編』
「えっ……」 信吾は動揺する。
「美沙さん、行っちゃいましたね」
久方さんが静かに言う。
部屋には微妙な沈黙が落ちた。
信吾は何度か話そうとしては口を閉じ、そのまま数十秒が流れる。
ようやく信吾が言葉を切り出そうとした瞬間、意外にも久方さんが口を開いた。
「信吾さん、一年前と全然変わってなくて……何か安心しました」
「えっ、そうかなぁ。良いのか悪いのか分からないけどね」
信吾は後頭部をかきながら照れ笑いを浮かべた。どこか落ち着かない様子で視線を泳がせつつも、久方さんの言葉が嬉しいのを隠しきれていなかった。
その言葉に、自然と場の空気がほぐれた。
「私は、一年前と比べたら……自分でも明るくなったと思うんです。それも全部、信吾さんのおかげかなって」
久方さんは膝の上で手をそっと重ね、照れくさそうに微笑んだ。ためらいがちに言葉を選びながらも、その声はどこか温かかった。
「えっ?ぼく?いや〜照れるなぁ。ぼくは何もしてないよ。多分、久方さんが自分で変わろうとしてたから、そう言えるんだよ」
信吾は両手を振って否定しつつも、口元がほころんでしまうのを抑えられなかった。
「ありがとうございます。でも……今でも思い出すんです。
当時、守護者のこととか将来のこととか、悩みすぎて、信吾さんに酷いこといっぱい言ったなって。
でも、あの時、照らしてくれたのは間違い無く信吾さんでしたよ」
久方さんは、小さな声で自分を責めるように呟いた。その瞳には、あの頃の不安や葛藤が一瞬だけよぎる。
「別に、ぼくは全然気にしてないよ。
ただ……あの時はさ、ゴンちゃんと一緒にいるのが当たり前だと思ってて……居なくなるなんて、想像もしてなかった。
だから、久方さんに“ここはあなた達が考えているやさしい世界じゃないんです”って言われた時は……
一気に現実に引き戻された感じがしたんだ」
信吾は遠くを見るように目を細め、まるで当時の景色を思い出すようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ですよね。もう少し言い方あったと思いますよね」
二人は少し照れたように笑い、穏やかな時間が流れる。
そして。
信吾は、意を決した。
「久方さん……ぼく、久方さんのことが――」
その時だった。
ガタン!!
カッピー用の部屋から、桶がひっくり返る音。
「えっ!?大変!」「どうした?カッピー大丈夫!?」
慌てて駆けつける二人。床を見ると水浸しになっていた。
桶は本来は固定をしているが、どうやら……信吾が掃除の時に、固定するのを忘れたのが原因だったようだ。
信吾は慌てながら雑巾を取りに走り、久方さんはカッピーに怪我がないか必死で確認する。
カッピーは自分が倒したことなど忘れたように、ケロッと「クゥ」と鳴いた。
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なんとか片付けを終え、二人はバタバタしながら再びテーブルへ戻った。
「さっきは大変でしたね。信吾さん、さっき……何か言おうとしてました?」
久方さんは首をかしげ、心配そうに信吾の顔を覗き込んだ。声はやわらかいが、どこか期待を含んでいた。
「えっ……そうだったっけ? あはは……忘れちゃったなぁ」
信吾はわざとらしく笑い、手をひらひらと振って誤魔化したが、耳まで赤くなっていた。
「そうですか……じゃあ、私から信吾さんにお伝えしたいことがあるんです」
久方さんは少し深呼吸し、気持ちを整えるように姿勢を正した。
「お伝えしたいこと?」
信吾は自然と背筋を伸ばし、真剣な表情になる。
「はい。私、この四月から大学を休学して――
一年間、カナダにアニマルセラピーの留学に行くことにしたんです」
久方さんは静かに、しかし強い決意を宿した目で話した。
「へぇ~、そうなんだ。……えっ、留学? カナダ!?」
想像以上の情報に、信吾は目を丸くする。
「はい。アメリカも考えたんですけど……カナダはメンタルヘルス対策がすごく進んでいて。
でも、四月に行っても語学とか手続きとか準備が必要なので、本格的な勉強は少し後になりますけどね」
久方さんは少し小さく微笑んで言った。
信吾は、混乱しつつもなんとか状況を整理しようと、落ち着いた声を保ちながら質問した。
「そうなんだ……赤荻さんとか翡翠さんは、反対しなかった?」
