第36話『熱男から熱を込めて』
第36話『熱男から熱を込めて』
嘆願書の提出に向けて、信吾たちは慌ただしい日々を送っていた。
そんなある日の夕方、部屋には意外な訪問者が現れる。
風呂場では、カッピーが湯船にぷかぷかと浮かびながらリラックスしていた。
浴室の明かりが柔らかく反射し、湯気がふんわりと漂っている。
「美沙さん。今日、ご飯どうする?」
リビングの椅子に腰を下ろしながら、信吾が声をかけた。
「そうだね。何でもいいんじゃない?」
美沙はテレビのリモコンをいじりながら、気の抜けたように答える。
「うん、そうなんだけどさ、“何でもいい”が一番何でも良くないんだよなぁ」
信吾が苦笑混じりに返す。
「あっ、そういえばさ。カッピーに野菜以外の食べ物あげてみる?刺激物とか以外でさ」
美沙がふと提案する。
「うーん、そうだね。カッピーも大きくなってきたし、少しなら砂糖とか卵とかも食べても良いかもね」
信吾は腕を組んで考え込むように言った。
そんな他愛もない姉弟の会話をしている最中、突然インターフォンが鳴った。
「ん?誰だろ?」
信吾がモニターを覗くと、そこには見覚えのある男が立っていた。
「……えっ?熱男?」
信吾の目が丸くなる。
「美沙さん、熱男がいるよ」
「え、あの熱男?」
美沙も目を見開いた。
ドアを開けると、そこに立っていたのは懐かしい顔。
精悍な顔つきに、厚手のネルシャツとダウンベスト。肩からはBBQグリルのストラップバッグが下がっている。
にかっと笑うその男――
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熱男こと熱田真人。
信吾の会社の元同僚で、熱量高めの体育会系。
BBQと本気で向き合うため、BBQマスターになると言って会社を辞めた変わり者。
現在は奇跡的に人気配信者になっている。
また、地元テレビでは『熱男から熱を込めて』というコーナーを担当している。
(※詳しくは『ドラゴンの飼い方教えます』第5・8・24・45話参照)
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「おぉ、久しぶりだな。部屋引っ越したんだったら言えよ。誰も居ない部屋のインターフォン連打してたから、不審者に思われたらどうしようかと思ったぜ」
熱男が笑顔で言う
「いや、十分不審者だろ。警察沙汰になったらシャレにならないだろ。まぁ入れよ」
信吾が呆れながらも笑う。
熱男がリビングに足を踏み入れる。
部屋の中をぐるりと見回し、テーブルの椅子に座った。
美沙がお茶を入れに行く。
湯気が立つ湯呑みをテーブルに置くと、香ばしい香りがふわりと漂った。
「そういえば、熱男。すっかり有名人だな?」
信吾が軽く笑う。
「いやいや、でもありがとな。俺もこんな風になるなんて思わなかったぜ」
照れくさそうに頭を掻く熱男。
「なんか配信始めたのは知ってたけど、いつの間にか人気になってたもんな」
信吾が感心したように言う。
「いやー、そうなんだよ。最初は何していいか分からなかったから、とりあえず“一人キャンプ”に対抗して“一人BBQ”を配信してたんだ。そしたらちょっとだけ注目されてさ。でも途中で寂しくなって、“一人じゃないBBQ”を配信するようになったんだよね」
熱男が胸を張る。
「いやいや……それ普通のBBQじゃない?」
信吾が苦笑する。
「まぁそうなんだけどさ。でも、それが有名なインフルエンサーの目に止まってコラボしたら、俺がバズるんだから世の中ってほんと分かんないよな」
熱男が笑う。
「本当にそうだな。でも、急にどうしたんだ?忙しいだろ?」
信吾が尋ねた。
「まぁ最近はちょっと忙しくさせてもらってるんだけどさ。少しでも時間ができたら、今までお世話になった人に感謝を伝えて回ってるんだ」
その言葉には、どこか真面目な響きがあった。
追加のお茶を持って戻ってきた美沙が言う。
「熱男って何にも考えてないように見えるけど、そういう律儀なとこあるよね」
「えっ、それって褒め言葉?」
苦笑する熱男。
「まぁいいじゃん」
信吾が笑う。
「それに、ゴンちゃんに会えたのは俺の良い思い出だしな」
熱男はふと、壁の向こうの防水シートが貼られた部屋を指さした。
「ところであの部屋、何だ?きゅうり落ちてるし」
「あぁ、今はカッパと暮らしてるからさ」
信吾があっさり言う。
「……は?」
次の瞬間、風呂場から水音がして、ぷかぷか浮かんでいたカッピーがひょっこり顔を出した。
興味津々に熱男のほうへ近づいてくる。
「な、な、なんだコイツ!?」
目を丸くする熱男。
「カッピーって言うんだよ」
美沙が笑いながら言う。
「いやードラゴンの次にカッパって……何かお前ら統一感無いなぁ!」
熱男が謎の突っ込みを入れる。
「そこじゃないだろ、突っ込むとこ!」
信吾が慌てて返す。
しかし数分後には、カッピーと熱男はすっかり打ち解けていた。
熱男の笑い声が絶えず、部屋の空気が一気に明るくなる。
「熱男ってすごいな。すぐに仲良くなってるし」
椅子に座った信吾が感心する。
「本当だよね。そういうところが人気の秘密かもね」
美沙が微笑む。
しばらくして、熱男が時計を見て立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行こうかな。次の配信の準備もあるし」
その時、リビングのテーブルに置かれた一枚の紙に目を留めた。
「ん?信吾、この紙なんだ?」
「あぁ、嘆願書だよ。今、署名活動してて」
信吾が答える。
「あっ、熱男に協力してもらえばいいんじゃない?」
美沙がひらめいたように言う。
「うん?何を?」
首を傾げる熱男。
信吾と美沙は、この地域で起きようとしている開発計画のことを簡潔に説明した。
熱男は真剣な表情で聞き終えると、拳をぐっと握りしめた。
「……何だそれは!緊急事態じゃねえか。俺が出来ることであれば、何でもやるぞ!」
その声はいつになく熱を帯びていた。
「ありがとう。助かるよ」
信吾が感謝を込めて言う。
熱男はにかっと笑い、カッピーの頭を撫でた。
「任せとけ。俺が本気を届けてやるよ」
冬の風が窓を鳴らした。
リビングの灯りの中で、信吾と美沙は思わず顔を見合わせて微笑む。
――その熱は、確かに誰かの心を動かす力を持っていた。
微力だと思われていた嘆願書の署名活動は、熱男の情熱的な発信によって大きな注目を集め始める。
風向きは少しずつ変わりつつあった。




