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第39話 『約束の影』

第39話 『約束の影』



森田もりた ひかる

自然保護活動家で環境保護団体のトップ。熱血で行動派、川や生き物を守る使命感が強い。

カートごと流されたカッピーを飛び込んで助けた恩人でもある。

信吾達とは眠り沼を共に探索し、カッピーの仲間の場所を探した戦友とも言える仲でもある。

純粋に自然と生き物を愛し、誠実な行動で周りからの信頼も厚い。


---


 冬の午後。

 曇り空の下、環境保護団体のオフィスには、重たく湿った空気が流れていた。

 机の上には書類の山、横には冷めたコーヒー。壁に掛けられたカレンダーの日付だけが、やけに鮮やかに浮いて見える。


 森田は椅子にもたれ、右手で額を押さえていた。

 深いしわが刻まれた眉間には、焦りと疲れが入り混じっている。

 机の端に置かれたスマートフォンの画面には、先ほどまで通話していた高城議員の名前が残っていた。


 ――あのことを公表する。

 その言葉が、頭の奥で何度も反響していた。


 部屋のドアが小さくノックされる。

「失礼します。これ頼まれてた資料です。代表、大丈夫ですか? 顔色、悪いですよ……。」

 若い職員の声が、慎重に部屋の空気を揺らした。


 森田はゆっくりと顔を上げ、無理に笑みを作った。

「ああ、大丈夫。心配してくれてありがとう。」


 そう言いながらも、声には力がなかった。

 ペンを握る指先がかすかに震えている。


 職員は戸惑いながらも、森田の机の上に資料を置いた。

「本当に大丈夫ですか? 最近、ほとんど寝てないようでしたし……」


 森田はそれを制するように首を振った。

「うん。少し考えたいだけなんだ。……今日は行くところがあるから、早めに出るよ。戸締まりはお願いね。」


 そう言ってコートを羽織ると、鞄を手に取る。

 部屋を出る前、ドアノブの上に置かれた木製のペン立てに、ちらりと目をやった。

 そこにはあの時、信吾から受け取った嘆願書が机の上に置いてあった。

 ――今の自分には無いもの、あの時、信吾達が放っていた確かな熱が、神々しくも愛おしく感じた。


 だが今、その熱の残り火が、自分の胸の中で苦しく燻っている。


 廊下を歩く足取りは、いつになく重い。

 職員たちは皆、心配そうにその背中を見送った。

 彼らには、森田の中で何が起きているのか知る由もなかった。


 外に出ると、曇り空から雪が舞っていた。冷たい風が頬を撫でる。

 森田はその冷たさを受け止めるように目を閉じ、深く息を吐いた。


 ――守ると誓ったのに。

 川も、命も、そして仲間も。

 その約束を、自分は破るのか。


 胸の奥に刺さった高城の声が、再び蘇る。


 森田はポケットの中で拳を握りしめた。

 白い息が、曇天の下でゆらゆらと溶けていった。



---


 夕方。

 その頃、信吾たちの部屋では、全く違う空気が流れていた。


 カッピーが小林からもらったお気に入りの「きまっりー」のキーホルダーを前足で転がしながら、リビングの上をコロコロと走り回っている。

 鈴の音がころんと鳴るたびに、信吾と美沙の笑い声がこぼれた。


「えっ、小林さんって空手有段者なんですか?」

 信吾が驚いたように聞く。


「はい。高校だけはバレー部だったんですけど、小・中・大学とずっと空手部だったんですよ。」

 小林は頭をかきながら照れくさそうに笑った。


「それにしては頼りないけどね。」

 美沙が、わざとそっけなく言う。


「いや、ほんとそうなんですよ。よく言われるんです。」

 苦笑いする小林。


「でもさ、“能ある鷹は爪を隠す”って言うし。いざってときはカッピーのボディーガードくらいやってくれるんじゃない?」

 信吾が笑いながら言うと、美沙も小さく笑った。


「じゃあ、その時は頼りにしてますよ、黒帯記者さん。」


「やめてくださいよ、その呼び方。」

 小林は顔を真っ赤にして手を振る。

 そんな軽いやり取りが、ささやかな平和を作っていた。


 カッピーはその間も夢中でキーホルダーを追いかけていたが、やがて満足したのか、いつもの桶の中で丸くなり、すうすうと寝息を立て始めた。

 信吾はそっとカッピーが居る部屋の電気を消した。


「今日はたくさん遊んだから眠くなっちゃったのかな。おやすみ」

 信吾がカッピーに優しく言った。


 美沙が照れながら頷く。

「ほんと。……でも、桜小路さんやいさむん、それにアンタが居なかったら、ここまで来られなかったよ。」


 小林は少し照れながら、湯呑みに口をつけた。

「いえいえ。僕は何もしてないですよ。ただの情報役です。皆さんの行動力がなかったら、ここまで嘆願書の署名も集まりませんでしたよ。」


 信吾が穏やかに笑った、そのときだった。


 ――ピンポーン。


 インターフォンの音が、和やかな空気を一瞬で断ち切った。


 美沙が小首をかしげる。

「……誰だろ?」


 信吾がモニターを覗き込み、息を呑んだ。

「あれ……森田さん?何でうちの場所知ってるんだろ?」


 信吾は戸惑いながらも玄関へ向かった。

 ドア越しに見えた森田の顔は、どこかいつもと違っていた。

 疲れ切っているのに、その瞳には奇妙な光が宿っている。


 決意と、迷いと、痛みが混ざったような光。


 信吾がゆっくりとドアを開ける。

 冷たい風とともに、森田の声がかすかに響いた。


「突然お邪魔して申し訳ないです。――少し、話をさせてください。」


 その瞬間、部屋の空気が静かに張り詰めた。

 カッピーも何か不穏な気配を察したのか、桶の中で小さく「クゥ」と鳴いた。


 その声は、まるで“これから何かが動き出す”ことを予感しているかのようだった。



---


 守りたいものがある人ほど、迷う。

 約束を抱えた人ほど、傷つく。

 そして――その痛みの中で、何を選ぶかが試される。


 森田光の瞳の奥には、まだ消えぬ炎があった。

 それが希望の光か、あるいは破滅の炎か。誰にも、まだ分からなかった。



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