信吾は心配そうに眉を寄せながら聞いた。
「しましたよ。特におじいちゃんは“危ない!”って反対してましたけど……
でも、おばあちゃんが“せっかく本人が決めたことを、自分が寂しいからって反対するな”っておじいちゃんに喝を入れてくれて。
それに、将来的には守護者のことにも繋がるかもしれないって、背中を押してくれたんです」
久方さんはその時の様子を思い出したのか、少し照れたように笑った。
「そっか……」
信吾の声はどこか歯切れが悪い。
久方さんは続けた。
「……あと。これはおばあちゃんの言葉とは別で。
留学を決めたのも、信吾さんの存在がすごく大きいんです」
「ぼくが?」
「はい。
私、あの時、ゴンちゃんとも他の子とも、“守護者”だから接してる気持ちが強かったんです。
もちろん愛情はあるけれど……仕事みたいな感じで。
でも、信吾さんとゴンちゃんを見ていたら……
“家族”ってこういうことなんだって思えて。
誰かが誰かを笑顔にして、守って、一緒に成長して……。
それにカッピーとだって、もうゴンちゃんと同じで“家族”になってる。
だから私も、生き物と触れ合うことで、誰かを笑顔にできる人になりたい。
そう思ってアニマルセラピーの勉強をしているんですけど、その近道が、留学だと思ったんです」
久方さんは胸に手を置き、まっすぐ信吾を見つめた。その瞳には迷いがなく、未来を見つめる強さが宿っていた。
その時、美沙が戻ってきた。
「ただいま。ごめん、電話が長引いちゃって」
「おかえりなさい。じゃあ……私はカッピーと遊んできますね」
久方さんはそう言ってカッピーの元へ向かう。
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リビングには、美沙が戻ってきたことで再び柔らかな空気が満ちていた。
カッピーが弾むように「クゥ」と鳴き、久方さんが笑い声を漏らす。
その様子に、美沙は少しだけ安心したように息を吐き、美沙が信吾に近づき、小声で聞いた。
「ねぇ、久方さんから留学のこと、聞いた?」
「知ってたの?留学のこと」
信吾は驚いて目を丸くし、美沙へ身を乗り出した。
「うん、まあね。久方さんが“信吾には直接言いたい”って言ってたから。
で……気持ちは伝えられた?」
美沙は腕を組み、少し意地悪そうに笑いながらも、その瞳には心配が滲んでいた。
「……ううん。ぼくからは何も言わなかったよ」
信吾は小さく首を振り、視線を落とした。
「何で? 留学に行ったら、最低でも一年は会えないんだよ。
今言わなかったら、本当にもうチャンス無いかもしれないのに」
美沙は声を潜めながらも、思わず語気を強めてしまう。
「うん、分かってるよ。
確かに今、言わなかったらもうチャンスは無いかもしれない。
でも……夢に向かって前に進んでる久方さんに、ぼくのことなんて考えてほしくないんだ」
信吾は、晴れやかな笑顔で言った。
「……まぁ、アンタがそれで良いなら、良いけどさ」
美沙は肩をすくめながらも、少し寂しげに答える。ただ、信吾の決意を感じ、その表情は優しかった。
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久方さんとカッピーが楽しそうにじゃれ合っている。
カッピーは桶の縁に足をかけ、嬉しそうに水しぶきを跳ね上げている。
久方さんはスカートの裾が濡れるのも気にせず、手を水に浸しながら「ほら、こっちだよ」と優しく声をかけた。
カッピーはその指先を追いかけて「クゥ」と無邪気に鳴き、まるで何度会ったことがある友人のように体を揺らして喜んでいる。
久方さんの笑顔は、以前よりずっと柔らかく、明るい光を帯びていた。
その光景はまるで、小さな幸せが形になって跳ね回っているかのようだった。
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かつて――
“ここはあなた達が考えているやさしい世界じゃないんです”
そう言い放った女性。
その彼女が今、
“誰かのやさしい世界を作るため”に、未来へと歩き出そうとしている。
信吾は、その久方さんの背中を見ながら静かに思った。
確かにあのまま気持ちを伝えていれば、状況は変わっていたかもしれない。だが、
――次の一歩を踏み出そうとしている彼女には新しい世界を進んで欲しい。それが一番いいことなのだと。




