第40話 『森田の決断』
第40話 『森田の決断』
夕方から夜へと移ろう空が、ゆっくりと街を包み込んでいた。
外は粉雪が舞い、静まり返った住宅街を街灯の光だけが照らしている。
玄関先で対峙した森田の表情に、信吾は言葉を失っていた。
その目には、何かを決めた人間の光が宿っている。
覚悟と、痛みと、長い時間を抱えた沈黙の色。
「外は……とりあえず中に入ってください。話はそれからです。」
信吾は動揺を隠しきれないまま、そう促した。
森田は一度だけ小さく頷いた。
「……分かりました。ありがとうございます。」
冷えた夜気とともに森田が部屋に入ると、暖房の温もりが一瞬、張り詰めた空気をやわらげた。
リビングでは美沙と新聞記者の小林が心配そうに立ち上がる。
「森田さん……どうしたんですか? そんな顔して。」
美沙の声には不安が滲んでいた。
森田は小林に気づくと、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
「小林さんもいらっしゃるんですね。……ちょうど良かった。あなたにも声をかけようと思っていました。」
小林が目を丸くする。
「僕に……?」
森田はそれ以上何も言わず、ゆっくりとテーブルの前に腰を下ろした。
信吾たちもそれに倣い、四人が湯気の立つ湯呑みを前に向き合った。
だが、その温かさとは裏腹に、空気は重たく冷たかった。
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「それにしても森田さん……どうしてここへ? 表情も暗いし。何が何だか全然分からないです。」
信吾が慎重に切り出す。
森田は少し俯いたまま、両手を組み合わせた。
そして静かに言った。
「……僕は、あなた達を裏切ってしまった。」
その言葉に、部屋の空気が止まった。
美沙が思わず息を呑む。
「裏切った……って、どういう意味ですか?」
森田は唇を噛み締め、しばらく沈黙したあと、震える声で話し始めた。
「……数年前のことです。僕の団体で、横領がありました。
当時右腕だった職員が、活動資金を個人的に流用していたんです。」
静かな口調の中に、苦しさが滲んでいた。
「発覚したとき、僕は彼をすぐに辞めさせました。でも、世間には公表出来なかった。
一度でも不正を出した団体には、国の補助金は下りにくくなる。……今までみたいな活動は続けられない。
そのとき――“助け舟”を出してきたのが、高城議員でした。」
小林が眉を寄せた。
「えっ……それって……揉み消したんですか?」
「ええ。見返りに、“ある約束”を交わしました。
“彼のすることに反対しない”という、簡単な約束です。」
森田は淡々と話していたが、その指先は震えていた。
「僕は……あの時、我が身が可愛かったんです。仲間を守るためだと自分に言い訳して……何も言わなかった。」
美沙が小さく首を振った。
「でも森田さんは、元々は被害者じゃないですか。今からでも正直に話せば――」
森田は悲しげに微笑んだ。
「いや、もう遅いですよ。
確かにあの時、僕が正直に話していればもっと状況は違っていたかもしれない……
それに、こんな形であなた達を巻き込むことはなかった。」
湯呑みの中の茶が、わずかに揺れる。
ストーブの音だけが、やけに響いた。
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「じゃあ……なんで、あの時カッピーを助けてくれたんですか?
一緒に“眠り沼”まで調査に行ってくれたのは……あれも、全部演技だったんですか?」
信吾の声には、怒りよりも悲しみが混じっていた。
森田は首を横に振った。
「違います。……あれは本心です。
もちろん、高城に命令されたわけじゃない。あの時、あなた達の行動に胸を打たれた。
“守りたい”という気持ちは、僕の中にも確かにあった。けれど、どこかで自分に嘘をついていたんです。
“どうせ何も変わらない”――そんな風に勝手に諦めてしまった。」
彼の目の奥に、深い後悔の色が宿っていた。
「でも、もうこれ以上、自分に嘘はつけない。
このまま沈黙を続ければ、あの時の僕と同じように……また何かを失う気がして。」
美沙が静かに問いかける。
「それで、ここに来たんですね。」
森田はゆっくり頷いた。
「ええ。本当は……もっと早く決断するべきだった。でも、今日やっと決めたんです。
――高城のことを、公に話します。」
信吾と美沙と小林が息を呑む。
「危険ですよ。」
小林が即座に言う。
「そんなことをしたら、あなた自身が標的にされる。」
「分かっています。」
森田は静かに目を閉じた。
「けれど、あの人はもう一線を越えている。
それに……僕はもう、立派な罪人なんですよ。
高城は嘆願書に桜小路家の御婦人の署名があることを知って、焦って脅してきた。
“あの件を公表する”と。……僕はもう、これ以上従えない。」
重い沈黙が落ちた。
信吾が深く息を吸い込み、まっすぐ森田を見た。
「分かりました。だったら、ぼくたちも協力します。」
その言葉に、森田の目がわずかに揺れた。
「……いいんですか?」
「はい。最初から、あなたはぼく達の敵なんかじゃなかった。」
信吾の声は穏やかで、まっすぐだった。
美沙も頷く。
「裏切ったんじゃなくて、ずっと戦ってきたんですよね。自分自身と。」
森田は堪えきれず、目を伏せた。
震える手で顔を覆い、静かに息を吐いた。
その背中は、ようやく長い冬を抜け出した人のように見えた。
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――誰もが、過去を抱えて生きている。
誰もが、嘘をつきながら、それでも何かを守ろうとする。
けれど、本当の強さとは、その嘘を手放す勇気なのかもしれない。
森田光は、ようやく決断した。
長く背負ってきた鎖を断ち切るために。
そして、その決断が、静かに新たな嵐を呼び込もうとしていた。




