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第22話 『眠り沼を見つめる二つの目』

第22話 『眠り沼を見つめる二つの目』


 朝の空気は澄みきっていて、遠くの山並みがくっきりと見えた。

 冬の光が川面に反射し、細いきらめきが流れに揺れる。

 信吾はリュックの肩紐を直しながら、息を白く吐いた。


 今日は、森田と約束した「眠り沼」調査の日だった。

 美沙が手袋をはめながら言う。

「本当に“眠り沼”って名前、ちょっと怖いよね。昔から何か伝承とかあるのかな」

「さあ……けど、森田さんが“自然が残ってる場所”って言ってたし、たぶん静かな所だよ」

 信吾はそう言って笑ったが、胸の奥に小さなざわめきを覚えていた。

カッピーはというとカートの中で保湿効果のある薄手のマイクロファイバータオルにくるまっていた。湿気を逃がさず保水効果もある素材で、カッピーも安心しているようだ。

 森田はすでに車のそばで機材を積み込んでいた。

「おはよう。二人とも。今日は天気が良くて助かったよ。カッピーも元気?」

「クゥ!」

 カッピーが小さく鳴く。

森田の声に応じたように見えた。

「よし、元気だな。今日の目的地までは車で近くまで行った後、少し歩くけど――無理はしないようにしよう」

「はい!」と信吾が元気よく答える。


 エンジンがかかり、車がゆっくりと町を抜けていく。

 家々の屋根にはうっすらと霜が降り、冬の日差しに溶けてきらめいていた。


「ずいぶん遠くまで行くんですね。カッピーと私が出会った場所から、だいぶ離れてる気がします」

 美沙が窓の外を眺めながら言う。

 運転席の森田が頷いた。

「そうだね。地形的には同じ水系だけど、こっちは山の伏流水が湧く湿地帯なんだ」

「へえ、カッピーたちの仲間もいそうですね」と信吾。


 森田は運転席でハンドルを握りながら、助手席の信吾に資料を手渡した。

「“眠り沼”はね、昔から地元でちょっとした伝承が残っているんだ。“春を呼ぶ前に眠る沼”って言われてて、冬になるとどんな生き物も姿を消す。でも春になると一斉に蘇る。まるで命のサイクルを守る場所みたいだ」

