第26話 『カッピーの大好物』
第26話 『カッピーの大好物』
夕方。
マンションの窓から見える空は、うっすらと朱色に染まっていた。
雨上がりの空気はしっとりと湿っていて、遠くで電線が雨粒を落とすたびに、かすかに光を弾いていた。
信吾はキッチンに立ち、包丁でリズミカルに食材を切っていた。トントン、トントン――。その音が部屋の中に軽やかに響く。
カッピーはいつもの桶の中でおとなしく浮いている。リビングのテーブル上には、すでにきゅうりが三本並んでいた。信吾達の料理が出来るのをじっと待っているようだった。
「そういえばカッピーって、きゅうり以外だったら何が好きなのかな?」
信吾はまな板の上に並んだ具材を見ながら、ふと呟いた。
隣で湯気の立つ味噌汁をよそっていた美沙が顔を上げる。
「確かにね。いつもきゅうりばっかりだし、食べられそうなものは試してみてもいいかもね」
「でも刺激物は避けたいよな」
「うん、それは大事。」
信吾は頷き、少し考え込むように手を止めた。
「極力、自然界にあるもののほうがいいんだよな。あんまり人工的な食べ物は避けたいし」
「うーん……それはそうなんだけどさ」
美沙はおたまを持ったまま、少し笑って首を傾げた。
「でもさ、それ言い出したら、自然界でカッパがきゅうり食べることあるの?」
「……あ」
信吾は包丁を握ったまま固まった。
たしかに、川に生えてるわけでもない。自然界でカッパがきゅうりを手に入れるのは、ちょっと不自然な話かもしれない。
だが、カッピーがきゅうりを嬉しそうに食べる姿を思い出すと、それもどうでもよくなった。あの「クゥ」と鳴いて、頭の皿をピカピカさせながら食べる姿――。
あれを見ると、きゅうりがカッピーにとっての“ごちそう”であることは間違いなかった。
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「……あ、ちくわならいいかも」
信吾が思い出したように言う。
「原材料は魚のすり身だし、川魚じゃないけど、まぁ近いっちゃ近いし」
信吾は少し得意げに包丁を持ち直し、笑みを浮かべた。
「いいかもね」
美沙が頷き、冷蔵庫を開けた。
「何なら、穴のところにテーブルにあるきゅうり入れれば?」
「お、それはナイスアイデア」
信吾は嬉しそうに笑い、目を輝かせながら包丁を構えた。
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
まな板の上に、ちくわときゅうりが並ぶ。
信吾はきゅうりを細く切り、ちくわの穴に丁寧に通していく。
スッと通った瞬間、思わず嬉しくなって「よし」と小さく声を上げた。
美沙がその様子を横で見ながら、からかうように言う。
「そんな真剣な顔で作るもんじゃないでしょ」
「いや、こういうのは丁寧にやらないと、ちくわが割れるんだよ」
信吾は真顔で返しながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
「なんかプロ意識だね」
美沙が肩をすくめながら笑う。
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やがて「ちくわきゅうり」が完成した。
皿に乗せると、意外なほど彩りがよく見えた。白いちくわに、緑のきゅうりが映える。
「よし、試してみようか」
信吾がリビングに皿を運ぶ。
カッピーは、すでにテーブルの前でいつでも食べられるような姿勢で待っていた。
皿がテーブルに置かれると、目がまん丸になった。
鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。
そのあと、ゆっくりと一口――。
――バクッ。
一瞬で噛みついた。
そして、あっという間に平らげた。
「クゥッ!」と短く鳴き、もう一本に手を伸ばす。
信吾と美沙は思わず顔を見合わせた。
カッピーは次々とちくわきゅうりを平らげ、皿の上が空になると、じっと信吾を見上げた。
その目は、明らかに“おかわり”を求めている。皿の縁に手を置き、「クゥ」と控えめに鳴いた。まるで遠慮がちな子どもみたいだった。
信吾が追加のちくわきゅうりを作って持ってくると、また夢中で食べ始めた。
その姿を見ながら、美沙が微笑んで呟く。
「なんか……食いしん坊の子どもみたいだね。好きなもの食べてる時の顔が」
「うん。ほんとにそう」
信吾も笑う。
「食べてるだけで、見てるこっちまで嬉しくなるな」
リビングには、まったりとした空気が流れていた。
外の夕焼けは徐々に夜の色へと変わり、窓の外には街の灯りがぽつぽつと灯り始めている。
カッピーは満腹になったのか、桶の中でごろんと横になり、頭の皿を小さく光らせていた。
信吾がふと呟く。
「人間だってそうだけど、好きなもの食べてるときが一番幸せなんだろうな」
「うん。きっとそう。カッピーも、川で暮らしてた頃、好きな食べ物とかあったのかな」
美沙は箸を置き、遠い目をして微笑む。
「もしかしたら……私達が想像してない食べ物だったりしてね」
――カッピーの大好物は、もしかしたら“きゅうり”でも“ちくわ”でもないのかもしれない。
家族と一緒に食卓を囲んで、温かい時間を過ごすこと。それが、いちばんの“ごちそう”なのだろう。
夜の帳が静かに降りていく中、カッピーは丸くなって眠りについた。
皿の端には、一本だけ残ったちくわきゅうりが光を反射していた。
まるで、それがカッピーの小さな幸せの証のように。
――今日もまた、ひとつ“好きなもの”が増えた。そんな小さな発見が、この家に優しい灯をともしていた。




