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第32話『興味と恐怖のあいだで』

第32話『興味と恐怖のあいだで』


 慎吾たちが嘆願書の提出に向けて真剣に話し合いを進めていたそのころ——

 一方、家の奥の浴室では、まったく別の小さな事件が静かに始まろうとしていた。



 湯気の残る浴室の片隅。

 浴槽の中で、カッピーは半身を水に浮かべながら、じっと耳を澄ませていた。

 扉の向こうから、人の話し声が聞こえてくる。

 慎吾、美沙、いさむん、そして桜小路さん——聞き覚えのある音の響き。


 カッピーは小さく頭を上げ、濡れた前足を浴槽の縁にかけた。

 ぴちゃ、と雫が床に落ちる。

 それをきっかけに、カッピーはそっと浴槽から抜け出し、濡れた体を小さく震わせた。

 そして、浴室の戸の前まで歩いていく。

 鼻先で、戸の隙間を少し押す。

 『ぎい』とわずかな音。

 開いたすき間から廊下をのぞくと——そこに、白い影があった。


 


 ふわりと光を受けて輝く毛並み。

 サモエドのルネが、浴室の前の廊下に伏せていた。

 通路をふさがぬよう、わずかに身を引いた位置で静かに待っている。

 黒い瞳が、優しくこちらを見つめていた。


 カッピーの体がびくりと震える。

 小さな足が止まり、水滴が床にぽつりと落ちた。

 しばしカッピーとルネは見つめ合う。


 ルネは動かない。

ただ尾をゆっくり何度か振った。

 “怖くないよ”とでも言うように。


 それでもカッピーは、浴室の敷居をまたぐことができなかった。

 ルネはその様子をじっと見つめ、やがて鼻先を少し下げる。

 そして、ごく自然な動作で顔を横に向け、廊下の端を見つめた。


 ——その仕草には、相手の小さな勇気を信じて待つような、静かな思いやりがあった。



 カッピーは小さく瞬きし、ためらいがちに前足を一歩出した。

 床板の感触が冷たい。

 そしてもう一歩。


 ルネの横を通りかかると、白い尻尾の先がかすかに揺れた。

 光の粒を散らすように柔らかく。

 その動きにカッピーの目が引き寄せられる。


 指先が白い毛に触れた瞬間、カッピーの体がぴくりと跳ねる。

 温かく、やわらかく、包み込むような感触。

 そのわずかな触れ合いに、この瞬間は恐怖よりも興味が勝った。

 ルネの尾が嬉しそうにもう一度だけ揺れる。


 だが次の瞬間——

 ルネの胸の奥から、低く短い声が漏れた。


 「ワンッ」


 それは驚かせるつもりではないが、

 ただ嬉しさがあふれた一声だった。


 しかしカッピーはびくんと体をのけぞらせ、後ろへ飛びのいた。

 水の雫が散り、戸の向こうへ戻っていく。


 ルネは耳を伏せ、鼻先を床に近づけた。

 小さく喉を鳴らし、反省するように息を吐く。


 廊下に静寂が戻った。

 浴室の戸のすき間から、カッピーの丸い目がそっとのぞく。

 互いにどうしていいのか分からず、ただ見つめ合っていた。


 その距離はまだ遠い。

 けれど、ほんの少しだけ——温かいものが間に生まれていた。



---


 一方そのころ、リビングでは——。


 嘆願書の話がひと段落し、皆がほっと息をついたころ、

 桜小路さんがふと顔を上げた。


 「慎吾さん、そういえば……今日はカッピーはどうしたのかしら?」


 慎吾が目を見開く。

 (あっ、やばい。カッピーのこと、すっかり忘れてた。)

 「カッピーはお風呂場にいますよ。もしかしたら寝ちゃってるかもしれません。」と

信吾が苦笑いを浮かべて言った。


 美沙が首をかしげる。

 「でも、ルネが風呂場の前にいたから出られないかも。前にも怖がってたし。」


 その言葉に桜小路さんが「あら」と目を丸くし、

 「それなら見に行ってあげましょう」と立ち上がった。

 慎吾と美沙といさむんと顔を見合わせて後に続く。



---


 全員で廊下へ向かうと——そこには、

 浴室の戸の前に静かに伏せるルネと、

 その隙間から顔をのぞかせるカッピーの姿があった。


 慎吾が苦笑を漏らす。

 「ごめんな。気づかなくて。やっぱり、まだ怖いのか。」


 美沙がカッピーをそっと抱き上げる。

 小さな体に、白い毛がふわりとついていた。


 「でも、そうでもないみたい。ルネの毛がついてるし。」

 美沙が嬉しそうに言うと、桜小路さんは目を細め、優しく微笑んだ。


 その笑顔は、春の陽だまりのようにあたたかく、見ているだけで心をほぐすような優しさがあった。


 「良かったわ。少しずつ仲良くなっているのね。」


 その声に、ルネがゆっくり顔を上げた。

 慎吾が頭を撫でながら言う。


 「遊びたかったけど、我慢したんだな。えらいぞ、ルネ。」


 ルネは目を細め、尾を静かに振った。


 カッピーは美沙の腕の中で、その様子をじっと見つめる。

 瞳の奥で、何かがほんの少し動いた。


 「クゥ……」


 小さな音がこぼれる。

 それは、恐怖よりも“次”への興味が混じった声だった。



---


 ——興味と恐怖のあいだで、二つの命は一歩ずつ距離を縮めていく。

 その歩幅は小さくても、確かな前進だった。


 窓の外では、雪が静かに舞い落ちていた。

 白と水のあいだで、二つの命が、ゆっくりと寄り添おうとしていた。


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