第4話『カッピーと桜小路さん』
第4話『カッピーと桜小路さん』
翌朝、冷たい空気が窓の隙間から差し込むマンションの一室。
信吾はまだ眠そうに目をこすりながら、リビングのソファに腰を下ろした。美沙は台所で小さな湯気を立てるコーヒーを準備している。
「信吾、早く! 桜小路さんがもう来るよ」
美沙の声に、信吾は慌てて立ち上がった。寝癖のついた髪をぐしゃぐしゃに撫でつけ、鏡も見ずにジャケットを羽織る。
その時、玄関のチャイムが鳴る。扉を開けると、上質なコートに身を包み、気品あふれる雰囲気をまとったマダムが立っていた。
「おはようございます。桜小路です。朝からごめんなさいね。今日は少しお邪魔します」
その声は柔らかく、しかし芯のある確かな響きを持っていた。
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桜小路さん
かつて外交関係や芸術支援に携わっていたとも言われる、品格あふれるマダム。
西洋のお城のような大きな屋敷に住んでいたが、サモエドのルネの為に現在は豪華な別邸に住んでいる。
生物愛に溢れ、信吾と美沙の為に様々な支援をしてくれる頼もしい存在。
物事を見極める目は確かで、好奇心よりも信頼を重んじるタイプ。
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「おはようございます……! いえ、こちらこそ、突然で恐縮です」
信吾は深く頭を下げ、桜小路さんを招き入れる。
浴室の浴槽には、昨日の夜から変わらずカッピーがぷかぷか浮かんでいた。水面からは微かな光が漏れ、静かな波紋を描いている。
「……なるほど、これが噂のカッパですね」
桜小路さんは静かに目を細め、姿勢を正してしばらく見つめる。やがてふっと口元をやわらかく緩めた。
「可愛いわ。まだ純粋で、守ってあげたくなるわ」
信吾が少し照れくさそうに口を開く。
「この子……カッピーって呼んでるんです」
「あらっ、あなたらしい、いい名前ね」
桜小路さんは優しい眼差しでカッピーを見つめ、うなずいた。
美沙は嬉しそうに頷き、信吾は少し恥ずかしそうに肩をすくめる。
その時、カッピーが目を覚まし、ふにゃりとあくびをした。
「クゥルル……」
小さな声に、桜小路さんも思わず顔をほころばせる。
「わぁ……本当にまだ小さくて、可愛い……」
美沙が駆け寄り、カッピーの頭を撫でる。信吾はその後ろで、呆れ混じりのため息をついた。
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「……ただ、信吾さん、美沙さん。これからは少し大変かもしれませんね」
桜小路さんは真剣な眼差しを信吾達へ向けた。
「でもね、“大変だからやめる”ものじゃありません。大事なのは理解して、受け入れることなんです。相手が安心できるように寄り添うことが、いちばんの力になるんですよ」
信吾はその言葉を胸の中で繰り返し、しばし沈黙する。
桜小路さんは頷き、優雅に背筋を伸ばした。
「そうです。信吾さんや美沙さんのように、相手を尊重し、見守れる存在が必要なのです」
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カッピーは水面で小さな手をぱちゃぱちゃさせ、信吾の膝に乗ろうと身を乗り出す。
「こらこら、まだ小さいのに元気だな……」
信吾が苦笑すると、美沙が「ほら、可愛いでしょ」と得意げに笑った。
ふと信吾が気づいたように問いかける。
「そういえば……今日はルネはいないんですか?」
桜小路さんは微笑みを浮かべて首を横に振る。
「ええ、連れてこなかったの。まだ小さなカッピーには大きすぎて、きっと怖がってしまうでしょうから」
その配慮に、美沙は「なるほど……」と目を輝かせ、信吾も「さすがですね」と感心して頷いた。
桜小路さんは二人を見つめ、少し柔らかい表情を浮かべる。
「信吾さん、美沙さん……ゴンちゃんとの別れもあったでしょう。寂しさは簡単に埋まらないものです。でも、こうして新しい命がやってきた。それはおそらく偶然ではなく、あなた方を選んだ未来なのだと思いますよ」
信吾は言葉に詰まり、ただ小さく頷くしかなかった。
「……はい。ありがとうございます」
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「そして、カッピーを守るためには――」
桜小路さんはリビングをゆっくり見渡し、続ける。
「環境を整え、成長を見守ること。そして何より、あなた方自身が楽しむこと。楽しむ姿を見せることで、カッピーも安心して育っていきます」
美沙がにっこり笑って信吾を見ながら言う。
「そうだよね……心配ばかりしてたら、カッピーも不安になっちゃうよね」
桜小路さんは深く息を吐き、穏やかに笑った。
「ええ。その調子で頑張ってくださいね。大丈夫、お二人ならきっとやっていけます」
そう言うと、バッグから上品な名刺入れを取り出し、一枚の名刺を差し出した。
「それから――私の知人でもある方を紹介します。伊東 勇さん。カッパのことや、この辺りの生態系にも詳しくてとても頼りになる方ですよ」
信吾が受け取り、名刺に目を落とす。
「伊東……勇さん」
桜小路さんは小さくうなずく。
「午後にはこちらに来てくださる手筈を整えました。残念ながら私は同席できませんが、安心して任せて大丈夫な方です」
美沙は驚いたように目を見開き、信吾も思わず声を上げる。
「えっ、わざわざ来てくださるんですか? ぼくらのほうから伺えばいいのに……」
桜小路さんは柔らかく笑い、首を振った。
「いいえ。どうやら彼のほうが、あなた方とカッピーに会いたいそうなのです」
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窓の外、冬の光が差し込むリビングで、信吾たちは少しずつ、新しい日常の幕開けを感じていた。
カッピーの小さな体が水面で光を反射し、まるで希望のように揺れている。
そして、これから始まる騒がしくも温かな日々の予感が、静かに部屋を満たしていった。




