第38話 『約束を守る人、破る人』
第38話 『約束を守る人、破る人』
嘆願書を提出してから、数日が経った。
冬の午後、窓の外ではまだ雪が残り、淡い光がリビングに差し込んでいる。
その部屋の中で、信吾、美沙、そして新聞記者の小林が向かい合っていた。
カッピーは床の上で、赤いゴムボールを前足で転がして遊んでいる。
小林が軽くボールを弾くと、カッピーは短い足で一生懸命追いかけ、転がるボールの前で小さく跳ねて「クゥ」と鳴いた。
その無邪気な姿に、信吾がふっと笑う。
「カッピー、もう小林さんにも懐いてるなぁ。」
小林は少し照れたように笑って、肩をすくめた。
「いやー、懐いてるなんてなんか照れますね。これも普段お二人がしっかり愛情を注いでらっしゃるからだと思います。」
その穏やかなやり取りに、美沙が半眼で小林を見た。
「アンタちゃんと仕事してんの? 今日来たのだって、嘆願書の状況を伝えに来たんでしょ?」
小林は慌てて姿勢を正す。
「そ、それはもちろん! ええ、もちろんです!」
信吾が笑いながら、美沙をなだめた。
「まあまあ、もう少し遊んでてもいいんじゃない? せっかくカッピーだって楽しそうだし。」
小林は恐縮したように頭をかきながら、ボールを拾ってテーブルの端に置いた。
「すみません、つい……カッピーの魅力には敵いませんね。」
カッピーは不思議そうに小首をかしげたあと、満足したように小さく息を吐くと、トコトコと風呂場の方へ歩いていく。
その後ろ姿を見送りながら、三人はテーブルについた。
風呂場では、カッピーがぬるま湯の中でぷかりと浮かんでいる。
ときどき足をパタパタと動かし、水面に小さな波紋を広げながら、まるで「ここが一番落ち着く」と言わんばかりの表情をしていた。
リビングでは、湯呑みを前にした静かな打ち合わせが始まる。
「カッピーも満足したみたいだし、そろそろ始めようか。」
信吾が穏やかに言い、資料の束を整えた。
「それにしてもせっかく、いさむんにこの三流記者を紹介しようと思ってたのに来られないのは残念ね。」
美沙が少し意地悪く笑う。
「ははは、まだ“三流記者”って呼んでるんだね。」
信吾が苦笑する。
「仕方ないよ。今回のことでいさむんにはいろいろ動いてもらったから、あっちも本業の仕事が相当溜まってるみたいだし。」
「僕もいさむんさんとはメールでやり取りさせてもらってますが、直接お会いできなくて残念です。」
小林は真面目な表情に戻る。
「でも、今回の件は彼がいなければ実現しなかった。……とりあえず今は、僕らで現状をまとめておきましょう。」
そう言うと、小林は鞄から資料を取り出し、落ち着いた声で切り出した。
「結論から言うと、まだ嘆願書が提出されてから数日なので、正直詳しい状況は分かりません。ただ、皆さんの努力もあって、向こうの想定以上に署名が集まっているのは確かです。かなり驚いていると思います。」
信吾と美沙は顔を見合わせ、ほっとしたように微笑み合った。
「そうか……思ったよりいい反応なんだ。」
信吾が静かに言う。
「はい。それに――嘆願書の中には、あの桜小路家の御婦人の名前もあったと聞いています。
それに高城議員の支援者の名前も何人かあったらしいです。」
「それって、これで計画が中止になったりしないの?」
美沙の声には、かすかな期待が混じっていた。
小林は首を横に振る。
「いや、さすがにこれだけで計画が中止になることはないと思います。」
信吾と美沙の表情に、わずかに落胆の色が浮かぶ。
だが、小林は少し口調を和らげて言葉を続けた。
「でも――高城議員は焦ってるはずですよ。自分の足元から反対の声が上がったわけですし。」
その言葉に、室内の空気がわずかに引き締まる。
ストーブの燃える音が、やけに静かに聞こえた。
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――一方その頃。
高城議員の事務所では、別の空気が流れていた。
重たい沈黙の中、秘書が資料の束を手に立ち尽くしている。
「先生……どうなさいますか?」
おそるおそる声をかける秘書に、高城は机の上の書類を叩きつけた。
「何でこんなことになってるんだ!俺の想定と違うぞ!」
顔を紅潮させ、怒りに震えている。
秘書は冷や汗を流しながら答える。
「ど、どうやらこの話を嗅ぎつけた配信者が取り上げて、話が大きくなっているようです。」
「ああ、そうらしいな。」
高城は椅子にもたれ、吐き捨てるように言った。
「まぁ別に雑魚のことはどうでもいい。どうせ一か月もすれば、誰もこんな田舎のことなんか覚えちゃいない。それに……数は思ったより多いが、まだ俺のギリギリ想定内だ。」
秘書は困ったように俯く。
「ですが……なぜ桜小路家の御婦人の名前があります。桜小路家には、再び支援をお願いできるようにお父上が動いている最中です。あそこと揉めるわけには……」
「分かってる!」
高城は机を拳で叩き、短く怒鳴った。
「どうなさいますか?少し時間を置いてから――」
「そんなこと出来るわけないだろ!」
高城が言葉を被せた。
「もう関係各所には話を通してある。これ以上遅れたらまずい。それに俺が下げたくない頭を何度も下げたんだ。こんなことで足止めを喰らうわけにはいかない!」
秘書は唇を結んだまま、小さくうなずくしかなかった。
「……とりあえずお前は他の支援者をなんとかしろ。俺は桜小路家の御婦人を説得する。」
「……はい。」
力なく答える秘書。
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高城は苛立ったようにスマートフォンを掴み、乱暴に番号を押す。
「おい。ふざけんな。聞いてた話と違うぞ。嘆願書の中心は“よく分からない姉弟と雑魚の記者”だって言ってたよな?
なんで桜小路家の御婦人の名前があるんだ!」
怒りに震える声が、部屋の壁に反響する。
受話口の向こうでは、誰かがしどろもどろに弁解しているようだった。
「うるせぇ。言い訳はいい。なんとかしろ。――出来ないなら、あのことを公表するからな。」
その言葉とともに、電話が切れた。
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――画面の向こう側。
暗い部屋の中で、スマホを握りしめた男がいた。
青ざめた顔、固く噛み締めた唇。
モニターの光が照らすその顔は、絶望に染まった“森田”のものだった。




