第31話『想いの重み』
第31話『想いの重み』
部屋のインターフォンが鳴ってからほどなくして、桜小路さんが玄関に現れた。
淡いクリーム色のコートを羽織り、穏やかな笑みを浮かべながらも、その瞳には確かな意志の光が宿っている。
その背後では、ルネが静かに伏せの姿勢で廊下に待機していた。まるで家の中の空気を読み取るように、凛とした静けさを漂わせている。
「今日は突然申し訳ないわね。」
桜小路さんはゆっくりと上がりながら言った。
「伊東さんから話は聞いていると思うけれど、嘆願書の件で今日は来たの。さっき赤荻さんにもお伝えしていたわ。」
信吾が立ち上がり、軽く頭を下げた。
「そうなんですね。全然気にしないでください。ぼくらもさっきその話を聞いたところです。」
いさむんも立ち上がり、丁寧に会釈した。
「桜小路さん、わざわざありがとうございます。お忙しいところ申し訳ございません。」
「いえ、むしろ声をかけて頂いて感謝してるわ。それに、このことは私にとっても他人事ではありませんの。」
桜小路さんはすっと椅子に腰を下ろし、美沙が差し出した湯呑みに指を添えた。その所作の一つひとつに、長く人の上に立ってきた者の気品がにじむ。
しばらく静寂が流れたのち、桜小路さんが真っすぐにいさむんを見た。
「伊東さん。それで嘆願書は、いつ頃提出するおつもりですか?」
「そうですね……署名の人数にもよりますが、できる限り早めに提出したいと思っています。」
いさむんは答えながら、背筋を少し正した。
その様子を見ていた信吾は、思わず口元を緩める。
(さすがに桜小路さんの前で“いさむんって呼んでください”とは言わないか……)
視線を送ると、いさむんが気づいたように小さく咳払いをして目を逸らした。
美沙が吹き出しそうになるのをこらえ、そっと湯呑みを置いた。
重たい話題の中で、そんな小さな空気の揺らぎが場を少し和ませた。
しかし、いさむんはすぐに表情を引き締めた。
「ただ、今回の件は簡単じゃないですよ。」
桜小路さんが頷く。
「開発計画を推進している中心人物は、やはり高城進議員ですね?」
その名が出た瞬間、信吾の顔が少し硬くなった。
(最近、よく耳にする名前だな……)
美沙も眉を寄せた。
「テレビで見ました。“地域の発展のために”って言ってましたけど……。」
「そうですね。彼はまだ若くて、弁が立つ。それに“地域の発展”と言えば正しいように感じますから。」
いさむんは静かにため息をついた。
桜小路さんはゆっくりと頷き、湯呑みを見つめながら語り始めた。
「実はね、桜小路家は彼のお父様の代の頃に支援をしていたの。彼のお父様がまだ市議会議員だった頃は、希望と行動力に満ちた素晴らしい方だったわ。でも、国会議員になり大臣を務めるようになってから、少しずつ変わってしまったの。その古い体質が、息子の進さんにも受け継がれてしまったようね。」
その表情には、どこか悲しげな影が差していた。
「高城は、表向きは“地元の発展”を掲げていますが……」
いさむんは湯呑みを静かに置き、言葉を続けた。
「高城が本当に見ているのは“人”ではなく、“数字”なんです。予算、献金、票。それだけですよ。」
その言葉に、信吾と美沙の胸に怒りと悲しみが交錯した。
しばし、部屋の中を沈黙が支配する。
「それに高城の計画では、川辺を埋め立てて物流拠点を作るつもりらしいです。」
いさむんの声が再び響いた。
信吾は拳を握りしめる。
「どうにか止めたいですね……。でも、ぼくらが動いても相手は政治家だし、簡単には聞く耳を持ってくれないですよね。」
桜小路さんは静かに頷いた。
「ええ。だからこそ、“形”が必要なの。個人の声では届かないことも、署名や嘆願書なら届くことがある。行政も議会も、“紙の重み”には敏感だから。」
その声は落ち着いていたが、芯の強さを感じさせた。
いさむんがカバンから数枚の書類を取り出す。
「ここに嘆願書の草案があります。短い時間にはなりますが、できる限り多くの署名を集めましょう。」
美沙が力強くうなずいた。
「はい、頑張りましょう。できることは全部やりたいです。」
信吾が少し心配そうに言った。
「でも、そんなに時間も無いし、頑張っても、そんなに署名は集まらないんじゃ……?」
いさむんは軽く笑って言った。
「そんなことは無いですよ。私の想いを知れば、賛同してくれる人はきっといますよ。それにここには、一人で何千人分もの力を持った方もいますし。」
桜小路さんが目を細めて微笑んだ。
「まぁ、そうなるわね。」
美沙が小さく笑ってうなずいた。
「ですよね。桜小路さんが味方でいてくださるだけで、百人力です。」
信吾が少し不安げに口を開いた。
「でも、さっきのお話だと……支援してたわけですし、対立すると桜小路さんのほうもまずいんじゃ……?」
美沙が即座に口を挟んだ。
「バカね。あの天下の桜小路家と対立して困るのは、高城側に決まってるじゃない。」
一瞬、信吾といさむんが苦笑いを浮かべた。
美沙はすぐに気づいて慌てて頭を下げる。
「あっ、すみません、桜小路さん。私、出しゃばっちゃって。」
桜小路さんはやわらかく笑った。
「全然構わないわ。気にしないで。でもね、あなたたちは私のこと、普通のおばさんだと思って接してちょうだいね。」
その声には、上品さと温かさが同居していた。
その瞬間、場の空気がふっと和らいだ。
「信吾さん、美沙さん、伊東さん――」
桜小路さんは一人ひとりを見渡し、静かに微笑んだ。
「でもね、これだけは覚えておいてほしいの。確かに私が動けば、普通の人より少しは影響力があるかもしれない。でも、想いの重さは皆と変わらないわ。だから、一緒に頑張っていきましょう。仲間として。」
その言葉に、その場の誰もが無言でうなずいた。
窓の外では、冬の陽がゆっくりと傾き、部屋の中に淡い橙の光を落としていた。
その光の中で、それぞれの胸の中に――“想いの重み”が静かに形を取り始めていた。




