第34話『川辺を照らす声』
第34話『川辺を照らす声』
信吾と小林は、川辺の調査のために現地を訪れていた。
夕暮れの名残が空の端にわずかに残り、町はゆっくりと夜の色へと沈んでいく。
街灯が川面に映り込み、風が水草をさらりと撫でた。
その音は、まるで夜の訪れを告げる小さなささやきのようだった。
「すっかり遅くなってしまいましたね」
小林が息を白くしながら言った。
「いや〜、そうですね。結局あの後、カッピーの食べてたきゅうりを見て、“かっぱ巻きって最近いつ食べたっけ?”って話になって……最終的に“おにぎりの海苔はパリパリ派かしっとり派か”で一時間くらい盛り上がってましたよね」
信吾が笑いながら肩をすくめる。
「意外と白熱してしまいましたね」
小林は少し困ったように笑った。
「おかげで時間遅くなっちゃって、美沙さんとカッピーはお留守番になっちゃいましたしね」
信吾が軽く手をポケットに入れながら言う。
「まぁ、夜は何かと危ないですし。正解かもしれませんね」
小林が頷く。
「それにしても、小林さんと美沙さんって、やっぱり好みが正反対ですよね。でも、なんか美沙さんすごく楽しそうだったですし、意外と気が合うかもしれないですね」
信吾が口元を緩めて言うと、
「ははは、そうですかね」
小林は少し照れくさそうに笑い、首の後ろをかいた。
二人の間に、冬の風がそっと吹き抜けた。
川面には淡い光が揺れ、街の灯がゆらゆらと映り込む。
虫の声はなく、風が葦を揺らす音だけが夜気の中に溶けていた。
「夕方の川辺って、静かですね……」
小林が懐中電灯を照らしながらぽつりと呟く。
「ええ。でも、この静けさも今だけかもしれません」
信吾は暗がりの向こう、遠くに続く川の流れを見つめた。
「この辺り、高城議員たちの計画通りに埋め立てられたら、川の流れが変わって、生態系も崩れるって言われてるみたいです。魚の産卵場所も減るし、鳥たちの休憩地もなくなる……それに、カッピーたちの住処だって……」
小林は真剣な眼差しでメモを取る。
風がページを揺らし、ペン先が紙を擦る音が静かな夜に響いた。
「……なるほど。思っていた以上に事態は深刻かもしれませんね。数字や地図だけじゃ伝わらない“現場の声”って、こういうことなんですね」
小林は小さく頷いた。
その時、背後から雪を踏むような音が近づいてきた。
振り返ると、懐中電灯を持った男性がゆっくりと歩いてくる。
光がその顔を照らすと、見覚えのある姿が現れた。
「あっ、森田さん。こんばんは」
信吾が笑顔で手を振る。
「山之内さん、こんばんは。こんな時間にどうしたんです?」
森田は少し驚いたように眉を上げた。
「はい。今日は、森田さんとも前に話していた件で来てます。高城議員が進めようとしている川辺の埋め立て計画について、調べに来ました」
信吾は隣にいる男性を紹介する。
「こちら、新聞記者の小林さんです」
「えっ、記者の方?」
森田が目を丸くする。
「はじめまして。地元紙の小林と申します。山之内さんから情報をいただいて、この辺りの現状を取材しています」
小林が丁寧に頭を下げた。
「そうなんですね。私も、誰かがこの問題を真剣に取り上げてくれるのを待っていました」
森田の顔に笑顔が浮かぶ。
「今、こちらでも嘆願書の準備も進めてるんですよ」
信吾が言う。
「嘆願書……?」
森田の表情がわずかに曇った。
「どうしました?」
信吾が首をかしげる。
森田は少し目を伏せ、苦笑いのような微笑みを浮かべる。
「いや……本来なら、私がこういうことをやらなきゃいけないのに。何もできていない自分が、ちょっと悔しくなって」
「いやいや、そんなことないですよ。こういうのは誰がやるかじゃなくて、みんなで動くことが大事なんですし」
信吾の言葉はまっすぐで、優しかった。
少しの沈黙のあと、信吾が思い出したように言う。
「そうだ。せっかくですし、小林さんの取材、受けてもらってもいいですか? ぼくなんかよりずっとこの場所のことをご存知ですし。」
森田は少し戸惑ったように視線を泳がせる。
「取材……ですか。うーん……あんまり得意じゃないんですけど……」
「私からもお願いします」
小林が静かに頭を下げた。
「もちろん、顔も名前も出しません。現場を知る人の声が、一番力になるんです」
森田は数秒考えたあと、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。私でよければ、話します。」
風が川面を撫でた。
その風に、森田の髪がふわりと揺れた。
彼の瞳の奥には、なぜか戸惑いと、焦りの色が見えた。
――静かな川辺に、三人の足音が並ぶ。
その音は、やがて新しい“声”へと変わっていく。
夜の川は、何も語らない。けれど、確かに聴いている。
小さな声でも、本気の想いは、きっとどこかへ届く――。