 信吾は資料を見つめながら答えた。

「それ、カッピーの仲間達が冬眠してる場所なのかもしれませんね」

 森田は目を細めてうなずいた。

「僕もそう思う。水質も良好で、外敵も少ない。まさに“眠るには最適な場所”さ」


 その時、車内に流れるラジオから、地元ニュースが流れた。

 ――『議会で、新たな開発計画が発表されました。中心となるのは若手議員の高城進氏。地域経済の活性化と雇用創出を目的に、川辺一帯の土地利用を進めるとのことです』


 その瞬間、森田の表情が少し曇った。

「……嫌なタイミングだな」

「どうかしたんですか?」と信吾が尋ねる。

「いや、“川辺一帯”って言葉が引っかかる。おそらく、眠り沼の下流域も含まれてるはずだ」

 森田は小さく舌打ちした。

「開発と称して自然を削る連中は多いけど、自然は一度壊したらもう戻らない。僕が調査して、何か守るべき証拠を見つけなきゃな」


 森田の声には、静かな決意の熱が宿っていた。

 信吾は無意識に拳を握っていた。

 車はさらに奥地へと進む。道が細くなり、周囲の木々が高く立ち並ぶ。


「この先、車入れるんですか?」

「ギリギリここまでだな。この先は歩こう」

 森田の言葉に、信吾と美沙はリュックを背負い直した。


「けっこう細い道ですね。カートがちょっと詰まっちゃいました」

 カートを押していた美沙が振り返りながら笑う。

 小さな車輪が土の段差にとられ、きゅっと音を立てた。

「はは、確かに。ギリギリ通れたな」

「でもなんか、この先に“何かある”って感じしません?」

 四人は林道を歩き出した。


 やがて開けた視界の先に、霧に包まれた沼地が姿を現した。

 そこが“眠り沼”――冬でもなお湿り気を保つ、静謐な場所だった。

「……なんかすごいですね。まるで時間が止まってるみたい」

「本当に“眠ってる”って感じね……」

 二人の声は自然と囁きになるほど、静かな空気が満ちていた。


「今まで誰もここって調べたことってないんですか?」

 信吾の問いに、森田は首を振る。

「僕も昔、仲間と一度だけ来たことがある。でもあの時は何も見つからなかったよ。ただ――何かを感じた。ここは、生き物たちが“静かに息を潜める場所”なんだ」


 風も音も吸い込むような静けさ。

 水面は薄い氷に覆われ、太陽の光を淡く跳ね返していた。

 それでも、どこかで「ぽちゃん」と小さな音がした気がした。

 その一瞬の響きが、確かに命の気配を伝えていた。


 カートの中でカッピーがもぞもぞと動き、森の空気をくんくんと嗅いでいた。

「この場所……カッピー、知ってるの?」

 信吾が尋ねると、カッピーは小さく「クゥ」と鳴き、まるで頷いたように見えた。

 森田はそれを見て静かに微笑む。

「やっぱり、ここだな」


 三人は眠り沼の調査を始めた。

カッピーはカートの中でなんだか楽しげな表情をしていた。

 森田の指示の元、水温を測り、採水ボトルを並べ、氷越しの写真を撮る。

 そのどれもが、自然の美しさと脆さを同時に映し出していた。



---


 同じ頃――。


 町の中心から少し離れたビルの上階。

 分厚いガラス越しに川の流れを見下ろしながら、一人の男が背もたれに体を預けていた。


 高城進――地元の地方議員。三十代半ば、スーツの肩には高級な仕立ての光沢があった。

 机の上には「河川沿岸再生プロジェクト」「産業拠点整備」などの美辞麗句が並んだ資料が山積みになっている。


「先生、本当に進めるおつもりですか?」

 秘書が恐る恐る尋ねた。

「環境への影響が大きいと指摘されています。湿地帯の生態系にも――」


「あぁ、別にいいんだよ、そんなものは」

 高城はコーヒーを口にしながら、淡々と答えた。

「“再生”って言葉を使えば、誰だって納得する。それに、俺が推進すれば地元企業が動く。雇用も生まれる。表向きは“善”だ」


「……裏では?」

「裏では、金が回る。票もつく。親父の支持者も“若い力”って喜ぶさ」

 高城はにやりと笑った。

「結局、政治ってのは結果だよ。何を守ったかじゃなく、誰を動かしたか、だろ」


 秘書が小さく眉をひそめる。

「これが成功したらついに国政ですか?」

「まぁ。そろそろ地方議員なんて肩書きはもういいだろ。親父ももう歳だし、次は選挙は出ないらしいしな。もう地盤は固まっただろ。どうせ国政に行くなら、何年か後には環境大臣あたりをやりたいな。“自然を守る政治家”――いい響きだろ?」


 高城は窓の外を眺める。

 遠くに、静かに蛇行する川が見えた。

「……あの川辺を埋め立てれば、工事は一気に進みます。眠り沼のあたりも含めて」

 秘書がつぶやくように言った。

「眠り沼……? 何だそれ?」

 高城が眉をひそめる。

 秘書は手元の資料をめくりながら答えた。

「この川辺の下流の一部がそう呼ばれてるそうです。まだ生態系が把握されていない区域もあるようで……追加の調査が必要かと」

「調査は形だけでいい。結果は“問題なし”にしておけ。どうせ誰も行かないような場所だ。文句を言う奴もいないだろ」


 高城の瞳は冷たく光った。

 まるで、自然の命さえも数字にしか見えていないようだった。

「この町は変わる。俺が変えてやるよ。金も票も影響力も――そして、その先には国政がある。ここはその踏み台なんだよ」


 冬の風がビルの外壁を鳴らし、乾いた音を立てた。



---


 一方その頃、眠り沼のほとりでは――。


 昼の光が氷の上で柔らかくきらめき、森の静けさを照らしていた。

 昼の調査を終えた信吾たちは、岸辺に腰を下ろし、温かい飲み物を手にしていた。


「ねえ森田さん、もしこの沼が開発されたら……どうなっちゃうんですか?」

 信吾の声は、冬の空気に吸い込まれるように静かだった。

「開発されて環境が変われば、周りの生き物は生きられなくなる。カッパのような小さな種は真っ先に姿を消すだろう。それに開発の途中で他の人間に見つかれば、見せ物にされるかもしれない」

 森田の言葉には、痛みが滲んでいた。

「そんな……」と信吾が呟く。


 美沙はそっとカッピーの頬を撫でた。

「大丈夫。私たちが守るからね」

 カッピーは「クゥ」と鳴き、嬉しそうに手足を揺らした。

 光が水面に反射し、小さな波紋が広がる。

 まるで、“ここが自分たちの居場所だ”と語りかけるように。


 森田は静かに言った。

「守らなきゃいけないんだ。この場所は」


 その言葉に、信吾も美沙も頷いた。

 風が木々を揺らし、昼の空が高く澄み渡っていた。



---


 同じ頃、高城は再び窓辺に立っていた。

 冷たい風がガラスを叩く。

 高城はコーヒーを飲みながらゆっくりと遠くにある、その川を見下ろしていた。


 誰かの願いが、生き物を守ろうとする一方で、誰かの野心が、その居場所を奪おうとしていた。

 静かな眠りの底では――確かに、波が生まれ始めていた。



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